蓮 (駆逐艦)
艦歴 | |
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計画 | 1917年度(八四艦隊計画) |
起工 | 1921年3月2日 |
進水 | 1921年12月8日 |
就役 | 1922年7月31日 |
除籍 | 1945年10月25日 |
その後 | 船体は福井県四箇浦港の防波堤 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:770t |
全長 | 83.82m |
全幅 | 7.93m |
吃水 | 2.44m |
主缶 | ロ号艦本式罐・重油焚3缶 |
主機 | パーソンス式オールギヤードタービン2基2軸 21,500hp |
最大速力 | 36.0kt |
航続距離 | 14ktで3000海里 |
燃料 | 重油250t |
乗員 | 107名 |
兵装 | 12cm単装砲3門 53cm連装魚雷発射管2基4門 6.5mm単装機銃2基 |
蓮(はす)は、日本海軍の駆逐艦。樅型駆逐艦の17番艦である。
艦歴
[編集]1921年(大正10年)3月2日、浦賀船渠で起工。12月8日進水。1922年(大正11年)7月31日竣工。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争に参戦。上海において巡洋艦「出雲」、砲艦「鳥羽」と共に、イギリス砲艦「ペテレル」 (HMS Peterel) を撃沈し、米砲艦「ウェーク」を捕獲した。その後、上海方面での船団護衛、哨戒作戦に従事。
1942年12月21日に「蓮」と駆逐艦「栗」は第六師団の輸送である六号輸送の第一船団(「神愛丸」、「第一眞盛丸」、「旭盛丸」、「乾坤丸」、「妙法丸」)と第二船団(「大井川丸」、「大平丸」、「帝洋丸」、「加茂丸」、「明宇丸」)計12隻(2隻船名不詳)を護衛して上海の呉淞を出発し、12月24日に馬公に到着した[1]。
1944年(昭和19年)8月2日、揚子江で触雷し、上海に曳航され約一ヶ月間修理を実施[2]。9月3日、修理を終えて現場に復帰[2]。
1945年(昭和20年)1月15日、香港で米空母艦載機の攻撃を受け損傷。上海で修理。2月16日、偶然に、北号作戦で北上する第四航空戦隊と遭遇。感激した「蓮」の堀之内艦長は四航戦からの誰何信号に「われ蓮、今より貴隊を護衛せんとす」と発信して艦隊の右正横3000mに占位したが、当時荒天ということもあり戦艦中心の艦隊速力について行けず、「蓮」は30分程で後落した[要出典]。6月25日、青島に回航。その後、大連と上海間における船団護衛、輸送任務に従事。
8月15日、青島で終戦を迎える。
9月中旬に日本に回航され、佐世保港に繋留。復員輸送に従事の計画であったが、再整備費用が多額を見積もられたため中止となる。
1948年(昭和23年)4月、佐世保港で解体され、船体は福井県丹生郡越前町四箇浦港の防波堤として使用された、とされることが多いが、遺構はなくまた、実際に現地で使用された記録は無いため、計画のみであったと推測されている。[要出典]
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』375-376頁による。
艤装員長
[編集]- 斎藤二朗 少佐:1922年3月1日 - 1922年7月31日
駆逐艦長
[編集]- 斎藤二朗 少佐:1922年7月31日 - 1923年11月1日
- (心得)直塚八郎 大尉:1923年12月1日 - 1924年12月1日
- 直塚八郎 少佐:1924年12月1日 - 1925年5月1日[3]
- 伊藤皎 大尉:1925年5月1日 - 1927年11月1日
- 井原美岐雄 少佐:1927年11月1日 - 1929年9月5日
- 伊集院松治 少佐:1929年9月5日 - 1931年12月1日
- 竹内馨 少佐:1931年12月1日 - 1932年4月23日
- 山田勇助 大尉:1932年4月23日 - 1933年5月25日
- 戸村清 大尉:1933年5月25日 - 1933年11月1日[4]
- 河合秀夫 大尉:1933年11月1日[4] - 1935年10月31日[5](1935年10月8日死去)
- 鈴木正金 少佐:1935年10月31日[5] - 1936年1月6日[6]
- 戸村清 少佐:1936年1月6日[6] - 1937年6月1日[7]
- 塚本守太郎 少佐:1937年6月1日 - 1937年12月1日[8]
- 松元秀志 少佐:1937年12月1日 - 1938年12月1日[9]
- 瀬尾昇 少佐:1938年12月1日 - 1939年9月25日[10]
- 笹川博 少佐:1939年9月25日 - 1940年10月15日[11]
- 松田九郎 少佐:1940年10月15日 - 1941年8月20日[12]
- 井内儀三郎 大尉:1941年8月20日 -
- 堀江弘 大尉:1942年10月20日 -
- 堀之内芳郎 大尉:1943年10月25日 -
- 中村苫夫 少佐:1945年5月15日 -
脚注
[編集]- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』271ページ
- ^ a b 『艦長たちの軍艦史』375頁。
- ^ 『官報』第3807号、大正14年5月4日。
- ^ a b 『官報』第2053号、昭和8年11月2日。
- ^ a b 『官報』第2651号、昭和10年11月2日。
- ^ a b 『官報』第2701号、昭和11年1月7日。
- ^ 『官報』第3122号、昭和12年6月2日。
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 昭和13年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第382号 昭和14年9月25日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第695号 昭和16年8月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800
参考文献
[編集]- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- 『官報』