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秋元永朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
秋元永朝
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文3年4月15日1738年6月2日
死没 文化7年7月9日1810年8月8日
改名 岩五郎(通称)、永朝
戒名 大隆院殿慈寛永朝大居士
墓所 東京都台東区上野東叡山護国院
墓石:群馬県前橋市光厳寺     
官位 従五位下、摂津守、従四位下、但馬
幕府 江戸幕府
出羽国山形藩
氏族 上田氏秋元氏
父母 父:上田義当(初代藩主秋元凉朝の実兄)、母:上田義行の娘
養父:秋元凉朝
兄弟 上田義陳竹中元長上田義珍秋元永朝、卯之助、上田義篤
正室:井伊直幸の娘
継室:牧野貞長の娘
修朝知朝久朝、娘(本多忠典正室)、
娘(土井利行婚約者・本多康完正室のち毛利広鎮継室)
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秋元 永朝(あきもと つねとも)は、出羽山形藩の第2代藩主。館林藩秋元家8代。

生涯

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元文3年(1738年)4月15日、5000石を領した大身旗本・上田義当の四男として生まれる。義当は初代藩主秋元凉朝の実兄であった。凉朝が初め養子としていた逵朝が早世したため、宝暦10年(1760年)2月に凉朝の養子となる。7月には従五位下、摂津守に叙位・任官する。明和5年(1768年)5月24日、凉朝が隠居したため家督を継いだ。

安永3年(1774年)12月、奏者番に任じられる。安永8年(1779年)9月、仕事中における失態があったため、10月まで出仕停止処分となった。安永9年(1780年)12月、但馬守に遷任する。

天明3年(1783年)、村山郡が凶作となり、それが原因で天明4年(1784年)5月に藩内で米騒動・打ちこわしが起こった。天明8年(1788年)7月、奏者番を辞任する。寛政10年(1798年)12月、従四位下に昇叙する。

文化7年(1810年)7月9日に死去した。享年73。跡を五男の久朝が継いだ。なお、永朝は将棋を愛好し、八世名人九代大橋宗桂の弟子に名を連ねた。

系譜

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父母

正室、継室

子女