コンテンツにスキップ

華浦医学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

華浦医学校 (はなうらいがっこう[注釈 1])は、明治時代初期に山口県佐波郡三田尻村(現在の防府市華浦二丁目[注釈 2])にあった医学校山口大学医学部の源流とされる[2]

概略

[編集]

1874年(明治7年)、「華浦医学舎」の名で、校長の鳥田圭三、副校長の福田正二を中心として開校した[3][注釈 3]。当時の山口県ではトップクラスの設備を有し、フランスから人体紙型模型(クンストレーク[注釈 4])、顕微鏡、外科器械などを購入したり、医科の原書を翻訳したりするなどして最新の西洋医学を教授したことから名声が高まり、県内外から学生が入学した。1877年(明治10年)7月をもって病院と医学校は廃止されたが、福田正二はこれに屈せず、私費で学校教育を継続しようとした。1880年(明治13年)に、山口県は洋医師の不足から医学校を復活させて「山口県医学校」と称して福田を校長に任じ、学生81人が集ったが、1882年(明治15年)に臨床実験が可能な附属病院の併設が義務化されると、当時の県の財政ではそれを備えるだけの財力がなかったことから、1883年(明治16年)末限りで医学校の継続は断念に至った。しかし福田正二は、この再度の廃校の後もなお、三田尻桑山の山麓で晩翠堂病院を経営しながら後進の養成に努めた。

教育の実際

[編集]

当時は寄宿教育で、入塾には保護者親族からの申請が必要で、春秋の2回帰省が許された。それ以外に親族の不幸があった場合は別途許可された。食費は白米6合と金1銭、授業料は月に50銭だった。休日は、小学校と同様であった。

教育内容は、1874年(明治7年)以降、ドイツ医学を主とし、オランダ語を基礎としてドイツ語を習得させていた。学生は11組のグループに分けられ、一緒に勉強していた。辞書、医学書の原書は、同じものが11組、11冊揃えられていた[6]。また、蔵書の汚れ具合から、洋学の語学力は他藩に比べてかなり高度であったこと、そして山口県におけるオランダ医学からドイツ医学への転換の原動力となったのは福田であったことが確認されている。

萩の乱

[編集]

校長の鳥田圭三はしばしば人体解剖を行い、洋書の翻訳もしながら学生を指導したが、1876年(明治9年)10月に前参議の前原一誠が突如萩で兵を挙げた萩の乱に際しては、負傷者の治療のため、医学校および病院の後事を副校長の福田正二に託して萩に急行し、萩市瓦町の蓮池院[注釈 5]を仮病院に充て、自ら院長として負傷者の救護にあたった。1879年(明治12年)、鳥田は病気により医学校と病院の職を辞し、福田が校長職を継いだ。

卒業生

[編集]

華浦医学校に学んだ者には、三田尻病院の創設者で佐波郡医師会会長や山口県医師会初代会長を務めた神徳一人[注釈 6]をはじめ、黒川周甫、尾崎麒一ら地元医師会の名士の他に、湯田の人中原政熊[注釈 7]、日本で初めて水銀体温計を製造販売した柏木幸助[8]などがいる。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「華浦」の読みは、防府市の地名としては「かほ」だが、同校の名は「はなうら」である。『防府医師会史』防府医師会 平成3年 p.12-16を参照のこと
  2. ^ 現在、松原児童公園がある場所で、同地には山口県立華浦病院・医学校跡の碑が建つ。防府市立華浦小学校に隣接しており、桑山の山麓の山口県立防府高等学校から徒歩10分たらず。[1]
  3. ^ ただし、『山口県会史』の大正2年の記述にあるように、山口県の側には華浦医学校について「もともと萩藩主が天保11年に萩に医師養成のため作った医学校好生堂を、その後山口に移し、それを更に防府に移したものだ」とする解釈がある[4]
  4. ^ 胎児標本が現在も防府市内の神徳家に保存されている[5]
  5. ^ 浄土宗の寺院で、長州藩の医学校・好生館の敷地に隣接していた。萩市瓦町47。
  6. ^ 三田尻病院付属の看護婦学校を出た水江しず(旧姓・北村)は、日本の女医の魁で東大外科教室に所属し、女性医師の学会発表者1号になった[7]
  7. ^ 詩人中原中也の養祖父になる。

出典

[編集]
  1. ^ 山口県立華浦医学校2019年8月30日閲覧
  2. ^ 防長医学史 - 華浦医学校の校舎と生徒の写真がある。写真の出典は『山口大学医学部創立50周年記念誌』2019年8月30日閲覧
  3. ^ 『防府医師会史』防府医師会 平成3年 p.12-16 防府市立図書館の所蔵
  4. ^ 『防府医師会史』防府医師会 平成3年 p.15
  5. ^ 『防府医師会史』p.12
  6. ^ 阿知波五郎『明治初年地方医学校のオランダ語からドイツ語移行の研究ー山口県三田尻華浦医学校の実例について』日本医史学雑誌19巻1号
  7. ^ 横川弘蔵「日本医学校と女性医師の先駆者たち 日之出会の人びと」『日本医史学会雑誌』第31巻第4号 p.580-583 昭和60年10月
  8. ^ 柏木 幸助 | 山口県の先人たち:平成の松下村塾、2019年8月30日閲覧。