小田切延寿
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小田切 延寿(おだぎり えんじゅ、1874年〈明治7年〉 - 1943年〈昭和18年〉10月1日)、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関大佐。昭和鋼管役員。
経歴
[編集]- 1874年(明治7年) - 旧米沢藩士・小田切盛徳の三男として生まれる。
- 1894年(明治27年)10月 - 海軍機関学校第1期[1]卒業[2][3]。席次は首席[4]。
- 1895年(明治28年)
- 1897年(明治30年)7月 - イギリス留学[7]
- 1898年(明治31年)4月1日 - 学資年額三千三百円給[8]
- 1900年(明治33年)5月 - 「出雲」分隊長として回航[1]、帰国[9]。
- 1901年(明治34年)
- 1902年(明治35年)10月6日 – 免本職並兼職、補 橋立分隊長[13]
- 1907年(明治40年)7月8日 - 休職[14]
- 1917年(大正6年)2月 - 予備役[1]
海軍在職中海軍大学校教官兼海軍教育本部部員、佐世保海軍工廠および呉海軍工廠で造機部長を務める[1]。米沢海軍武官会会員[15]。
- 昭和鋼管役員
栄典
[編集]- 位階
- 1896年(明治29年)2月10日 - 正八位[16]
- 1898年(明治31年)
- 1903年(明治36年)12月19日 - 従六位[19]
- 1906年(明治39年)11月30日 - 正六位[20]
- 1912年(大正元年)9月30日 - 従五位[21]
- 1917年(大正6年)2月20日 - 正五位[22]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章[23]・明治二十七八年従軍記章[24]
- 1901年(明治34年)11月30日 - 勲五等瑞宝章[25]
- 1915年(大正4年)2月26日 - 勲三等瑞宝章[26]
出版物
[編集]- 『円月相』 小田切延寿(編・出版) 1931年
- 『建長曇華心経』 菅原時保 (提講) 小田切延寿(出版) 1935年
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 『遠い潮騒』pp101-102
- ^ 「機関学校入校卒業者期号并人名の件」 アジア歴史資料センター Ref.C06091150800
- ^ “追憶 海軍機関学校 海軍兵学校舞鶴分校 同窓会名簿”. 2015年2月7日閲覧。
- ^ 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会)
- ^ 『官報』第3719号「叙任及辞令」1895年11月19日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1895年12月29日。
- ^ 「30年7月21日 海軍少機関士小田切延寿英国留学に付旅行券交付の件」 アジア歴史資料センター Ref.C10126222800
- ^ 「4月」 アジア歴史資料センター Ref.C13071930100
- ^ 「帰朝の途次取調研究調査に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.C10100650800
- ^ 『官報』第5125号「叙任及辞令」1900年8月2日。
- ^ 『官報』第5278号「叙任及辞令」1901年2月8日。
- ^ 『官報』第5334号「叙任及辞令」1901年4月18日。
- ^ 『官報』第5779号「叙任及辞令」1902年10月7日。
- ^ 『官報』第7207号「叙任及辞令」1907年7月9日。
- ^ 『遠い潮騒』144頁
- ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第4603号「叙任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
- ^ 『官報』第51号「叙任及辞令」1912年10月1日。
- ^ 『官報』第1365号「叙任及辞令」1917年2月21日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
- ^ 『官報』第770号「敍任及辞令」1915年2月27日。
参考文献
[編集]- 松野良寅『遠い潮騒 米沢海軍の系譜と追想』米沢海軍武官会事務局、1980年