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伊達村隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達基貞/伊達村隆
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文3年(1663年
死没 享保14年8月27日1729年9月9日
改名 藤徳(幼名)→基貞→村隆
別名 数馬、薩摩、左兵衛
主君 伊達綱村吉村
陸奥仙台藩
氏族 伊達氏
父母 父:伊達宗規、母:伊達宗実
正室:清姫伊達綱宗娘)
辰之丞、隆豊
養子:村望
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伊達 村隆(だて むらたか)は、江戸時代前期から中期にかけての武士陸奥国仙台藩一門第六席・岩谷堂伊達家4代当主。

生涯

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寛文3年(1663年)、岩谷堂伊達家3代当主・伊達宗規の子として生まれる。寛文13年(1673年)に元服し、仙台藩主・伊達綱基(のちの綱村)より偏諱を受け数馬基貞(もとさだ)と名乗る。

貞享2年(1685年)2月、父・宗規の死去により家督と知行4230石を相続し、岩谷堂邑主となる。翌貞享3年(1686年)、涌谷伊達宗元村元父子と共同で、専制政治を行う藩主・綱村に諫言書を提出し、綱村の側近・古内重直を罷免させる。貞享4年(1687年)、綱村の妹・清姫と結婚する。貞享7年(1690年)、新田を加増され知行5015石となる。貞享9年(1692年)1月、再び綱村より偏諱を受け岩城氏代々の通字である「隆」を用いるよう命を受け、村隆と名乗る。

元禄6年(1693年)、再び綱村に対して、一門7家8名(石川宗恒伊達宗氏・伊達宗元・伊達村隆・伊達宗親白川宗広三沢宗直・伊達村元)連名で諫言書を提出した。元禄16年(1703年)、綱村が隠居することとなり、9月、新藩主・吉村の家督相続御礼言上の際に、江戸城江戸幕府5代将軍徳川綱吉に拝謁する。

正徳5年(1715年)、出羽国亀田藩主・岩城秀隆より、仙台藩に、岩城常隆の曾孫である村隆の子を養子に求められたが、村隆の実子・辰之丞は早世しており、代わりに藩主・吉村の実弟・宮床伊達村興の次男・久之助(岩城隆韶)の成長を待って、村隆の養子とした上で岩城家に養子入りする約束となる。しかし、秀隆が幕府より駿府加番を命じられ、仮養子が必要になったため、岩城家の希望で、幕府に久之助を秀隆の仮養子として届けた。

享保14年(1729年)8月27日、死去。享年67。

参考文献

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  • 『伊達世臣家譜』
先代
伊達宗規
岩谷堂伊達家
第4代: -
次代
伊達村望