坂本一 (海軍軍人)
坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年10月12日) - 1948年(昭和23年)11月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]高知県出身。1874年(明治7年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年(明治16年)11月、海軍少尉に任官。1890年(明治23年)1月、「海門」分隊長となり、「比叡」「金剛」「赤城」の各分隊長、「浪速」航海長、海軍大学校副官。1894年 (明治27年) 6月、「厳島」航海長となり、7月に勃発した日清戦争に出征。その後「鎮遠」回航委員、「葛城」副長などを経て、1896年(明治29年)4月、海軍少佐に昇進し横須賀水雷団第2水雷艇隊司令に就任した。
1896年11月、「富士」回航委員(イギリス出張)となり、同航海長を経て、1897年(明治30年)12月、海軍中佐に昇進した。同月、「厳島」副長に発令され、「富士」航海長、兼常備艦隊航海長、「八島」副長、「赤城」「豊橋」の各艦長を歴任し、1900年(明治33年)9月、海軍大佐に進級した。
1901年(明治34年)2月、「千代田」艦長に就任し、「笠置」艦長、艦政本部第2部長を経て、1903年(明治36年)10月、「八島」艦長となり日露戦争に出征。旅順港閉塞作戦に従事していたが、1904年(明治37年)5月15日、乗艦「八島」が旅順沖で触雷し沈没した。同年8月、大連湾防備隊司令官に就任。
1905年(明治38年)11月、「富士」艦長となり、「香取」回航委員長、同艦長、水路部長を経て、1907年(明治40年)3月、海軍少将に進級した。1908年(明治41年)8月、舞鶴工廠長に就任し、横須賀工廠長を経て、1911年(明治44年)6月、海軍中将に進んだ。
1912年(大正元年)12月、旅順鎮守府司令長官となり、海軍将官会議議員、舞鶴鎮守府司令長官などを歴任。1916年(大正5年)4月に待命、同年12月、予備役に編入となった。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 1883年(明治16年)12月25日 - 正八位[2]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 正七位[3]
- 1896年(明治29年)7月20日 - 従六位[4]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正六位[5]
- 1913年(大正2年)2月20日 - 正四位[6]
- 1916年(大正5年)12月20日 - 従三位[7]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 単光旭日章・功五級金鵄勲章[8]・明治二十七八年従軍記章[9]
- 1897年(明治30年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[10]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[11]
- 1910年(明治43年)5月20日 - 勲二等瑞宝章[12]
- 1915年(大正4年)
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日
- ^ 『官報』第3918号「叙任及辞令」1896年7月21日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
- ^ 『官報』第1317号「叙任及辞令」1916年12月21日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
- ^ 『官報』第4323号「叙任及辞令」1897年11月27日。
- ^ 『官報』第5835号・付録「叙任及辞令」1902年12月13日。
- ^ 『官報』第8073号「叙任及辞令」1910年5月23日。
- ^ 『官報』第847号「叙任及辞令」1915年5月31日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。