倉田政嗣
倉田 政嗣(くらた まさつぐ) | |
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誕生 |
小沢 政嗣 1894年3月8日 日本、秋田県沼館町 |
死没 |
1932年10月16日(38歳没) 日本、秋田県横沢村 |
職業 | 小学校教員、作詞家、村会議員 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 秋田師範学校 |
代表作 | 秋田県民歌 |
倉田 政嗣(くらた まさつぐ、1894年(明治27年)3月8日 - 1932年(昭和7年)10月16日)は、日本の作詞家。秋田県出身。
略歴
[編集]1894年3月8日、秋田県平鹿郡沼館町(現、横手市雄物川町)に生まれ、幼時に生家の小沢家から仙北郡横沢村(現、大仙市太田町)で酒造業を営み、親戚でもあった倉田亦五郎へ養子に入った[1]。幼少期を横沢村で過ごして秋田師範学校に入学、師範学校では剣道に熱中した[1][注釈 1]。1913年(大正2年)に師範学校を卒業し、県下雄勝郡西馬音内(にしもない)小学校及び秋田市中通小学校で教諭をつとめた。中通小学校勤務時代には、秋田市商業学校の体操講師も務めている[1]。1920年(大正9年)に病気(結核)のため退職、神奈川県茅ヶ崎市で療養したのち郷里にもどった[1][注釈 2]。郷里では文芸に親しみ、1925年(大正14年)からは横沢村の村会議員も務めた[1][注釈 3]。文人としての倉田は「樵荘(しょうそう)」を号し、「白日」所属の俳人として創作活動をおこなった。また、県内各地で歌われていた歌を収集し、それを記録した[1][注釈 4]。村の青年を集めて素人演芸会をひらき、自身、落語や講談を披露することもあった[1]。
1930年(昭和5年)に「秋田県民歌」の歌詞に応募し、成田為三の作曲で県歌に採用された[注釈 5]。倉田はまた、郡内の横沢小学校、豊川小学校の校歌や応援歌なども作詞している。
倉田政嗣の系譜や写真、彼の作詞した校歌、応援歌等についての詳細は、秋田県民歌碑建立記念の際に発行された1991年(平成3年)3月の『秀麗無比なる鳥海山よ[注釈 6]』(秋田県仙北郡太田町公民館発行、ふるさとシリーズ第10集)に収録されている。
村会議員としての周囲の評価は「常に現状に満足せず、改革を考えて行動する人」というものであった[1]。1932年(昭和7年)10月16日、38歳で死去。
家族
[編集]妻のチヱは、政嗣の師範学校時代の恩師の妹で教員であった[1]。チヱは結婚後も教職にありながら4人の子育てを励み、結核に苦しむ夫を支えた[1]。政嗣・チヱの長男倉田政悳(せいとく)は英語・美術の教員で大曲小学校の校長も務めた。長女の渡部政子(川崎市在住)は歌人であり、政嗣を追憶する短歌を発表している。
なお、政嗣の実母小沢キノの兄が日本画家の倉田松涛(しょうとう)である。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 師範学校では「秋田県民歌」を作曲した成田為三と同級だった[1]。
- ^ 療養所生活ののち、倉田は一時大阪の気合術道場に入塾するなど、精神面で病気を克服しようと励んだ[1]。
- ^ 横沢村村会議員では1928年(昭和3年)から1929年にかけて小学校統合問題をめぐって村長と対立した[1]。
- ^ 倉田が収集した歌の数は約180におよび「郷土の歌」と題する研究ノートにまとめられた。現在、ノートは「秋田県立博物館収蔵資料」となっている[1]。
- ^ 秋田県による歌詞の選考は1等がなく、倉田作品は3等2席であった[1]。県は倉田作品を含む5編を東京音楽学校に送り、歌詞の訂正と作曲を依頼した[1]。東京音楽学校では、歌詞の訂正を『故郷』『朧月夜』『もみじ』『春がきた』『春の小川』などの唱歌を作詞した国文学者の高野辰之に、作曲を秋田県出身の成田に依頼した[1]。高野は倉田の歌詞を選んで歌詞の修正をおこなった[1]。修正した部分はわずかであったという[1]。なお、秋田県民歌は長野県の「信濃の国」、山形県の「最上川」とともに「3大県民歌」と称されることがある。
- ^ 記載したのは、『羽後を行く』の著者で大曲在住の鈴木良平である。