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加治田城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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加治田城
岐阜県
別名 却敵城 加治田山城 古城山 白華山 梨割山
城郭構造 山城
天守構造 独立式二重櫓(初期)後に三重櫓以上(改築後の最大天守
中腹屋敷城・城主屋敷城
には御殿屋敷城
築城主 佐藤忠能佐藤忠康
築城年 1558年 - 1570年
主な改修者 斎藤利治斎藤利堯
主な城主 佐藤氏斎藤氏森氏
廃城年 1583年頃~
遺構 曲輪、曲輪群、帯曲輪腰曲輪、石積(石垣)、土塁堀切畝状竪堀切岸虎口岩場跡(旗立穴、米置場狼煙台見張台櫓台)、天然チャート自然石垣、井戸湧水)、総構え川浦川津保川内)等
指定文化財 未指定
再建造物 清水谷公園登山道
位置 北緯35度29分52.6秒 東経136度59分35.9秒 / 北緯35.497944度 東経136.993306度 / 35.497944; 136.993306座標: 北緯35度29分52.6秒 東経136度59分35.9秒 / 北緯35.497944度 東経136.993306度 / 35.497944; 136.993306
地図
加治田城の位置(岐阜県内)
加治田城
加治田城
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加治田城(かじたじょう)は、戦国時代美濃国加茂郡岐阜県加茂郡富加町加治田)にあった日本の城本名却敵城(きゃくてきじょう)。別名・加治田山城。山の名前としては加治田山や古城山[1]、あるいは白華山と呼ばれた。現在は山全体を梨割山という。史跡未指定[2]

概要

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美濃国と飛騨国の入口(現:下呂市金山町)の道をつなぐ重要な街道で中濃に位置し、西濃岐阜城)・大垣城東濃苗木城)・奥美濃郡上八幡城)の中間位置としての要衝要所要害要地拠点[3] であった[4]濃尾平野の北に位置する。

歴史

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加治田城の築城時期は不明であるが、戦国時代永禄年間(1558年 - 1570年)には、美濃佐藤氏の居城であった。佐藤忠能忠康父子が築城したとも伝えられている。

佐藤氏は初め美濃斎藤氏に従っていたが、のちに尾張国織田氏に内応。そのため永禄8年(1565年)に、堂洞合戦関・加治田合戦において斎藤氏に攻め込まれるが、織田氏の支援も得ていずれも撃退している。しかし、関・加治田合戦において佐藤忠康が戦死したため、織田信長の命により斎藤道三の末子・斎藤利治が城主となった。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において利治が死去すると、斎藤利堯が跡を継ぎ織田信孝の家老となった。しかし、同年7月には東美濃での勢力拡大を狙う森長可との間で加治田・兼山合戦が起こり、奮闘し城を死守。しかし、その後(1582年~1583年)、利堯の城主としての活動が見えなくなり、その所領は森氏が統合した[5]

その後、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した森氏は、領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考慮し加治田城を廃城にした。廃城後、城下町は宿場町として昭和初期まで栄えた。

現在

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一の丸二の丸三の丸四の丸まであり、石積み(石垣)、土塁、竪堀、横掘、切岸、虎口が残る。城域(総構え)が梨割山から津保川川浦川辺りまであった[6]

東公民館辺りが城主屋敷跡。絹丸(衣丸)の神社の横道より山に登る道があり、上まで行くと見晴らしがいい岩がある。昔はそこまで馬車で兵糧米を運び、そこから城へ人間が担いで運んでいた。岩は狼煙台としても使われていた[7]三徳岩は今でもあり、旗を立てていた穴が空いている。

東海環状自動車道で通過するトンネルの真上が加治田城跡になり、向側のトンネルは長尾丸山堂洞城長尾丸)の真下を通り、そこは佐藤忠能の娘・八重緑が串刺しにされた場所である[8]

金華山恵那山御嶽山伊吹山白山中央アルプス南アルプス鳩吹山各務原アルプス鈴鹿山脈飛騨山脈板取川源流高賀山方面、名古屋の駅ビル(JRセントラルタワーズ)等と遠くは伊勢湾まで見え[9]、中濃全域(濃尾平野美濃国)が一望できる。現在でも城下町の面影が残る。富加町龍福寺・郷土資料館・役場に城の資料が保管されている。

地形・構造

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古城山(海抜270メートル)では尾根に沿って至る所に曲輪土塁・石積(石垣)・虎口が設けられており、急斜な山を中心に北は津保川、南は川浦川の天然の堀(川)に囲まれている。

