井上継松
井上 継松 | |
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生誕 |
1883年5月 - 1966年12月24日 日本 福井県 |
死没 | 1966年12月24日 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1904年 - 1937年 |
最終階級 | 海軍中将 |
井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966年12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]福井県出身。井上亀吉の息子として生まれる。1902年(明治35年)東京府立尋常中学校卒業。1904年(明治37年)11月、海軍兵学校(32期)を卒業し少尉候補生となり、日露戦争に「韓崎丸」乗組として出征、さらに「浅間」乗組となった。1905年(明治38年)8月、海軍少尉任官。1909年(明治42年)10月、「磐手」分隊長となり、「千代田」水雷長、「千歳」・舞鶴海兵団の各分隊長などを歴任。海軍大学校乙種学生となり、さらに海軍砲術学校高等科で学び、1911年(明治44年)12月、第15艇隊艇長に就任。1912年(明治45年)4月、練習艦隊参謀に着任し、横須賀鎮守府付、「宗谷」分隊長を歴任。1915年(大正4年)12月、海大(甲種13期)を卒業、海軍少佐に昇進し「杉」駆逐艦長となった。
1916年(大正5年)12月、第2水雷戦隊参謀となり、鎮海要港部参謀、軍令部出仕兼参謀、兼浦塩派遣軍司令部付を務め、1919年(大正8年)12月、海軍中佐に進級。1920年(大正9年)9月、舞鶴鎮守府参謀兼海岸望楼監督官に発令され、第2戦隊参謀を経て海大教官となり、1923年(大正12年)12月、海軍大佐に昇進。1925年(大正14年)12月、「出雲」艦長に就任し、海軍省教育局第1課長、「長門」艦長を歴任。1929年(昭和4年)11月、海軍少将に進級し海大教頭に就任した。
1931年(昭和6年)12月、軍令部出仕となり、第2水雷戦隊司令官を経て、海大校長に発令され、1934年(昭和9年)11月、海軍中将に進んだ。1935年(昭和10年)12月、高等技術会議議員を兼務し、1936年(昭和11年)3月、鎮海要港部司令官に着任した。軍令部出仕を経て、1937年(昭和12年)3月、待命そして予備役に編入となった。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 1905年(明治38年)10月4日 - 正八位[2]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 従七位[3]
- 1909年(明治42年)12月20日 - 正七位[4]
- 1915年(大正4年)1月30日 - 従六位[5]
- 1920年(大正9年)1月20日 - 正六位[6]
- 1924年(大正13年)1月21日 - 従五位[7]
- 1929年(昭和4年)3月15日 - 正五位[8]
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」19頁。
- ^ 『官報』第6682号「叙任及辞令」1905年10月5日。
- ^ 『官報』第7329号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第7949号「叙任及辞令」1909年12月21日。
- ^ 『官報』第748号「叙任及辞令」1915年2月1日。
- ^ 『官報』第2237号「叙任及辞令」1920年1月21日。
- ^ 『官報』第3423号「叙任及辞令」1924年1月23日。
- ^ 『官報』第708号「叙任及辞令」1929年5月13日。
- ^ 『官報』第1412号・付録「辞令」1917年4月19日。p2
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。