光定 (僧)
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光定(こうじょう、宝亀10年(779年) - 天安2年8月10日(858年9月20日))は、平安時代前期の天台宗の高僧。俗性は贄(にえ)氏。伊予国風早郡の出身。石鉄山の開山、延暦寺の天皇御願四王院建立など多くの功績を残している。(高別当大師とも称される。)
生涯
[編集]- 延暦17年(798年)、20歳のとき父母の死をきっかけに出家。山林で修行する。
- 大同元年(806年)、僧勤覚のすすめにより上京し、師とすべき人物をさがす。
- 大同3年(808年)、比叡山に登り日本天台宗の祖最澄に師事し、義真に「摩訶止観」を学ぶ。
- 大同4年(809年)、止観業の年分度試に及第[2]。
- 弘仁元年(810年)1月、宮中での金光明会において、天台宗の年分度者として得度。
- 弘仁3年(812年)4月、東大寺で具足戒を受ける。ときに33歳。
- 弘仁4年(813年)3月、泰範、円澄らとともに空海から金剛界灌頂を受ける[3]。
- 弘仁6年(815年)3月、嵯峨天皇の御前に召され、従五位下玄蕃頭真苑雑物(もと興福寺僧)と天台宗の教義をめぐって討論。
- 弘仁9年(818年)2月、最澄から大乗戒壇設立の構想を打ち明けられる。以後、設立実現まで最澄の使者として朝廷との交渉に奔走。『文徳天皇実録』の光定卒伝は、設立の勅許は光定の力によると記している。
- 4月、勅命により最澄が祈雨した際、参列してともに行ず。降雨の験あり、褒賞として修行満位に叙せられる。
- 7月、最澄が比叡山内諸院の管理者を定めた際、戒壇院知事、宝幢院別当となる。
- 9月、伝灯満位に叙せられる[4]。
- 弘仁13年(822年)6月4日、最澄入滅。11日、大乗戒壇設立の勅許下る。その後、天台宗に対する年分度者の国講師・読師の任命も最澄の主張どおり認められた。
- 弘仁14年(823年)4月、延暦寺止観院(根本中堂)にて座主義真を戒師として大乗戒受戒。嵯峨天皇より宸筆の戒牒(延暦寺蔵。国宝)を賜る[5]。
- 天長2年(825年)、天台僧としてはじめて天王寺講師となる。
- 天長5年(828年)、伝灯法師位に叙せられる。光定が瓶ヶ森より石土山を現在の石鎚山へ移す。これにより石鈇山と呼ばれるようになる。
- 天長10年(833年)、法隆寺講師となる。
- 承和2年(835年)、仁明天皇に召されて常に宮中で近侍するようになり、内供奉十禅師に任ぜられる。
- 承和5年(838年)、伝灯大法師位に叙せられる。また、延暦寺戒和上となる。
- 嘉祥3年(850年)12月、光定の表請により止観業の年分度者が2人加増される。[6]
- 仁寿4年(854年)、文徳天皇の勅命により延暦寺別当に任ぜられる。また、延暦寺に天皇御願の四王院を建立。
- 天安2年(858年)7月、80歳を祝して朝廷から度者、絹、布、綿、銭、米などを賜る。
- 8月10日、延暦寺八部院坊にて入寂。享年80。
光定と文学
[編集]光定が著した回想録『伝述一心戒文』には、光定の作った詩が7首収められている。光定の詩は勅撰三集には入集していないが、『文華秀麗集』に嵯峨天皇「光法師の『東山に游ぶ』の作に和す」が、『経国集』に滋野貞主「光禅師の『山房暁風』に和す」があり、文人と詩作を通じた交流があったことがわかる。
参考文献
[編集]- 『伝述一心戒文』…光定自身の著作。成立は承和年間[7]。
- 『延暦寺故内供奉和上行状』…『続群書類従』第8輯下所収。成立は貞観16年(874年)5月。円豊らが著した光定の伝記。
- 『文徳天皇実録』天安2年(858年)8月10日条の光定卒伝…『延暦寺故内供奉和上行状』にもとづいて書かれている。
脚注
[編集]- ^ 延暦寺木造光定大師立像の概要を知りたい。 - レファレンス協同データベース、2019年7月23日閲覧。
- ^ 天台宗の年分度者は止観業1人、遮那業1人の計2人が、桓武天皇によ り大同元年1月に新設されたが、天皇の死後、平城朝では年分度試が実施されず、嵯峨朝になったこの年はじめて実施された。
- ^ その後、光定、円澄らは叡山に戻ったが、泰範はそのまま空海のもとに留まった。
- ^ 『伝述一心戒文』による。『延暦寺故内供奉和上行状』では弘仁10年2月。
- ^ 宸翰#嵯峨天皇宸翰参照。
- ^ これにより天台宗年分度者は止観業3人、遮那業1人、金剛頂業1人、蘇悉地業1人の計6人となった。
- ^ 承和2年(835年)4月の藤原良房の権中納言昇任に言及していること、承和5年(838年)1月に右大臣となった藤原三守を大納言としていることから、承和2年(835年)4月以降、承和5年(838年)1月以前の成立とみられる。