山と川の間である南の平地には飛騨国国府)からの重要な街道があり、街道に沿って町場(上町・中町・下町)、町場の北には、上之屋敷、殿屋敷(屋敷城)、新沢屋敷、東には小山(現天神山)に三徳砦で堅固な、西のは旧加治田小学校辺り、さらに西には衣丸と捨堀、郷が洞、米取岩(場)やのろし場、この他にも、清水滝口・東の清水口・捨堀口・鳥帽子岩・霊雅山・小屋洞・田洞・石拾い・木戸外・馬場があり、龍福寺清水寺も麓にあった。北の山では急斜面な岩場が多く、麓は津保川が流れて「北の難所」と言われており、登るのは困難である。加治田山(現梨割山白華山)全域で城の道が繋がっており、至る所に曲輪や砦があり、山全体が城でもあった。

白華山清水寺入口から梨割山全域の砦辺りはチャート層の岩石で囲まれており、天然と人工の加工した石垣となっている。

景観が中濃全域、北濃西濃東濃の一部、遠くは尾張(現名古屋駅JRセントラルタワーズ))や、晴れていれば伊勢湾まで遠望でき、中濃の真中の場にあった(支城の毛利山城(牛ヶ鼻砦)、一柳城(大洞城)も視認できる)。支城以外では、岐阜城金山城土田城米田城鉈尾山城明智城猿啄城迫間城関城堂洞城等、他にも多くの城跡場を見渡せる(愛知県では名古屋城小牧城清州城犬山城等である)。城下町も街道の賑わいがたえず重要な城であった。

城郭・遺構

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主郭・天守・本丸
古城山頂に分布し、一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪があり、大手曲輪、帯曲輪腰曲輪、石積(石垣)、堀切畝状竪堀切岸虎口岩場跡、土塁見張台が加治田山のや尾根に続く。主要な主郭曲輪入口や難所には虎口があった。本丸には、物見櫓、見張櫓、隅櫓、主郭の住居(天守)があり、織田信長の中濃侵攻戦時は、櫓(二重)があった。加治田城最大規模改築(加治田・兼山合戦)においては三重櫓以上となる。主郭と虎口の施設には今でも石垣や石積み、岩跡が残っている。本丸には加治田城の表示がある。
東曲輪(東砦)・西曲輪(西砦)
本丸より東の山に東曲輪がある。本丸より竪堀堀切から西には岩(狼煙台)と西曲輪の岩跡が遺っている。東西から本丸を囲んでいる。
中腹屋敷城・城主屋敷城
加治田城本丸・本城と城下町・御殿屋敷城の中腹(山腹)にあった屋敷城。帯状に重なった曲輪が遺っている[10]
東櫓・西櫓
東の小山(天神山)には、堅固なで三徳櫓、西の小山(元加治田小学校裏山)に砦があった(東は家老長沼三徳、西は古参の西村治郎兵衛が守備)。三徳櫓には、旗を立てる大岩(三徳岩)がある。この砦は加治田城御殿屋敷を囲むように位置し、加治田城山頂本丸へつづく道を挟んでいる。(こちらが本来の登山道であり、登るのが困難なジグザグの本城登山道となっており、今も整備されており途中、厳しいところには登山用ロープが用意されており、ロープで登ることが可能である。)
御殿屋敷・家臣団屋敷・龍福寺
上之屋敷とも言い、城主の居館伝承地がある。東公民館(旧加治田村小学校加治田村役場跡)が跡地となっており、公園がある。山沿いへ西に行くと、菩提寺「龍福寺」がある。この山縁の場に家臣団屋敷があった。
衣丸(出丸)
川浦川にある絹丸橋の北、加治田山麓の絹丸神社の南にあり、捨堀に囲まれ柵が二重三重であり、や家臣の石垣でつくられた屋敷もあった。街道が加治田村(絹丸村)の東で飛騨路として加治田の出入口、西は関市岐阜方面、北は加治田山を登り、武儀郡郡上八幡敦賀方面、南は勝山から木曽川を下り、伊勢神宮への街道が衣丸にて分かれており、重要な曲輪であった(関・加治田合戦においても長井道利勢を衣丸で防ぎ切り、加治田城下町や本城への侵入を防いでいることや、湯浅新六等、主要な将を配置している)[11]
馬場
街並の南裏・川裏側の北に、駅馬があり、駅家郷があった。
木戸外
加治田城下町西のはずれで、付近は駅の出入口のがあった。
米取場・狼煙台・見張台
衣丸より、北街道の絹丸神社の横道を行くと加治田山途中に大きな岩山がそびえたつ。その岩山が米取場(米置場)として使用され、そこまでは馬車で運び、米取場からは、本城まで人が担いで城まで運んでいた。岩山は景観がよく、狼煙台・見張台や砦としても使用されていた。北の津保川と南の衣丸から同じ距離になり、東の本城へ続く道もあり、重要視された。
東清水口
白華山清水寺の入口砦で、南は川浦川大洞川があり、入口は狭く侵入が難しい場所である。白華山清水寺より加治田城本丸への道がつづいているが、本丸の周りを回りながら登城しなければならない。
清水滝口
白華山清水寺の裏手の砦であり、がながれている。川口が深く道が狭い場所で守りやすく攻めにくい。
郷が洞
絹丸神社裏頂上山に位置し砦があった。
鳥帽子岩・霊雅山
龍福寺の北、西の頂上の山。ここにも砦があった。
小屋洞・田洞・石拾い
加治田衆武将農民町民の領民が組織した部隊が集まる砦があった。
北の難所
北は津保川が流れている麓から梨割山頂上までは急斜面ので岩肌が多く、登るのは至難の場所であった。唯一、衣丸から加治田山の米取場を通り、武儀郡へ出る道が西にあるが、北の入口は津保川が流れており、入口は砦があり急で狭く侵入が難しい。また、山の丘の登り降る傾斜が多く難を極めた。
梨割山山頂
北の難所の頂上で加治田城本丸より奥にある。加治田城下町より中大手道から城主の中腹屋敷を通り、西大手道→西見張台→堀切から東が本丸への道と大手門があり、北へ搦手曲輪→搦手道→梨割山山頂へと続いていた。山頂はひらけており、北側の景観を一望できる。また、麓の城下町は見えないが南方の遠くまで見渡せる場所で見張台、狼煙台、砦があった。
加治田川小牧
北側の平地。津保川沿いに町屋や佐藤氏親族屋敷が並んでいた。又、川の瀬が深い事も有、川舟の流通も兼ねている[12]

