コンテンツにスキップ

山内正文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山内 正文
生誕 1891年10月8日
大日本帝国の旗 大日本帝国 滋賀県
死没 (1944-08-06) 1944年8月6日(52歳没)
ビルマ国
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1913年 - 1944年
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

山内 正文(やまうち まさふみ、1891年明治24年)10月8日[1][2] - 1944年昭和19年)8月6日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は中将。旧姓・秋山。

経歴

[編集]

滋賀県出身[1][3]。裁判官・秋山正義の息子として生まれる[1]膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業[1][2]。同期に青木重誠武藤章富永恭次佐藤幸徳田中新一山崎保代らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第60連隊付となる[1]

1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業[2][3][4]綾部橘樹有末精三斎藤義次小畑信良らが同期。陸軍きっての逸材と評されたが、中学出身であるため傍流とみなされていた[要出典]1925年(大正14年)3月、歩兵第39連隊中隊長に就任[1]。以後、参謀本部付勤務、参謀本部員、歩兵第33旅団司令部付、第10師団司令部付を歴任[1]

1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進し、同年11月からアメリカ駐在となり、1932年(昭和7年)、カンザス米陸軍大学校を卒業した[1]。同年6月、歩兵第8連隊付となり、同年8月、歩兵中佐に進級[1]1933年(昭和8年)8月、陸大教官に就任[1][3]1934年(昭和9年)11月から翌年1月までフィリピンに出張[1]教育総監部課員を経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し台湾軍参謀に就任[1][3]1937年(昭和12年)8月、兵科航空兵科に転じ航空兵大佐となる[1]。同年12月から翌年2月まで、第5軍参謀を兼務した[1][3]

1938年(昭和13年)4月、アメリカ大使館付武官となり、1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級[1][3]。同年12月、参謀本部付となる[1][3]。日本軍きってのアメリカ通と言われた[要出典]1940年(昭和15年)3月、第36歩兵団長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]第12軍参謀長を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将に進み第1独立守備隊司令官となる[1][3]1942年(昭和17年)6月、第15師団長に親補され、インパール作戦に参戦[1][2][3]。同作戦中、多くの将兵と同じように自らもマラリヤに罹患し[要出典]柳田元三と共に上官である牟田口廉也に忌避され[要出典]1944年(昭和19年)6月10日、師団長を解任され参謀本部付[1][2][3]となる。のち収容先のメイミョウの兵站病院で結核のため病没した[1][2][3]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『日本陸海軍総合事典』第2版、162-163頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』749頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』328頁。
  4. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。162、575頁。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。