川辺本陣
川辺本陣(かわべほんじん)は、岡山県下道郡川辺村(現・倉敷市真備町川辺)にかつて存在した本陣である。
川辺村にかつて存在した脇本陣である川辺脇本陣(かわべわきほんじん)についても記載する。
歴史
[編集]1615年(元和元年)備中国岡田藩初代藩主となった伊東長実は、1616年(元和2年)に下道郡服部村に藩邸を置き[1]、その後1624年(寛永元年)11月に同郡川辺村の土居屋敷に移った[1]。その後、2代・長昌、3代・長治を経て、4代・長貞が1664年(寛文4年)藩邸を同郡岡田村の中村に移すまで、「川辺の殿様」として君臨し、その間に本陣・脇本陣を作り、内堤防を築いて水害を防ぐなど、川辺繁盛の基礎を作った[1]。
以来、川辺村は旧山陽道の宿場として、さらには小田川と高梁川の接合点に位置する川港として繁栄し[2]、その繁盛振りは総社町を凌ぎ[注 1]、現在の真備町内で最も栄えた地となった[4]。
概要
[編集]参勤交代時の大名行列は何百人というのが普通で本陣と脇本陣だけで捌ききれるものではなく、特に川辺村の宿場は村の6割が旅館や茶店として繁盛するほど発展した[4]。
萩藩が1810年(文化7年)に参勤交代で川辺本陣に宿泊した際の人数841人に要した宿屋は95軒、黒田藩の1861年(万延元年)の参勤交代の際の人数は580人、比較的小藩の鍋島藩が1810年(文化7年)に参勤交代で宿泊した際の人数99人に要した宿屋は15軒であった[5]。
1729年(享保14年)4月に象が初めて日本に来た際には、川辺村に一泊したという記録もある[6]。また、伊能忠敬も日本地図作成のために全国を測量して山陽道を下る際、1809年(文化6年)8月24日に川辺本陣に宿泊した記録がある[7]。
当時高梁川には橋がなく、川の水位が上がるとしばしば逗留を余儀なくされたことから、川辺宿の町家の規模は矢掛本陣のある矢掛宿よりも大きかったのではないかと推測されている[7]。
川辺本陣・脇本陣ともに現存はせず、跡を示す石碑が立てられているのみである[2]。
川辺本陣
[編集]川辺本陣は難波氏邸宅である[5][注 2]。難波氏の生業は醤油屋であった[7]。
1978年に兵庫県豊岡市で発見された「川辺本陣間取り図」[8]によると、豪壮で広大さを誇る邸宅で[5]、規模は重要文化財の矢掛本陣とほぼ同じである[7]。平常使用する畳数は143畳という広さで、大名宿泊時には2階座敷や蔵座敷、「こしらえ座敷」も加えて200畳、間数も30近くになった[5]。
なお、萩藩6代藩主・毛利宗広が1737年(元文2年)の参勤交代で3月13日に川辺本陣に宿泊した際の宿賃は、「銀子(ぎんす)五枚 難波弥三兵衛」「金子(きんす)弐百疋 御本陣下宿」であった[9][注 3]。
川辺本陣一帯は、1893年、明治26年の洪水により大被害を受け、本陣そのものが流失してしまい、難波氏の資料も残っていない[5]。
川辺脇本陣
[編集]川辺脇本陣は代々、日枝氏邸宅の一部で[5][注 4]、本陣より50メートルほど西に向かった道の北側に位置していた[7]。山一証券社長を務めた太田収の父・始四郎(旧姓・日枝)の実家[10]。日枝氏の生業はよく判っていない[7]。
脇本陣の建物は明治26年の洪水の際にも流失を免れ[7]、その後は村役場や[7]、川辺巡査駐在所、農協の倉庫など[5]、1975年(昭和50年)ごろまで利用されていたが[7]、その後廃家となり、1988年(昭和63年)ごろ解体された[11]。
なお、脇本陣跡は現在、消防器庫となっている[11]。
最寄駅
[編集]以下は路線バス(真備地区コミュニティタクシー)「脇本陣跡」バス停までの所要時間
『本陣殺人事件』と川辺本陣
