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杉田廉卿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
杉田 廉卿
時代 幕末
生誕 弘化2年(1845年
死没 明治3年2月20日1870年3月21日
別名[1]・鵠[2](名)
戒名 廉隅院某
墓所 沼津市千本緑町長谷寺
幕府 江戸幕府
主君 酒井忠義忠氏
小浜藩
氏族 武田氏、杉田氏
父母 武田悌道杉田成卿
兄弟 武田簡吾、服部某妻
杉田縫
杉田盛(養子)
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杉田 廉卿(すぎた れんけい)は、幕末日本医師、翻訳官。小浜藩医、江戸幕府外国奉行翻訳御用雇。杉田玄白分家4世孫。25歳没。

生涯

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小浜藩出仕

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弘化2年(1845年)[3]駿河国沼津宿町医武田悌道の子として生まれた[4]安政6年(1859年)兄武田簡吾の『輿地航海図』出版が咎められ、一家が取り調べを受ける中[5]、校閲を担当した杉田玄端義兄成卿が2月死去したため[6]、4月3日その養子として拾われ、5月25日小浜藩の跡式140石を相続し、同年栄寿院の病気を担当した[7]

文久2年(1862年)4月18日屋敷詰[7]。文久3年(1863年)6月9日藩主に従い大坂へ向かうも、見附宿で引き返し、23日帰着した[7]。7月2日奥医師の人手不足によりこれを手伝い、元治元年(1864年)1月11日恭丸の出生に携わった[7]

江戸幕府出仕

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『蘭学事始』明治2年版

元治元年(1864年)4月14日老中井上正直により外国奉行手付翻訳御用御雇を命じられ、20人扶持を給され[7]福沢諭吉・玄端の下で外交文書を翻訳した[8]解剖学を学ぶうち、その造物主としての神を信じるようになり、吉田賢輔新島襄津田仙聖書を研究したというが、年代不明[9]

慶応4年(1868年)5月箱根から敗走してきた伊庭八郎乙骨太郎乙今川小路の自宅に匿い、尺振八箱館脱走を助けた[10]明治元年(1868年)福沢諭吉に家伝の杉田玄白著『蘭学事始』出版を促され、明治2年(1869年)1月刊行した[11]

晩年

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明治元年(1868年)暮藩主に従い小浜に引き上げ、明治2年(1869年)1月から3日まで京都に滞在した後[12]東京府牛込毘沙門手前横町の津田仙隣宅に移った[13]

江戸滞在中肺結核に罹ったため、玄端が経営する沼津病院近くの新居に転居した[14]。快復後は病院を手伝う予定だったが[14]、明治3年(1870年)2月20日死去し[15]、遺言により千本松原長谷寺に葬られた[14]。戒名は廉隅院某[3]杉田伯玄により「S」と彫られたキノコ型の墓石が建てられた[16]

昭和5年(1930年)東京市芝区栄閑院(猿寺)に改葬された[14]

家族

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脚注

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  1. ^ 艸官生 1907, p. 39.
  2. ^ 杉田廉卿「蘭学事始序」『蘭学事始』林茂香、1890年4月。 NDLJP:826051/14
  3. ^ a b 樋口 2011, p. 13.
  4. ^ 樋口 2011, p. 10.
  5. ^ 樋口 2011, p. 8.
  6. ^ a b c 髙橋 2016, p. 54.
  7. ^ a b c d e 樋口 2011, p. 3.
  8. ^ 髙橋 2016, p. 60.
  9. ^ 樋口 2011, p. 2.
  10. ^ 樋口 2011, p. 5.
  11. ^ 福沢諭吉「(無題)」『蘭学事始』林茂香、1890年4月。 NDLJP:826051/6
  12. ^ 樋口 2011, p. 6.
  13. ^ 髙橋 2016, p. 66.
  14. ^ a b c d 樋口 2006, p. 113.
  15. ^ 樋口 2006, p. 119.
  16. ^ 樋口 2011, pp. 6, 14.
  17. ^ 髙橋 2016, p. 52.
  18. ^ 髙橋 2016, pp. 45–46.

参考文献

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  • 樋口雄彦「杉田盛の六十年回想記」『静岡県近代史研究』第31号、静岡県近代史研究会、2006年11月。 
  • 樋口雄彦「新島襄の聖書研究仲間 杉田廉卿について」『同志社談叢』第31号、同志社大学同志社社史資料センター、2011年、1-15頁、doi:10.14988/pa.2017.0000013053ISSN 03897168 
  • 髙橋秀悦「富田鐵之助のニューヨーク副領事就任と結婚と商法講習所 : 「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(6)」『東北学院大学経済学論集』第187号、東北学院大学学術研究会、2016年12月、15-92頁、ISSN 1880-3431NAID 120006802251 
  • 艸官生「杉田家と木下家」『京都医事衛生誌』第159号、京都医事衛生社、1907年6月25日。 

外部リンク

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