田中外次
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田中 外次(たなか そとじ、1901年(明治34年)11月7日 - 1992年(平成4年)10月27日)は、日本の実業家。初代住友金属鉱山社長。元日本鉱業協会会長。旧姓は水谷[1]。
来歴・人物
[編集]長崎県長崎市に生まれる[2]。旧制長崎県立長崎中学校(1919年卒業)を経て[3]、1926年に東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業した[2]。印南博吉(明治大学名誉教授)は志田鉀太郎ゼミの同期である[4]。
また、坐禅クラブの「一橋如意団」に所属し[5]、古川尭道門下で、円覚寺での禅の修行で知り合った草鹿任一の勧めで、大学卒業後は住友合資会社に入社した[1][6]。
1927年に住友合資会社別子鉱業所が独立して設立された住友別子鉱山に入社[1][7]。住友別子鉱山が住友炭砿と合併して改組された住友鉱業の総務部長や[8][1]、同社が商号変更した井華鉱業取締役を経て[9]、1947年井華鉱業の専務取締役となる[10][2]。
1950年に井華鉱業の金属部門の現物出資により、別子鉱業が設立されると、同社初代社長に就任した[11][2][1][12]。同年大学の同級生だった松本正雄らとともに、大平正芳後援会結成に参加する[13]。
1952年に別子鉱業から商号変更された住友金属鉱山の社長を務め[14][2][1]、1963年には会長に移った。1967年に相談役に退いた[2][1]。
社外では日本工学教育協会副会長(1954年)や[15]、日本鉱業協会会長(1954年[16]、1960年[17])[15]、ALC協会会長、建材試験センター評議員[18]、旧制長崎中東京長中会会長を務めた[3]。
顕彰
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 「田中外次」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2024年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 「田中 外次」『20世紀日本人名事典』 。コトバンクより2024年6月8日閲覧。
- ^ a b 「東京の中の郷土(9)長崎県の巻 県人会/ちゃんぽん・しっぽく/同窓会佐多稲子/128」『週刊読売』第34巻55号(通巻1420号)、読売新聞社、1975年12月27日、[要ページ番号]
- ^ 印南博吉「志田先生と我国保険界」『明大商學論叢』第35巻第3号、明治大学商学研究所、1951年10月25日、1-34頁。 該当記述は2頁にある。
- ^ 「如意団の百年」『如水会ゝ報』第922号、如意団、2007年3月、p.3
- ^ 瀬岡誠「財閥経営者とキリスト教社会事業家 II」『国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告』日本貿易振興機構、1983年
- ^ 『住友金属鉱山二十年史』住友金属鉱山、1970年11月、(リンク先は渋沢社史データベースの5ページ目)
- ^ 『住友金属鉱山二十年史』住友金属鉱山、1970年11月、(リンク先は渋沢社史データベースの7ページ目)
- ^ 『住友金属鉱山二十年史』住友金属鉱山、1970年11月、(リンク先は渋沢社史データベースの10ページ目)
- ^ 『住友金属鉱山二十年史』住友金属鉱山、1970年11月、(リンク先は渋沢社史データベースの11ページ目)
- ^ 『住友金属鉱山二十年史』住友金属鉱山、1970年11月、(リンク先は渋沢社史データベースの15ページ目)
- ^ 『住友金属鉱山二十年史』住友金属鉱山、1970年11月、(リンク先は渋沢社史データベースの13ページ目)
- ^ 田中外次「池田さんと大平さん (PDF) 」『大平正芳回想録 追想編』公益財団法人大平正芳記念財団、1981年
- ^ 『住友金属鉱山二十年史』住友金属鉱山、1970年11月、(リンク先は渋沢社史データベースの17ページ目)
- ^ a b 歴代会長情報 - 日本工学教育協会
- ^ 「新舊会長挨拶 / 佐藤久喜 ;田中外次/ 1~1」日本鉱業協会誌 7(4)(60) (日本鉱業協会, 1954-04)
- ^ 「就任の辞 /田中外次/ p2~2」鉱山 13(4)(129) (金属鉱山会, 1960-04)
- ^ 『建材試驗』第4巻7号 (PDF) 、建材試験センター、1968年7月、9頁
- ^ 小金井市立はけの森美術館一帯と、国登録有形文化財について - 小金井市立はけの森美術館
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