福田彦助
生誕 | 1875年11月5日 |
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死没 | 1959年7月30日 (83歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1896 - 1929 |
最終階級 | 陸軍中将 |
福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年(明治8年)11月5日 - 1959年(昭和34年)7月30日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は中将。
経歴
[編集]山口県出身。福田善助の長男として生れる。成城学校、陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業。翌年1月、歩兵少尉に任官し、歩兵第1連隊付となる。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業し歩兵第18連隊付となった。
1903年(明治36年)12月、韓国駐剳軍副官に就任し、留守近衛師団参謀、留守第3師団参謀、後備第2師団参謀、参謀本部付、陸軍省人事局課員、参謀本部々員、ウラジオストク駐在などを経て、1907年(明治40年)頃は参謀本部々員兼軍事参議官副官(軍事参議官陸軍大将男爵乃木希典附属)を務めている。
1910年(明治43年)6月、オデッサ駐在となり、ロシア大使館付武官補佐官、歩兵第37連隊大隊長を歴任し、1913年(大正2年)2月、歩兵中佐に進級し歩兵第18連隊付となった。1914年(大正3年)8月、若松連隊区司令官に発令され、1915年(大正4年)10月から第一次世界大戦で観戦武官としてロシア軍に従軍した。1916年(大正5年)8月、歩兵大佐に昇進。1917年(大正6年)1月、歩兵第60連隊長に就任。シベリア出兵時には参謀本部付(オムスク機関)、浦塩派遣軍司令部付として出動し、ニコリスクで情報収集活動に当たった。
1920年(大正9年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長に着任。第15師団司令部付を経て、1925年(大正14年)5月、陸軍中将に進み下関要塞司令官に着任。1926年(大正15年)3月、第6師団長に親補され、1928年(昭和3年)4月から9月まで第二次山東出兵に出動した。1929年(昭和4年)8月、予備役に編入。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
親族
[編集]- 長男 福田蓼汀(俳人)
- 次男 田中幸雄
- 三男 福田寛雄 (工学博士, 火薬学会賞-論文賞)
- 娘(次女静枝)婿 岡本貞雄(陸軍中佐)