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真野助宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
真野助宗
時代 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 慶長15年から20年の間
別名 蔵人、蔵人頭、左近、入道宗真
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 真野氏
頼包
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真野 助宗(まの すけむね)は、安土桃山時代武将大名豊臣家の譜代家臣で、馬廻組頭の七手組の1人。通称は蔵人で、真野蔵人を称したが、左近とも称している。

略歴

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長浜城主時代当初の羽柴秀吉に馬廻として仕えた[1]近江真野氏の出身と推測される。

天正元年(1573年) 12月、浅野長吉が120石の扶持を与えられたとき、真野左近は100石の扶持を与えられている[2]

天正12年(1584年)、小牧の戦いに従軍[1]。 『浅野家文書』の陣立てによると、秀吉本陣の小姓組七手として佐久間忠兵衛、伊東長久、池田与左衛門、速水守久、佐藤主計頭、尼子六郎左衛門と共に合計4,000を率いた[3]

天正18年(1590年)4月、小田原の役に従軍[1]。遠征では600騎を率いた[4]。帰還後の同年9月18日に聚楽第の毛利邸で行われた宴席で、御相伴衆の折臺に堀田圖書黒田長政生駒修理亮[5]と共に列した[6]

文禄の役では、肥前名護屋城で馬廻衆の駐屯[1]。助宗は文禄年間(1592-1596年)に馬廻衆の組頭となった[7]

文禄4年(1595年)の秀吉の草津湯治では岐阜を警備[1]。2名づつの選任で、真野蔵人組とあるので、子の頼包との同役だと思われる。

慶長3年(1598年)、秀吉の没後も豊臣秀頼に仕え、大坂七手組頭の1人となり、知行1万石という[1]

慶長14年(1609年)ごろ豊国神社へ石灯籠を寄進している[1]大坂夏の陣大坂城落城の際に自決という話もあるが、慶長16年頃から諸将のなかに名前が現れず、大坂の陣の戦前に病死していたと考えられている[8][7]。七手組頭は嫡男の頼包が継いで、大坂の陣を戦った。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 高柳 & 松平 1981, p. 223.
  2. ^ 大日本史料10編19冊76頁.
  3. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本古文書. 家わけ第2 (浅野家文書)』東京帝国大学、1906年、37頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994445/42 国立国会図書館デジタルコレクション 
  4. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣秀吉小田原陣陣立」『大日本古文書. 家わけ 三ノ一(伊達家文書之一)』東京帝国大学、1908年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908790/347 国立国会図書館デジタルコレクション 
  5. ^ 生駒親正の弟。
  6. ^ 豊臣秀吉御成日記の同日の条(毛利家文書)※東京大学史料編纂所データベースで閲覧可。
  7. ^ a b 阿部 & 西村 1990, p. 736.
  8. ^ 高柳 & 松平 1981, p. 223-224.

参考文献

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  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、736頁。ISBN 4404017529 
  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、223-224頁。 
  • 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、89頁。 ASIN B000J9GTRU