最上直家
時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 応永17年1月6日(1410年2月9日) |
戒名 | 生勝寺殿日潭光公大居士[1]、金勝寺殿月潭光公[2] |
墓所 | 金勝寺(山形県山形市山家本町) |
官位 | 左京大夫、右京大夫[2] |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 最上氏 |
父母 | 父:斯波兼頼 |
妻 | 正室:伊達宗遠の娘 |
子 | 満直、天童頼直、黒川氏直、高擶義直、蟹沢兼直、成沢兼義 |
最上 直家(もがみ なおいえ)は、南北朝時代から室町時代前期の出羽国の武将・大名で山形城主。最上氏第2代当主。
生涯
[編集]斯波兼頼の嫡男として生まれ、正室として伊達宗遠の娘を娶り縁戚関係を結ぶ[注釈 1]。永和元年(1375年)、兼頼の跡を継ぎ最上氏第2代当主となった。その伊達氏は南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)頃から置賜の長井氏を攻め始める。一時鎌倉公方の干渉によって伊達氏は撃退されるが、結局南朝:元中2年/北朝:至徳2年1385年には長井氏は滅亡し、最上氏と伊達氏は隣接することとなった。至徳元年(1384年)至徳寺を創建し、応永元年(1394年)屋形号を許され最上屋形を名乗ったという[3]。応永2年(1395年)鎌倉公方足利氏満によって南奥羽の田村氏討伐の陣触れを出し、最上氏も霊山へ出陣した[4]。こののち、大佛城攻めにも参加している[5]。応永3年(1396年)に小白川天満神社に菅原道真を祀った記録が残る。
『餘目氏旧記』によれば、奥羽・出羽が鎌倉府の配下に入ると、最上氏は大崎氏とともに鎌倉に伺候し、相模国山内荘長尾に居を構えたという[6]。
応永6年(1399年)応永の乱で鎌倉公方が室町幕府に対して叛意を示したものの、不調に終わると両者の関係は悪化し、同年鎌倉公方が設置した篠川御所、稲村御所によって奥羽の豪族と鎌倉公方の関係も悪化した。翌年大崎氏が幕府から奥州探題に補任されると、応永9年(1402年)伊達氏・大崎氏らが挙兵し公方側の結城氏や上杉氏と争う(伊達正宗の乱)。この時最上氏は公方側に付き、近隣諸侯とともに伊達氏苅田城攻めを行っている[7]。
系図によると、子息を天童(山形県天童市)、高擶(天童市)、蟹沢(東根市)、成沢(山形市)に配置し、また大崎氏支配下の黒川郡へ送り出し、支配域を拡大している。
周辺系図
[編集]蘆名詮盛 | 娘 | ||||||||||||||||||||||
斯波兼頼 | 直家 | ||||||||||||||||||||||
満直 | |||||||||||||||||||||||
伊達宗遠 | |||||||||||||||||||||||
娘 | 天童頼直 | ||||||||||||||||||||||
結城宗広娘 | |||||||||||||||||||||||
伊達政宗 (大膳大夫) | 黒川氏直 | ||||||||||||||||||||||
蘭庭明玉禅尼 | 高擶義直 | ||||||||||||||||||||||
蟹沢兼直 | |||||||||||||||||||||||
成沢兼義 | |||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 「諸家系図」
- ^ a b 「最上系譜」
- ^ 「系図纂要」
- ^ 「底倉之記」『寒河江市史 上巻』pp.534
- ^ 『山形県史 第一巻』
- ^ 『寒河江市史 上巻』pp.534
- ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.588「戸沢家譜」
注釈
[編集]参考文献
[編集]- 『山形市神社誌』
- 『山形市史』
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001
- 鈴木真年原蔵 謄写本『最上家譜』1885年複本作成、東京大学史料編纂所所蔵資料目録データベース
- 「伊達正統世次考」東京大学史料編纂所所蔵資料目録データベース