城下町

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登山道

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  • 白華山清水寺より北川の上り路もしくは、寺院内の北側より、加治田城本丸のまわりを周り迂回しながらの登山となる。
  • 絹丸神社の真横の街道より岩場がそびえ立つ旧米取場を通り、梨割山山頂をぬけ、加治田山の加治田城本城への山道。
  • 絹丸神社内の東側にも山道があり、山の神の石碑の横を通り、岩場である米取場を通る道もある。
  • 北の難所の加治田川小牧地区より、本城への道もある。
  • 正式の旧本城登山道は、加治田東公民館の公園のさらに横の道より、本城への道があり整備されているが、途中難攻不落の由縁でもある難所があり、急な場所にはロープを利用して登る必要がある。
  • 加治田龍福寺より、本城へ上る道もあるがとても険しく登山用の準備が必要である。
  • 加治田北東の大洞川源泉地域よりからも登山できる旧道がある。

支城

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逸話

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  • 通名は却敵城が戦国時代の名である。却敵城の名は美濃国中濃において全ての敵を退けた事が所以である。攻守ともにバランスがよい難攻不落[20]
  • 当時の却敵城は麓の御殿屋敷城から中腹屋敷城、本丸天守がある城において、石垣で築かれた非常にまとまった技巧的な城郭であると調査研究により判明している[21]
  • 加治田城の石垣が現在でも使用されている場として、大洞川町田水加治田用水)取入口が加治田城の石垣をおとし川をとめて作った事と、松井屋酒造場の南側に文ノ字屋の川端の石垣は加自田城の石垣を使ったと云われ、現在も見ることができる[22]
  • 北西の津保川川舟流通、東南の川浦川大洞川は水生生物が豊富にあり、川の漁業が行われていた[23]
  • 津保川と川浦川が合流する加治田城総構え西端はが行き来できる川淵であり、船による貿易やと漁業が行われ、加治田は地域をなし、歴史の霊地として白華山清水寺と共に加治田衆と云われる人材も東西南北より集った[24]

資料

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「加治田城跡、現在城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも呼ばれていました。桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって…(中略)…城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正10年(1582年)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。その後の加治田城は天正10年(1582年)の加治田・兼山合戦を斎藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。」(富加町教育委員会 2000年(平成12年)11月『富加町史』(一部改変)より)