[編集]第二次世界大戦末期から3年余り吉備郡真備町岡田村字桜部落(現・倉敷市真備町岡田)に疎開していた横溝正史は、この疎開宅で金田一耕助が初登場する『本陣殺人事件』を執筆・発表した[14]。
横溝は疎開宅でのインタビューで、「近ごろ力の入ったのは雑誌『宝石』に書いた『本陣殺人事件』、これはこの村(岡田村)を舞台にとったもんだ」と述べている[15]。また、事件が起きた一柳家のモデルとなった旧本陣の末裔については、『金田一耕助のモノローグ』に「私の疎開していた岡田村のすぐ南方に川辺という村があり、そこは昔街道筋に当たっていたとやらでそこに本陣があったが、明治になってから川辺村を引き払い、その子孫の一家が岡田村の山の谷へ移り住んでいた」と記している[16]。
『本陣殺人事件』には川辺本陣の名前こそ記載されていないが、「一柳家はもと、この向こうの「川―村」の者であった。「川―村」というのは昔の中国街道に当たっていて、江戸時代にはそこに宿場があり一柳家はその宿場の本陣であった」と記述されている[17]。近隣の実在する駅名や地名(清音駅、川辺村、岡田村、久代村、総社町、高梁川)は、「清―駅」「川―村」「岡―村」「久―村」「総―町」「高―川」と、伏せ字で記されている。
なお、横溝の妻・孝子は、一柳家のモデル宅について、村人たちから「大加藤」と呼ばれている加藤家の屋敷の本家で、「もとは高梁川のたもとの川辺村で本陣として構えていた加藤家だったのですが、明治二十六年の高梁川大氾濫で桜部落の小高いところへ移ったということです」と記している[18]。ただし、本陣は各宿場に1箇所と定められており[注 6][注 7]、前述のとおり川辺本陣は難波氏であり[注 8][注 2]、川辺村で本陣として構えていたという加藤家の由来は不明である[注 9][注 10][注 11]。
周辺の史跡・施設
[編集]- 川辺一里塚跡
- 川辺一里塚は川辺の渡し(高梁川右岸)にあったが、1907年(明治40年)から始めた高梁川大改修が完成した1925年(大正14年)に現在地に移転した[22]。
- 川辺一里塚跡は、川辺本陣跡から旧山陽道沿いに東に向かった先の急カーブに立っている。
- 横溝正史が第二次世界大戦末期の1945年春から終戦後の1948年7月までの3年余りを一家で過ごした吉備郡真備町岡田村字桜(現・倉敷市真備町岡田)の疎開宅[25]。横溝はこの疎開宅で、「川―村」(=川辺村)の本陣の末裔であるという一柳家を舞台とする『本陣殺人事件』を執筆・発表した[14]。
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横溝正史疎開宅の門前
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 総社町は「備中売薬」という置き薬が盛んな地で、かつては「日本五大売薬」に挙げられる時代もあった[3]。
- ^ a b 「川辺宿本陣絵図」に「御本陣 難波惣七」と記載されている[8]。また、1737年(元文2年)の萩藩主の参勤交代を記録した「元文2年 (1737) 御参勤御道中記録 但惣陸」の3月13日に、「一同晩川辺御着、御本陣難波弥三兵衛」と記載されている[9]。伊能忠敬が1809年(文化6年)8月24日に川辺本陣に宿泊したことを記録している「測量日記」にも、本陣の当主は「難波忠七」と記載されている[7]。
- ^ 『真備町史』には、大名たちが本陣などに泊まったり休息したりした際の宿賃について「川辺本陣には記録がない」と記されている[5]が、「元文2年 (1737) 御参勤御道中記録 但惣陸」以外にも、他藩の参勤交代の記録に川辺本陣の宿賃が記載されている可能性はある。
