岡元義人
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岡元 義人(おかもと よしと、1910年(明治43年)9月27日[1] - 1958年(昭和33年)11月17日[2])は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。
経歴
[編集]鹿児島県[2]姶良郡、のちの隼人町[1](現霧島市)で岡元常助の長男として生まれる[1]。1923年(大正12年)宮崎県立小林中学校(宮崎県立小林高等学校)を卒業[2]。さらに市立大阪工業学校(現大阪府立都島工業高等学校)機械科を卒業した[1]。
1929年(昭和4年)大阪川西内燃機関研究所員となる[2]。1931年(昭和6年)朝鮮西松組に転じた[1]。以後、朝鮮水力電気機関庫主任、国際運輸自動車部主任を経て、承徳と天津市で華北運輸公司を経営し、さらに北京市で北支工廠を経営して終戦を迎えた[1][2]。
1946年(昭和21年)に帰国し、日南殖産社長に就任[1][2]。その他、鹿児島県姶良郡隼人連合青年会会長、鹿児島県引揚者更生連盟理事、同体育協会顧問、同牛馬飼育協会顧問などを務めた[2]。
中馬猪之吉、上野喜左衛門の辞職に伴い1947年(昭和22年)8月に実施された第1回参議院議員通常選挙・鹿児島県地方区補欠選挙に無所属で出馬して当選(補欠、任期3年)し[1][2][3]、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した[2]。この間、参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長などを務めた[2]。その後、第2回通常選挙(鹿児島県選挙区)、第3回通常選挙(全国区)、1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区)に立候補したがいずれも落選した[4]。
1958年(昭和33年)11月17日死去、48歳。死没日をもって勲四等瑞宝章追贈、従五位に叙される[5]。
著作
[編集]- 編『在ソ同胞の生死と徳田要請問題の真相』日刊労働通信社、1950年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第17版 上』人事興信所、1953年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
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先代 千田正 |
参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長 | 次代 大谷瑩潤 |