班子女王
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班子女王 | |
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第59代天皇母 | |
皇太后 | 寛平9年7月26日(897年8月27日) |
誕生 | 天長10年(833年) |
崩御 |
昌泰3年4月1日(900年5月2日) |
別称 | 洞院后 |
父親 | 仲野親王 |
母親 | 当宗氏 |
配偶者 | 光孝天皇 |
子女 |
宇多天皇 源元長 忠子内親王 簡子内親王 綏子内親王 為子内親王 |
女御宣下 | 元慶8年4月1日(884年4月29日) |
皇太夫人 | 仁和3年11月17日(887年12月5日) |
立后前位階 | 従二位 |
班子女王(はんし(なかこ)じょおう、天長10年(833年) - 昌泰3年4月1日(900年5月2日))は、平安時代の皇族。光孝天皇の女御。宇多天皇の母、皇太后。洞院后と称された。仲野親王(桓武天皇皇子)の娘で、母は贈正一位当宗氏。寛平御時后宮歌合の主催者。
生涯
[編集]光孝天皇の親王時代からの妃。是忠親王、是貞親王、定省親王(のちの宇多天皇)、源元長、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王、為子内親王をもうける。元慶8年(884年)の夫光孝天皇の即位に伴い、同年4月1日女御となる。藤原基経の異母妹の尚侍藤原淑子と親密な仲で、所生の定省親王を淑子の猶子としており、この関係が夫光孝天皇の即位の一因ともされている[1]。仁和3年(887年)、定省親王が宇多天皇として即位すると、同年11月17日皇太夫人となり、さらに寛平9年(897年)7月26日には皇太后となった。昌泰3年(900年)4月1日、68歳で崩御。
脚注
[編集]- ^ 角田、p.131