太田資俊
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保5年(1720年) |
死没 | 宝暦13年12月10日(1764年1月12日) |
改名 | 新六郎(幼名)、資俊 |
戒名 | 道俊日潤慈徳院 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従五位下・摂津守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、寺社奉行 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 上野館林藩主→遠江掛川藩主 |
氏族 | 太田氏 |
父母 | 太田資晴、戸田氏定娘 |
兄弟 |
資俊、資胤、晴郷、戸田氏住、佐野茂幸、千本嘉隆、太田資賢正室、角倉玄篤室、 堀田正邦正室、太田資知正室、 井上正辰正室、芳春院ら |
妻 | 板倉重治養女 |
子 |
資愛、板倉勝志正室、久留島通祐正室、 稲垣長以継室、内藤頼尚正室ら 芳春院 |
太田 資俊(おおた すけとし)は、江戸時代中期の大名。上野国館林藩主。遠江国掛川藩初代藩主。江戸幕府の寺社奉行。掛川藩太田家5代。官位は従五位下・摂津守。
略歴
[編集]大坂城代などを務めた太田資晴の長男として誕生した。母は戸田氏定の娘。幼名は新六郎。
元文5年(1740年)、家督を継いだ。奏者番となる。延享3年(1746年)9月25日、館林から掛川に移封された。後に寺社奉行にもなった。宝暦13年(1763年)12月10日、掛川にて死去し、跡を次男の資愛が継いだ。法号は道俊日潤慈徳院。墓所は静岡県三島市の妙法華寺。
系譜
[編集]父母
正室
子女
養女