書籍

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  • 三宅唯美・中井均編『岐阜の山城 ベスト50を歩く』サンライズ出版、2010年
  • 佐藤隆『掠世の女(ひと)』鳥影社、2003年
  • 富加町教育委員会 企画・編集、渡辺浩行 マンガ構成・作画『夕雲の城―織田信長の東美濃攻略歴史PRマンガ―』2017年
  • 中井均・内堀信雄 編『東海の名城を歩く 岐阜編』吉川弘文館、2019年
  • 富加町文化財審議会 編『とみかの文化財 加治田の文化財と歴史』
  • 天池治彦 2017年『神秘十字研究史 郷土史・地域史・加治田歴史』
  • 香川元太郎 2021年『ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城』

現地案内

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所在地

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  • 〒501-3301  岐阜県加茂郡富加町加治田

交通アクセス

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イベント・観光コース

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郷土資料館

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商品

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脚注

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  1. ^ 「現在の富加町加治田上之屋敷に在り。古城山と言う。海抜270m、一名却敵城とも言う。屋敷城はその麓にあった。」(『富加町史』)
  2. ^ 「富加町の重要文化財」 富加町公式HP
  3. ^ 地形位置坊城攻城飛騨街道城下町宿場町)・支配地域等の複雑な城として考慮され築城された要塞城とも言える。それが名として遺る却敵城
  4. ^ 金山町誌』、金山町誌編纂委員会、下呂市、84頁「加治田が飛騨路の要衝」「古来から加治田は町場としての要地であった」「加治田を飛騨路の駅に想定した理由」
  5. ^ 利堯は7月に『堂洞軍記』では病死、『兼山記』では討ち死したとされているが、実際には加治田城陥落後も生存が確認されている(斎藤利堯の項参照)。
  6. ^ 衣丸や捨掘、馬場、出丸、御殿、武家屋敷も含む(加治田・兼山合戦に至る加治田城改築最大規模まで)。
  7. ^ 岩場は米置場米取場とされている
  8. ^ 正確には、富加町役場東児童館(旧わかくさ保育園)の真北に堂洞城長尾丸がある。
  9. ^ 『夕雲の城』資料編26頁「山の稜線から南を見ると晴れていれば名古屋駅前の高層ビルや伊勢湾も見えます。」
  10. ^ 「現在の加治田郵便局の裏側北山中腹に位置する」
  11. ^ 『富加町史』『加治田兼山合戦要図地図』『関・加治田合戦』
  12. ^ 「川小牧の意味と水量が多くあることで、富加町において旧水力発電所が建設されている」
  13. ^ 関城が落城し、斎藤利治の領地後は代官が置かれ、関市城下町も含まれることとなった。
  14. ^ 「加治田川小牧地域」
  15. ^ 「加治田川小牧には智勝院観音堂山之神貴舟神社神明神社秋葉神社薬師堂津島神社天王神社白山神社馬頭観音が落地図にあり、総構えの津保川の直ぐ外西には東香寺等の名勝が多くある」
  16. ^ 「旧飛騨街道」
  17. ^ 「加治田城より南に7キロの飛騨川沿いの絶壁城。加治田衆西村治郎兵衛が城代」
  18. ^ 「加治田城と郡上八幡の中間に位置する盆地にあり、西を武儀倉川、東を津保川に囲まれた山城」
  19. ^ 「蜂屋村には旧堂洞城。武儀八幡にも館がある。中濃を加治田城中心に一族が支配・領国となっている」
  20. ^ 加治田城 現在の富加町加治田上屋敷に在り。古城山と言う。海抜270m、一名却敵城とも言う。一中濃三城盟約 185頁
  21. ^ 『東海の名城を歩く 東美濃拠点山城と城下町』140-143頁
  22. ^ 木村小舟物語』丹羽秦夫 126-127頁
  23. ^ 『加治田を流れる川浦川』126-127頁
  24. ^ 「高畑部落地図」『富加町史』112-113頁
  25. ^ 「松井屋酒造場」富加町公式HP

参考文献

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  • 『堂洞軍記』
  • 『新堂洞軍記』
  • 『堂洞軍艦記』
  • 『米田庄・肥田軍記』
  • 『南北山城軍記』
  • 『永禄美濃軍記』
  • 『信長公記』
  • 『岐阜県史』
  • 『富加町史』
  • 『金山町誌』、金山町誌編纂委員会、下呂市、2005年復刻
  • 『加治田城復元イラスト(永禄八年(1565年)想定』 香川元太郎 富加町教育委員会 富加町郷土資料館 半布里文化遺産活用協議会」[1][2]
  1. ^ 「戦国時代考証加治田町教育委員会 2016年 富加町蔵」
  2. ^ 「加治田城復元イラストは堂洞合戦前の築城初代か築城途中である加治田城のイラスト」

関連項目

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外部リンク

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