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澤家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
澤家
家紋
鶴菱つるひし
本姓 広澄流清原氏舟橋庶流
伏原庶流
家祖 澤忠量
種別 公家(半家)
華族(子爵伯爵)
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
東京府
著名な人物 澤為量
澤宣嘉
支流、分家 澤宣元家(男爵)
凡例 / Category:日本の氏族

澤家(さわけ、新字体:沢家)は、広澄流清原氏の流れを汲む公家華族。公家としての家格半家、華族としての家格ははじめ子爵、後に伯爵[1]

歴史

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正二位大蔵卿伏原宣幸(ふせはら のぶゆき、1637年寛永14年) – 1705年宝永2年))の次男で従二位右衛門佐澤忠量(さわ ただかず、1673年(寛永14年) – 1754年宝暦4年))を祖として宝永期に成立[2]

公家としての家格は半家新家外様[3]。家祖以来従二位を先途とする[3]明経道儒道を家職とする[3]九条家家札[3]江戸時代家禄は303人扶持[3]

幕末には為量宣嘉父子が尊皇攘夷派の公卿として活躍した。宣嘉は権中納言姉小路公遂の三男で為量の長女と結婚して婿養子に入った後、三条実美らとともに尊王攘夷派公卿として活躍したが、文久三年の政変以降三条と共に七卿落ちした公卿の一人であり、後に平野国臣らとともに但馬国生野で挙兵した(生野の乱[2]

宣嘉の七卿落ち後、為量は、三男の宣種を家嫡にしていたが、慶応4年の戊辰戦争で為量は官軍の奥州鎮撫副総督として出陣して戦功を挙げた。宣種も戦功を挙げ、戦後賞典禄としてそれぞれ800石と100石を賜った[4]。宣嘉は王政復古の際に帰京した後、参議、外国事務総督、外国官知事、外務卿などを歴任[5]。宣嘉も養父や義弟と別に王政復古の勲功で賞典禄800石を賜っている[6]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が成立すると澤家も公家として華族に列した。明治3年に定められた為量の家禄は、現米で254石1斗[7][注釈 1]

明治6年に宣嘉が死去した後、為量は、宣種を廃嫡して宣嘉の遺児である宣量を養嗣子とした[2][9]

明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄(254石1斗)と賞典禄(実額200石)の合計454石1斗と引き換えに為量に支給された金禄公債の額は1万9885円43銭2厘(華族受給者中227位)[10]

明治前期の為量の住居は東京府小石川区西江戸川町にあった[11]

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として為量が子爵に叙せられた[14]

明治22年8月9日に為量が死去すると宣量が子爵位と家督を相続[9]。明治24年4月23日に宣量は宣嘉の勲功により伯爵に(しょうしゃく)し、半家の中で唯一の伯爵家となった[5]。宣量は宮内省司法省の官僚を務めた[15]。宣量夫人鱗は佐竹義遵男爵の七女[9]

明治43年10月15日に宣量が死去した後、長男の宣武が伯爵位と家督を創造[9]。彼の代の昭和前期に澤伯爵家の住居は東京市目黒区中目黒にあった[15]

現在は元々の旧伯爵澤家が断絶。そのため、宣嘉の次男宣元を祖とする分家の旧男爵澤家が澤家の本流として祭祀を継承している。墓所は雑司ヶ谷霊園に存在した旧伯爵澤家の墓石は2018年(平成30年)頃に改葬され、同霊園に現存する澤家、伝通院に澤宣嘉の墓石が残されている。

系図

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  • 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
  • 上付き数字は歴代、括弧付数字は男爵家の歴代。
  • 出典が無い限り、霞会館 1996a, pp. 693–695を参照している。
伏原宣幸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
澤忠量1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宣成2
 
北小路光香
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠典3
 
宣維
 
 
 
 
 
 
 
 
宣維4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久量5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
量行6
[注 1]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為量7/9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宣嘉8
[注 2]
 
藤子
 
久子
[注 3]
 
宣種
[注 4]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宣量10
 
 
 
 
 
[男爵家]
宣元(1)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宣武11
 
宣治
 
宣一(2)
 
宣弘
系譜脚注

脚注

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注釈

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  1. ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものだが、澤家のように公家の最低の旧禄30石3人扶持の家の場合は、最低保障として、本禄160石、それに分賜米と救助米を加えた現米400石として計算すると定めていたので、草高は1000石、その2割5分の254石1斗が家禄となった[8]
  2. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[12]。澤家の場合は直任か以前にそもそも大納言まで登った当主がいなかった[13]

出典

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参考文献

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  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 野島寿三郎『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年(平成6年)。ISBN 978-4816912443 
  • 橋本政宣『公家事典』吉川弘文館、2010年(平成22年)。ISBN 978-4642014427 
  • 『大中臣祭主藤波家の歴史』藤波家文書研究会編、続群書類従完成会、1993年。 
    • 平井誠二「第四編 近世の大中臣祭主家」『同書』。