コンテンツにスキップ

嶋田章弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嶋田 章弘
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県有田市
生年月日 (1966-06-27) 1966年6月27日(58歳)
身長
体重
179 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手外野手
プロ入り 1984年 ドラフト1位
初出場 1985年8月3日
最終出場 1996年4月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

嶋田 章弘(しまだ あきひろ、1966年6月27日 - )は、和歌山県有田市[1]出身の元プロ野球選手投手外野手)。

実兄は元プロ野球選手(捕手)で、住友金属でのプレーを経て、章弘と同時(1985年)に阪神タイガースへ入団した嶋田宗彦[1]。宗彦とは、阪神の投手時代に公式戦でバッテリーを組んでいたほか、お互いに現役を引退してから兄弟揃って阪神球団のスコアラーを11年間務めていた(本文を参照)。

来歴・人物

[編集]

プロ入り前

[編集]

実兄の宗彦に続いて和歌山県立箕島高等学校へ進学すると、2年時(1983年)夏の第65回全国高等学校野球選手権大会3回戦で、津野浩を擁する高知商業を相手に吉井理人(1学年先輩)の後を受けて登板[2]。この時のチームメイトには、山下徳人(吉井と同期の右翼手)もいた。選手権の全国大会には、3年時(1984年)の第66回大会にも「右投左打のエース兼3番打者」[3]として出場。控え投手には同期の杉本正志などがいて、自身は2回戦(初戦)で取手二高石田文樹などと投げ合ったが、チームは3対5というスコアで敗れた[2]

左打席からの強打[3]や足の速さも当時から高く評価されていたが、1984年のNPBドラフト会議では、「投手」として阪神と広島東洋カープから1巡目で指名。指名の重複に伴う抽選の結果、阪神が章弘への独占交渉権を獲得した。さらに阪神は、夏のロザンセルスオリンピック・野球競技日本代表チームのメンバーとして金メダルを獲得していた宗彦を4巡目で指名。いずれも、指名との交渉を経て入団に至った。ちなみに、自身は入団の当初に背番号15を着用。その一方で、章弘の控え投手だった杉本は、広島から1巡目で改めて指名された末に入団している。

現役時代

[編集]

登録上は一貫して「右投左打」であったが、実際には、投手として阪神へ在籍していた時期に右打ちへ転向していた。入団の当初に指導を受けていた投手コーチから、「打者として左打席に立つ限り、(投球で使う)右肩に死球を受ける危険性がある」と指摘されたことによる[3]

1985年には、8月3日の対読売ジャイアンツ戦で、7回表から救援投手として一軍公式戦にデビュー。4点ビハインドからの登板ながら、3イニングを被安打1の無失点に抑えた。8月26日の対ヤクルトスワローズ戦で、一軍の公式戦に初先発。この試合では、「右打者」として臨んだ第1打席で、一軍公式戦における初安打をライト前に放っている[3]。レギュラーシーズン全体では、高卒1年目ながら一軍公式戦10試合に登板。先発での登板は3試合で、9月15日の対中日ドラゴンズ戦(いずれも阪神甲子園球場)では8回まで中日打線をノーヒットノーランに抑えていた[4]が、いずれの登板でも勝敗は付かなかった。

1986年には、4月25日の対中日戦(甲子園)で宗彦との「兄弟バッテリー」が初めて実現。一軍公式戦には前年を上回る13試合に登板したものの、シーズンの途中に右肩を痛めたことを境に、未勝利のまま実戦から遠ざかった。

1988年には、アメリカで右肩の手術を受けた後に、リハビリへ専念する目的でNPBから任意引退選手として公示。後に支配下登録選手へ復帰したものの、1989年には背番号を60に変更している。

1990年に外野手へ転向[1]。これを機に、左打席でのバッティングを本格的に再開した[3]。「外野手」として正式に登録された1991年には、投手時代の1986年以来5年振りに一軍公式戦へ出場すると、27試合の出場で打率.221ながら6打点をマーク。その一方で、亀山努右翼手として一軍で台頭した1992年には、故障の影響もあって2試合の出場にとどまった。

1993年には、亀山がシーズンの途中から故障で戦線を離脱したことを背景に、主に「2番・右翼手」として44試合にスタメンで出場。しかし、シーズンの終了後に、米崎薫臣との交換トレードで近鉄バファローズへ移籍した[1]。近鉄では背番号35を割り当てられた。

1996年のレギュラーシーズン開幕前(3月)に北村俊介との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。日本人の選手としては珍しく、移籍を機に背番号42を着用したが、この年限りで現役を引退した[1]

現役引退後

[編集]

1997年から2003年まで中日で先乗りスコアラーを務めた。

2004年からスコアラーとして阪神へ復帰。

2018年頃からチーフスコアラーを任されている[5][6]。ちなみに、宗彦は1992年で現役を引退してからも、ブルペン捕手やバッテリーコーチとして阪神球団に一貫して在籍。現場を離れた2012年以降[7]は、2023年に一軍のバッテリーコーチとして現場へ復帰するまで、兄弟揃ってスコアラーを務めていた[8]

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1985 阪神 10 3 0 0 0 0 0 0 -- ---- 107 25.2 21 1 11 0 0 7 2 0 10 10 3.51 1.25
1986 11 1 0 0 0 0 2 0 -- .000 94 22.1 24 3 8 0 1 11 0 0 9 9 3.63 1.43
通算:2年 21 4 0 0 0 0 2 0 -- .000 201 48 45 4 19 0 1 18 2 0 19 19 3.56 1.33

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1985 阪神 10 4 4 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .250 .250 .250 .500
1986 11 4 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .250 .250 .250 .500
1991 27 88 68 8 15 3 0 0 18 6 3 1 5 0 14 0 1 17 1 .221 .361 .265 .626
1992 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1993 59 180 158 15 39 4 4 0 51 13 3 2 7 1 14 0 0 32 3 .247 .306 .323 .629
1994 近鉄 9 23 19 4 3 1 0 0 4 1 1 0 1 0 3 0 0 4 0 .158 .273 .211 .483
1995 16 17 14 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 0 1 0 .000 .176 .000 .176
1996 中日 4 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 0 1 0 .000 .500 .000 .500
通算:8年 138 320 270 28 59 8 4 0 75 20 7 4 13 1 35 0 1 62 4 .219 .309 .278 .587

背番号

[編集]
  • 15 (1985年 - 1988年)
  • 60 (1989年 - 1993年)
  • 35 (1994年 - 1995年)
  • 42 (1996年)

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、270ページ
  2. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ a b c d e “【内田雅也の追球】阪神・村上「へきれき」の一打に、DH制のないセ・リーグの醍醐味が詰まっている”. スポーツニッポン. (2023年7月29日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/07/29/kiji/20230729s00001173131000c.html 2023年8月2日閲覧。 
  4. ^ 『'92プロ野球選手写真名鑑』日刊スポーツ出版社、1992年、139頁頁。 
  5. ^ 【虎のソナタ】残酷…裏方さん達必死の努力が…」『サンケイスポーツ』2018年4月9日、2面。2023年8月2日閲覧。
  6. ^ 阪神 007シャッフルでライバル“丸裸” セ担当スコアラー全員変更」『スポーツニッポン』2019年1月7日。2023年8月2日閲覧。
  7. ^ "コーチのフロントへの転任について" (Press release). 阪神タイガース. 2 November 2011. 2023年8月2日閲覧
  8. ^ "嶋田バッテリーコーチ、馬場内野守備走塁コーチ、水口打撃コーチ就任会見" (Press release). 阪神タイガース. 22 October 2022. 2023年8月2日閲覧

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]