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柳沢光邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
柳沢 光邦
時代 江戸時代末期(幕末) - 大正時代
生誕 嘉永7年3月13日1854年4月10日
死没 大正12年(1923年10月20日
別名 伊織(通称
官位 刑部大輔、従二位
主君 明治天皇大正天皇
越後黒川藩主→黒川藩知事
氏族 武田氏柳沢氏
父母 父:武田信之
養父:柳沢光昭
兄弟 柳生俊順柳生俊益光邦
柳沢光昭の娘)
飛佐子那須資興の娘)
斐子(津軽類橘妻)、鉚(京極高義妻)、宣子(山田英夫妻)、光武光治
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柳沢光邦
やなぎさわ みつくに
生年月日 1854年4月10日
出生地 日本の旗 日本 江戸
(現・東京都
没年月日 (1923-10-20) 1923年10月20日(69歳没)
前職 大蔵省御用掛
所属政党研究会→)
無所属
称号 従二位
配偶者 柳沢鶴
柳沢飛佐子
子女 三男・柳沢光治
親族 義弟・柳沢保恵(貴族院議員)
娘婿・京極高義(貴族院議員)
娘婿・山田英夫(貴族院議員)
孫・京極高光(貴族院議員)

在任期間 1890年7月10日 - 1897年7月9日
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柳沢 光邦(やなぎさわ みつくに、嘉永7年3月13日[注釈 1]1854年4月10日〉 - 大正12年〈1923年10月20日[2])は、越後黒川藩の第8代(最後)の藩主位階従二位[2]

生涯

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高家旗本武田信之の六男[1]江戸烏森の屋敷で生まれる[1]。文久2年(1862年)11月13日、従兄にあたる先代藩主の光昭の養子となる。慶応3年(1867年)9月23日、将軍徳川慶喜に拝謁する。慶応4年(1868年)閏4月20日、養父の隠居により家督を相続する。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により黒川藩知事に就任した。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により免職となる。明治12年(1879年)、大蔵省御用掛となった。明治17年(1884年)7月、子爵に叙爵。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選出され、明治30年(1897年)7月9日まで1期務めた[2]研究会の創設時から所属したが、明治28年(1895年)に退会し無所属になった[3]。大正12年(1923年)に死去した。

家族

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父母

子女

脚注

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注釈

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  1. ^ 嘉永7年は安政元年に改元された[1]

出典

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  1. ^ a b c 人事興信録 初版(明36.4刊) 420コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』58頁。
  3. ^ 研究会所属貴族院議員録 : 創立より解散まで 143コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
黒川柳沢家初代
1884年 - 1923年
次代
柳沢光治