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楠 (橘型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
級名 橘型駆逐艦
艦歴
計画 1944年度(昭和19年度)計画
起工 1944年11月9日
進水 1945年1月8日
竣工 1945年4月28日
除籍 1945年10月5日
その後 1947年7月16日、イギリスへ引き渡し
要目(計画値)
基準排水量 1,262 トン
公試排水量 1,530 トン
全長 100.00 m
最大幅 9.35 m
吃水 3.30 m
主缶 ロ号艦本式ボイラー×2基
主機 艦本式タービン×2基
出力 19,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 27.8 ノット
燃料 重油 370 t
航続距離 3,500 海里/18ノット
乗員 211/329名[1]
兵装
レーダー 22号電探×1基
ソナー 四式水中聴音機×1基
三式探信儀一型×1基
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(くすのき)は日本海軍駆逐艦。仮称5521号艦、橘型(改松型)駆逐艦として横須賀海軍工廠で建造された。

艦名は植物のクスノキによる。艦名としては樺型駆逐艦の6番艦「」に続いて2代目。

艦歴

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竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将)に編入。缶部に不具合があって修理の後[2]瀬戸内海に向かう。大阪湾に到着後、5月11日には大阪港で対空戦闘を行った。

その後、姉妹艦「」とともにに回航され訓練に従事する[3]

やがて、第十一水雷戦隊は瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴に到着するも、舞鶴鎮守府から「空襲の際に刺激となる」との理由で、舞鶴以外の場所へ移動するよう要請を受ける[4]。そこで、6月に入って小浜湾に移動することとなった[5]

7月15日付で特殊警備艦となり舞鶴鎮守府部隊に編入され[6]、7月23日舞鶴に戻り、そのまま終戦を迎えた。同年10月5日除籍。

12月1日特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月16日シンガポールイギリスへ引き渡された。

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』371頁による。

艤装員長

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  1. 河辺忠四郎 大尉 1945年2月20日-

駆逐艦長

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  1. 河辺忠四郎 大尉 1945年4月28日-
  2. 西村徳太 少佐 1945年9月30日-

脚注

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参考文献

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  • 海軍歴史保存会 編『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 歴史群像編集部 編『松型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ 43〉、2003年11月。ISBN 4-05-603251-3 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)』。JACAR:C08030128000 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(8)』。JACAR:C08030128100