- ^ フジサンケイグループ代表の日枝久が川辺脇本陣の末裔であると説明されているネット情報が、「日枝(ひえだ)家 下道郡川辺村」や「紀行歴史遊学 象も泊まるほどの賑わい」など複数あるが、いずれも個人のブログの域を出ないため、本文への記載と出典に挙げるのは差し控える。
- ^ 『別冊宝島 僕たちの好きな金田一耕助』に、「写真の丘にはかつて『本陣』のモデルになった屋敷が存在した」と紹介されている写真と、ほぼ同じ構図で撮影されている[13]。
- ^ 『吉備郡史 巻中』の「本陣及宿驛」の章に「本陣 大名の宿泊する家にて、一宿驛に一箇所づつあり」と記されている[19]。
- ^ 実際には小金宿や土浦宿のように本陣が2箇所という宿場町が存在する。ただし、『吉備郡史 巻中』の「本陣及宿驛」の章[19]、『真備町史』の「駅制と川辺宿」の章[4]および「川辺本陣」の章[5]のいずれにも、川辺宿に本陣が2箇所あったという記述や難波氏以外の本陣があったという記述は見られない。
- ^ 『吉備郡史 巻中』の「本陣及宿驛」の章に「吉備郡に於ける宿驛は板倉及川邊にて其本陣は板倉驛の東方氏川邊驛の難波氏なり」と記されている[19]。
- ^ 「川辺宿本陣絵図」と一緒に見つかった、川辺本陣と脇本陣付近の家の間数などを詳しく記した図には、本陣の西隣の家が「領主家臣 加藤治平」と記されている[5]。加藤治平は岡田藩士で、明治の初めに岡山県大参事となった加藤正周はその子孫である[5]。
- ^ 「浅口郡地頭上村の塚村家の分家、庄兵衛高森の曾孫の太郎昌言の妻について「下道郡川辺村の本陣加藤家から来ています」と記載されているネット情報(塚村家浅口郡地頭上村)があるが、個人のブログの域を出ないため、本文への記載と出典に挙げるのは差し控える。
- ^ 「塚村家浅口郡地頭上村」には、「私の祖母は川辺の加藤家から来ている」、「加藤三郎という県議が出た家でしょう」、「いや、その加藤とは違うはずだ。祖母の実家は岡田藩の士族だった」という会話の記述もある。「加藤三郎」の名前は、吉備四国八十八ヶ所霊場 画像集1の「東薗用水記念碑」(昭和二十八年九月)に「管理者岡田村長 加藤三郎」と刻まれている。なお、一柳家のモデルとなった屋敷について、『横溝正史研究 2』には「旧岡田村長も務めた加藤家の屋敷跡と伝えるあたり」[20]、『巡・金田一耕助の小径 ミステリーガイドブック』には「村長をつとめ、岡山県議会議員もつとめた加藤家である」と記載されている[21]。
出典
[編集]- ^ a b c 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年、487-488頁。「川辺の殿様」
- ^ a b “井原沿線空の旅 − 各駅編 ◆川辺本陣跡(倉敷市真備町川辺)”. デジタル岡山大百科. 岡山県立図書館. 2023年7月29日閲覧。
- ^ 幸田浩文「備中売薬と11代万代常閑 -江戸時代中期から幕末まで-」『経営論集』第97巻、東洋大学経営学部、2021年3月、1-15頁、CRID 1050006363687240960、ISSN 0286-6439、NAID 120007026170、2023年10月30日閲覧。
- ^ a b c 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、479-481頁。「駅制と川辺宿」
- ^ a b c d e f g h i j k 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、481-487頁。「川辺本陣」
- ^ 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、542-544頁。「娯楽」
