伊達村隆
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文3年(1663年) |
死没 | 享保14年8月27日(1729年9月9日) |
改名 | 藤徳(幼名)→基貞→村隆 |
別名 | 数馬、薩摩、左兵衛 |
主君 | 伊達綱村→吉村 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達宗規、母:伊達宗実娘 |
妻 | 正室:清姫(伊達綱宗娘) |
子 |
辰之丞、隆豊 養子:村望 |
伊達 村隆(だて むらたか)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。陸奥国仙台藩一門第六席・岩谷堂伊達家4代当主。
生涯
[編集]寛文3年(1663年)、岩谷堂伊達家3代当主・伊達宗規の子として生まれる。寛文13年(1673年)に元服し、仙台藩主・伊達綱基(のちの綱村)より偏諱を受け数馬基貞(もとさだ)と名乗る。
貞享2年(1685年)2月、父・宗規の死去により家督と知行4230石を相続し、岩谷堂邑主となる。翌貞享3年(1686年)、涌谷伊達宗元・村元父子と共同で、専制政治を行う藩主・綱村に諫言書を提出し、綱村の側近・古内重直を罷免させる。貞享4年(1687年)、綱村の妹・清姫と結婚する。貞享7年(1690年)、新田を加増され知行5015石となる。貞享9年(1692年)1月、再び綱村より偏諱を受け岩城氏代々の通字である「隆」を用いるよう命を受け、村隆と名乗る。
元禄6年(1693年)、再び綱村に対して、一門7家8名(石川宗恒・伊達宗氏・伊達宗元・伊達村隆・伊達宗親・白川宗広・三沢宗直・伊達村元)連名で諫言書を提出した。元禄16年(1703年)、綱村が隠居することとなり、9月、新藩主・吉村の家督相続御礼言上の際に、江戸城で江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に拝謁する。
正徳5年(1715年)、出羽国亀田藩主・岩城秀隆より、仙台藩に、岩城常隆の曾孫である村隆の子を養子に求められたが、村隆の実子・辰之丞は早世しており、代わりに藩主・吉村の実弟・宮床伊達村興の次男・久之助(岩城隆韶)の成長を待って、村隆の養子とした上で岩城家に養子入りする約束となる。しかし、秀隆が幕府より駿府加番を命じられ、仮養子が必要になったため、岩城家の希望で、幕府に久之助を秀隆の仮養子として届けた。
参考文献
[編集]- 『伊達世臣家譜』
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