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岡元義人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡元 義人(おかもと よしと、1910年明治43年)9月27日[1] - 1958年昭和33年)11月17日[2])は、昭和期の実業家政治家参議院議員

経歴

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鹿児島県[2]姶良郡、のちの隼人町[1](現霧島市)で岡元常助の長男として生まれる[1]。1923年(大正12年)宮崎県立小林中学校(宮崎県立小林高等学校)を卒業[2]。さらに市立大阪工業学校(現大阪府立都島工業高等学校)機械科を卒業した[1]

1929年(昭和4年)大阪川西内燃機関研究所員となる[2]。1931年(昭和6年)朝鮮西松組に転じた[1]。以後、朝鮮水力電気機関庫主任、国際運輸自動車部主任を経て、承徳天津市で華北運輸公司を経営し、さらに北京市で北支工廠を経営して終戦を迎えた[1][2]

1946年(昭和21年)に帰国し、日南殖産社長に就任[1][2]。その他、鹿児島県姶良郡隼人連合青年会会長、鹿児島県引揚者更生連盟理事、同体育協会顧問、同牛馬飼育協会顧問などを務めた[2]

中馬猪之吉上野喜左衛門の辞職に伴い1947年(昭和22年)8月に実施された第1回参議院議員通常選挙鹿児島県地方区補欠選挙に無所属で出馬して当選(補欠、任期3年)し[1][2][3]緑風会に所属して参議院議員に1期在任した[2]。この間、参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長などを務めた[2]。その後、第2回通常選挙(鹿児島県選挙区)、第3回通常選挙全国区)、1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙鹿児島県第2区)に立候補したがいずれも落選した[4]

1958年(昭和33年)11月17日死去、48歳。死没日をもって勲四等瑞宝章追贈、従五位に叙される[5]

著作

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  • 編『在ソ同胞の生死と徳田要請問題の真相』日刊労働通信社、1950年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第17版 上』お121頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』274頁。
  3. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』533頁。
  4. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』387、533、544頁。
  5. ^ 『官報』第9575号370-371頁 昭和33年11月20日号

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第17版 上』人事興信所、1953年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会
先代
千田正
日本の旗 参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長 次代
大谷瑩潤