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大江清通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大江清通
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
官位 従四位上木工頭
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 大江氏
父母 父:大江澄明
藤原道綱娘・豊子
定経、橘為義室、宮内卿郷中母、
少輔の乳母、藤原輔公室、藤原実経室
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大江 清通(おおえ の きよみち)は、平安時代中期の貴族参議大江朝綱の孫。民部少輔・大江澄明の子。官位従四位上木工頭

経歴

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生年は不詳であるが、父の大江澄明が天暦4年(950年)に亡くなっているため、それ以前の生まれであることは分かっている[1]永延3年(989年従五位下叙爵し、翌永祚2年(990年中宮亮に任ぜられ、中宮藤原定子に仕える。

長徳2年(996年)に発生した長徳の変後も引き続き中宮亮を務めるが、長保2年(1000年)2月に左大臣藤原道長の娘である彰子が中宮となると、今度はその中宮大進に転じる。なおこの任官の少し前の同年正月に放火のため清通の中御門の邸宅が焼亡している[2]。また、同年3月にはかつての三河守としての治国を賞されて正五位下に叙せられた。

長保4年(1002年備前守として地方官の任務について朝廷に申請を行っていることや[3]長保末から寛弘初頭(1003年-1005年頃)にかけて古記録類に登場しないことから、この頃地方官として下向していたと見られる。

その後、藤原道長の側近となったらしく、寛弘4年(1007年)以降、道長が方違えの際に清通の邸宅に宿泊したり[4]、寛弘8年(1011年)頃より清通が中宮亮として再び中宮・藤原彰子に仕えるなどしている。また、室・豊子とその娘(少輔の乳母)の両方が、道長の外孫である後一条天皇乳母を務めた。

小右記』寛仁2年11月19日条に太皇太后宮亮として登場するが、その数か月後の寛仁3年2月15日条では藤原兼綱がその職に就いていることが判明するため、その間に病死もしくは致仕したと推測されている[5]

官歴

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系譜

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注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 角田文衞「後一条天皇の乳母たち」『王朝の明暗 平安時代史の研究 第二冊』東京堂出版、1977年、160頁。 
  2. ^ 『権記』長保2年正月8日条
  3. ^ 『権記』長保4年4月10日条
  4. ^ 『権記』寛弘4年10月21日条、『御堂関白記』寛仁元年正月20日,27日条等
  5. ^ a b 角田文衞「後一条天皇の乳母たち」『王朝の明暗 平安時代史の研究 第二冊』東京堂出版、1977年、168頁。 
  6. ^ a b 『小右記』
  7. ^ a b 『勘例』
  8. ^ a b c d 『権記』
  9. ^ a b c 『御堂関白記』
  10. ^ a b 「大江系図」『続群書類従』巻第176所収
  11. ^ 『紫式部日記』38

参考文献

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