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原口忠次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原口 忠次郎
はらぐち ちゅうじろう
原口忠次郎先生像
生年月日 (1889-11-12) 1889年11月12日
出生地 佐賀県小城郡芦刈町
没年月日 (1976-03-22) 1976年3月22日(86歳没)
死没地 神戸市立中央病院
兵庫県神戸市中央区
出身校 京都帝国大学

当選回数 4
在任期間 1949年 - 1969年
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原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日 - 1976年3月22日)は、日本土木技術者官僚政治家神戸市長(第12代)。参議院議員(1期)。工学博士

来歴

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佐賀県小城郡芦刈町(現小城市)生まれ。

金沢旧制第四高等学校を経て、1916年(大正5年)京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、内務省に入省、東京土木出張所、新京国道建設所長、神戸・中国・四国などの土木出張所長を歴任した。

1945年(昭和20年)神戸市の局長、1946年(昭和21年)復興本部長、神戸市助役を務め、1947年(昭和22年)の神戸市長選挙に落選後、第1回参議院議員通常選挙兵庫県選挙区日本社会党公認で当選。1949年(昭和24年)神戸市長に当選し、1969年(昭和44年)まで5期20年務めた。

「技術屋市長」として、山を削った土で海面を埋め立ててポートアイランドなどを整備し、山を削った跡をニュータウンなどとして開発する事業(いわゆる「山、海へ行く」と呼ばれた事業。鶴甲渦森台住吉川も参照)を行ったほか、六甲山トンネルを含む六甲有料道路神戸ポートタワー神戸高速鉄道さんちか(地下街)などの事業の実施、明石海峡大橋の実現に向けた調査などに行政手腕をふるった。

1976年3月22日、脳梗塞のため神戸市立中央病院にて死去。86歳。当時の宮崎辰雄市長を葬儀委員長にした市民葬が行われた[1]。死没日をもって従四位から従三位に叙される[2]

没後にポートアイランド中公園に銅像が建立され[3]、明石海峡大橋が竣工した後、舞子公園に原口の偉業を記念したモニュメント「夢レンズ」[注 1]が建立された[5]

牛尾啓三の作品「夢レンズ」から明石海峡大橋を望む

栄典

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著作

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  • 米田正文共著『土と杭の工学』岩波書店、1931年。
  • 米田正文共著『新土と杭の工学』岩波書店、1951年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「夢レンズ」モニュメントの台座には、原口が明石海峡大橋建設の是非を問われた際に言った『人生すべからく 夢なくしてはかないません[4]の言葉が刻まれている。

出典

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  1. ^ 訃報欄『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月28日朝刊、13版、23面
  2. ^ 『官報』第14770号15-16頁 昭和51年4月2日号
  3. ^ ポートアイランド中公園にある『原口忠次郎先生像』【神戸フォト】”. 神戸ジャーナル. 株式会社ジャーニージーン (2016年2月2日). 2024年5月11日閲覧。
  4. ^ 最近思うこと” (PDF). 支部だより. 土木学会 関西支部 (2004年4月). 2024年5月11日閲覧。
  5. ^ 夢レンズ 明石海峡大橋生みの親の顕彰碑”. 舞子公園のみどころ. 公益財団法人 兵庫県園芸・公園協会 舞子公園管理事務所. 2024年5月11日閲覧。
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  7. ^ a b 原口 忠次郎https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E5%8F%A3%20%E5%BF%A0%E6%AC%A1%E9%83%8Eコトバンクより2023年2月10日閲覧 
  8. ^ 『官報』第11371号19-21頁 昭和39年11月6日号
  9. ^ 『官報』第11513号14頁 昭和40年4月30日号
  10. ^ 神戸市名誉市民”. 神戸市. 2022年8月1日閲覧。

参考文献

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  • 原忠明『激動期 六人の神戸市長』原忠明、1988年。
公職
先代
小寺謙吉
神戸市
第12代(民選第2代) : 1949年 - 1969年
次代
宮崎辰雄
その他の役職
先代
金刺不二太郎
全国市長会会長
第7代 : 1956年 - 1957年
次代
高田富與