小泉六一
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小泉 六一 | |
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生誕 |
1875年3月6日 日本 広島県 |
死没 | 1945年3月1日(69歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1896–1930年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
小泉 六一(こいずみ ろくいち、1875年(明治8年)3月6日[1][2] - 1945年(昭和20年)3月1日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]広島県出身[1][2][3]。広島藩下士[要出典]・士族秋山恂一の次男として生れ、小泉弥一の養子となる[1]。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業[2]、翌年1月歩兵少尉に任官し、歩兵第21連隊付となる[1][4]。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を卒業[1][2][3]。日露戦争時には歩兵第11連隊中隊長、第4師団参謀、第2軍参謀を務めた[1]。
第1師団参謀、陸軍省軍務局歩兵課員、歩兵第1連隊付、欧州出張を経て、第一次世界大戦において1915年(大正4年)8月から青島守備軍副官となった[1][2][3]。以後、歩兵第1連隊長、軍務局歩兵課長などを歴任し、1920年(大正9年)8月、陸軍少将に進級[1][3]。陸軍兵器本廠付(作戦資材整備会議幹事長)を経て、憲兵司令官となるが、1923年(大正12年)9月の関東大震災直後に起こった甘粕事件により、9月20日に停職、翌年1月に待命となった[1][2][3]。
しかし、1924年(大正13年)2月には歩兵第13旅団長として復帰し、1925年(大正14年)5月、陸軍中将となった[1][2][3]。支那駐屯軍司令官、第11師団長、第3師団長などを歴任し、1930年(昭和5年)8月、予備役に編入された[1][2][3]。
1936年(昭和11年)から1944年(昭和19年)6月まで、帝国在郷軍人会副会長を務めた[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1915年(大正4年)4月24日 - 勲三等瑞宝章[6]
- 1919年(大正8年)11月28日 - 旭日中綬章[7]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[8]
- 1922年(大正11年)6月27日 - 勲二等瑞宝章[9]
- 1928年(昭和3年)7月30日 - 勲一等瑞宝章[10]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、63頁。
- ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』294頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』126頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124、126頁。
- ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
- ^ 『官報』第822号「叙任及辞令」1915年5月1日。
- ^ 『官報』第2197号「叙任及辞令」1919年11月29日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」1922年6月28日。
- ^ 『官報』第478号「叙任及辞令」1928年7月31日。