源重光
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 延長元年(923年) |
死没 | 長徳4年7月10日(998年8月4日) |
別名 | 致仕大納言 |
官位 | 正三位、権大納言 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:代明親王、母:藤原定方の娘 |
兄弟 | 重光、保光、恵子女王、延光、荘子女王、厳子女王、遠光 |
妻 | 行明親王の娘 |
子 | 通雅、長経、方理、則理、康経、藤原伊周室、藤原道長室 |
源 重光(みなもと の しげみつ)は、平安時代中期の公卿・歌人。醍醐天皇の第三皇子・代明親王の長男。官位は正三位・権大納言。致仕大納言と称す。
経歴
[編集]承平8年(938年)従四位下に叙される。侍従を経て天暦4年(950年)信濃権守に任ぜられる。
天暦7年(953年)右近衛中将に任ぜられる。翌年には伊予守を兼ね、天暦9年11月(956年1月)従四位上に昇叙。天徳2年(958年)左近衛中将に転じる。播磨守、左京大夫、備中権守を歴任。応和4年(964年)参議に任ぜられ公卿に列し、宮内卿を兼ねる。康保2年(965年)伊勢権守を務め、康保4年(967年)正四位下に叙される。
右兵衛督を経て、安和元年(968年)従三位・播磨権守に叙任される。天禄3年(972年)に大蔵卿、天延2年(974年)には検非違使別当に任ぜられる。貞元2年(977年)中納言、天元5年(982年)正三位。永観3年(985年)3月円融上皇の読経結願に参会[1]。同年4月には警固を行う[2]。永祚元年(989年)8月に藤原頼忠の七七日忌が行われた際、これに参会している[3]。正暦2年(991年)9月の任大臣の儀に参り[4]、同日極官の権大納言に至っている。
正暦3年(992年)辞任し、官職を藤原伊周に譲る。その為、致仕大納言と称された。正暦4年(993年)参議・藤原実資に笏を乞い、これを送られている[5]。長徳4年(998年)7月10日子刻[6]薨去。享年76。薨去前日には大甥にあたる藤原行成が見舞いに来ている。その際、子・明理は病悩は甚だ重いと重光の病の様子に言及している。
重光楽という曲を作るなど音楽に秀でる。また、和歌にも通じ、『後撰和歌集』には数首が残っている。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 承平8年(938年)正月7日:従四位下
- 天慶5年12月13日(943年1月21日):侍従
- 天慶7年(944年)4月14日:昇殿
- 天暦4年(950年)正月30日:信濃権守
- 天暦7年(953年)4月29日:右近衛中将
- 天暦8年(954年)3月14日:伊予守
- 天暦9年11月21日(956年1月7日):従四位上
- 天徳2年(958年)7月28日:左近衛中将
- 天徳3年(959年)7月17日:播磨守
- 応和元年(961年)7月3日:左京大夫
- 応和4年(964年)正月27日:備中権守、3月27日:参議
- 康保元年(964年)7月29日:宮内卿
- 康保2年(965年)5月11日:伊勢権守
- 康保4年(967年)10月11日:正四位下(御即位次)
- 康保5年(968年)6月14日:右兵衛督
- 安和元年(968年)11月14日:播磨権守(與弟延光朝臣相替。止卿)、11月23日:従三位(去卿。主基)
- 天禄3年(972年)2月29日:大蔵卿
- 天禄4年(973年)3月28日:右衛門督并伊與権守
- 天延2年(974年)2月17日:使別当
- 天延3年(975年)正月26日:左兵衛督
- 貞元2年(977年)4月24日:中納言
- 天元5年(982年)正月7日:正三位
- 永観3年(985年)3月30日:円融上皇読経結願4月21日:有警固行之
- 永祚元年(989年)8月11日:藤原頼忠七七日忌参会
- 正暦2年(991年)9月7日:任大臣事参会、権大納言
- 正暦3年(992年)8月28日:上表辞任、藤原伊周に権大納言を譲る