松木幹一郎
表示
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日)[1] - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長[2]。族籍は愛媛県平民[1]。動物学者の青木淳一は孫。
人物
[編集]愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男[1][2]。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である[2]。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業[2]。法学士の称号を得る[1]。
逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任[2]。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた[2]。帝都復興院副総裁、東京市政調査会専務理事、台湾電力社長などを務めた[2]。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。