柳沢光邦
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 大正時代 |
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生誕 | 嘉永7年3月13日(1854年4月10日) |
死没 | 大正12年(1923年)10月20日 |
別名 | 伊織(通称) |
官位 | 刑部大輔、従二位 |
主君 | 明治天皇→大正天皇 |
藩 | 越後黒川藩主→黒川藩知事 |
氏族 | 武田氏→柳沢氏 |
父母 |
父:武田信之 養父:柳沢光昭 |
兄弟 | 柳生俊順、柳生俊益、光邦 |
妻 |
鶴(柳沢光昭の娘) 飛佐子(那須資興の娘) |
子 | 斐子(津軽類橘妻)、鉚(京極高義妻)、宣子(山田英夫妻)、光武、光治 |
柳沢光邦 やなぎさわ みつくに | |
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生年月日 | 1854年4月10日 |
出生地 |
日本 江戸 (現・東京都) |
没年月日 | 1923年10月20日(69歳没) |
前職 | 大蔵省御用掛 |
所属政党 |
(研究会→) 無所属 |
称号 | 従二位 |
配偶者 |
柳沢鶴 柳沢飛佐子 |
子女 | 三男・柳沢光治 |
親族 |
義弟・柳沢保恵(貴族院議員) 娘婿・京極高義(貴族院議員) 娘婿・山田英夫(貴族院議員) 孫・京極高光(貴族院議員) |
在任期間 | 1890年7月10日 - 1897年7月9日 |
柳沢 光邦(やなぎさわ みつくに、嘉永7年3月13日[注釈 1]〈1854年4月10日〉 - 大正12年〈1923年〉10月20日[2])は、越後黒川藩の第8代(最後)の藩主。位階は従二位[2]。
生涯
[編集]高家旗本・武田信之の六男[1]。江戸烏森の屋敷で生まれる[1]。文久2年(1862年)11月13日、従兄にあたる先代藩主の光昭の養子となる。慶応3年(1867年)9月23日、将軍徳川慶喜に拝謁する。慶応4年(1868年)閏4月20日、養父の隠居により家督を相続する。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により黒川藩知事に就任した。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により免職となる。明治12年(1879年)、大蔵省御用掛となった。明治17年(1884年)7月、子爵に叙爵。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選出され、明治30年(1897年)7月9日まで1期務めた[2]。研究会の創設時から所属したが、明治28年(1895年)に退会し無所属になった[3]。大正12年(1923年)に死去した。
家族
[編集]父母
妻
子女
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (黒川)柳沢家初代 1884年 - 1923年 |
次代 柳沢光治 |