- ^ a b c d e f g h i j 小野克正、加藤満宏、中山 薫『真備町(倉敷市)歩けば』日本文教出版株式会社〈岡山文庫〉、2016年6月17日、73-75頁。「川辺を歩けば「川辺本陣跡 - 脇本陣跡」 加藤満宏」
- ^ a b “川辺宿本陣絵図 川辺宿関係絵図”. デジタル岡山大百科. 岡山県立図書館. 2023年7月29日閲覧。
- ^ a b “萩藩主参勤交代の記録を読む -「元文2年 (1737) 御参勤御道中記録 但惣陸」- 第2版” (PDF). 山口県文書館公式ウェブサイト. 山口県文書館. p. 33. 2024年3月6日閲覧。
- ^ 山岡荘八 (1939年). “太田収伝”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 興亜文化協会. p. 25. 2024年12月26日閲覧。
- ^ a b 「第三回旧山陽道歩く会(2007年) 5月20日 歩こう、連ごう、旧山陽道」 旧山陽道歩こう会 (4) 解説 加藤満宏「川辺本陣」
- ^ a b “脇本陣跡”. NAVITIME. 株式会社ナビタイムジャパン. 2023年7月29日閲覧。
- ^ 宝島社『別冊宝島 僕たちの好きな金田一耕助』 金田一耕助登場全77作品 完全解説「金田一耕助のふるさと 岡山をゆく」p.13参照。
- ^ a b 『巡・金田一耕助の小径 ミステリーガイドブック』(「巡・金田一耕助の小径」実行委員会、2021年3月31日増補改訂版)表紙裏「金田一耕助が初登場! 戦後初の長編推理小説『本陣殺人事件』」。
- ^ 江藤茂博、山口直孝、浜田知明 編『横溝正史研究 6』戎光祥出版株式会社、2017年3月28日、84-85頁。「〈疎開名士を訪ねて 5〉怖いのは乗り物 / "この春には東京へ帰りたい / 炬燵が好きな横溝正史氏"(初出:岡山地元紙? 1946年1月20日)」
- ^ 横溝正史『金田一耕助のモノローグ』角川書店〈角川文庫〉、1993年11月10日、71頁。
- ^ 角川文庫『本陣殺人事件』「本陣の末裔」。
- ^ 横溝正史 著、日下三蔵 編『横溝正史ミステリ短編コレクション6 空蝉処女』柏書房株式会社、2018年6月5日、452-453頁。「付録 (10) 「空蝉処女」に寄せて 横溝孝子」
- ^ a b c 永山卯三郎 編『吉備郡史 巻中』岡山県吉備郡教育会、1937年8月15日、2141-2188頁。「第八十三章 本陣及宿驛」
- ^ 江藤茂博、山口直孝、浜田知明 編『横溝正史研究 2』戎光祥出版株式会社、2017年3月28日、204-209頁。「イベント化における観光的コラージュ 金田一耕助と歩く二つの道を中心に 網本善光」
- ^ 『巡・金田一耕助の小径 ミステリーガイドブック』(「巡・金田一耕助の小径」実行委員会、2021年3月31日増補改訂版)9ページ。
- ^ 「川辺一里塚跡」説明板(川辺まちづくり推進協議会)より。
- ^ 川辺地区社協だより 第45号 2021年(令和3年)11月 川辺地区社会福祉協議会
- ^ 小野克正、加藤満宏、中山 薫『真備町(倉敷市)歩けば』日本文教出版株式会社〈岡山文庫〉、2016年6月17日、75-76頁。「川辺を歩けば「艮御崎神社」 加藤満宏」
- ^ 横溝正史『金田一耕助のモノローグ』角川書店〈角川文庫〉、1993年11月10日、8-25頁。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 川辺宿本陣絵図 川辺宿関係絵図 デジタル岡山大百科(岡山県立図書館)
- 井原沿線空の旅 − 各駅編 デジタル岡山大百科(岡山県立図書館)