石川総承
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政8年12月11日(1797年1月8日) |
死没 | 慶応元年閏5月26日(1865年7月18日) |
改名 | 重之助(通称) |
戒名 | 清心院殿日章総承大居士 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
官位 | 従五位下、播磨守・中務少輔 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 常陸下館藩主 |
氏族 | 石川氏 |
父母 |
父:石川総般、母:某氏 養父:総親 |
兄弟 |
娘(水野元貞室)、総承、総安 娘(石川総功室)、娘(石川総集室) 娘(石川成伊室) |
妻 | 正室:阿充(青山幸孝の娘) |
子 | 総貨、総詮、娘(津田信義継室) |
石川 総承(いしかわ ふさつぐ)は、常陸下館藩の第7代藩主。伊勢亀山藩石川家分家9代。通称は重之助。官位は従五位下、播磨守、中務少輔。
経歴
[編集]寛政8年12月11日(1797年1月8日)、第5代藩主・石川総般の長男として誕生した。享和2年(1802年)に父が死去したときは幼少であったため、牧野忠精の次男・総親が第6代藩主となった。文化5年(1808年)、総親が早世したため、その養嗣子として家督を継いだ。しかし、いまだ幼少であったため、家督相続当初は重臣の三浦備前守が執政となり藩を運営した。
成人してからは徳川家重の50回法要を務め、さらに心学に傾倒して大島有隣に弟子入りするなどした。天保7年12月5日(1837年1月11日)、病を理由に致仕し、長男の総貨に家督を譲り隠居した。慶応元年閏5月26日(1865年7月18日)、死去した。
系譜
[編集]父母
正室
- 阿充 ー 青山幸孝の娘
子女