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久保恭久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
久保 恭久
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県
生年月日 (1960-10-21) 1960年10月21日(64歳)
身長
体重
172 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

久保 恭久(くぼ やすひさ、1960年10月21日 - )は、日本の社会人野球の元選手(投手)・監督である。

経歴

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和歌山県出身。橋本高では主に控え投手として起用される。1978年春季近畿大会県予選で決勝に進み、リリーフとして登板するが吉備高に大敗を喫する。同年夏も県予選で敗退し甲子園には届かなかった。なお橋本高の八年後輩に杉浦正則日本生命投手、監督)がいる[1]

中京大学に進学。愛知大学リーグでは1981年秋季リーグから3季連続優勝。4年生の1982年春季リーグでは、6勝3敗で最優秀選手とベストナインに、同年秋季リーグは8勝2敗で敢闘賞とベストナインに選ばれた。同年の第31回全日本大学野球選手権大会では準決勝に進むが、仁村徹大野久らのいた東洋大に敗退。リーグ戦通算54試合登板、21勝12敗、防御率1.81。

大学卒業後は日産自動車に入社、貴重な左腕として活躍する。1984年都市対抗では1回戦で電電東海に完投勝利、同期入社の大野久が決勝本塁打を放つ。その後も勝ち進み、準決勝では北海道拓殖銀行中村弘道に投げ勝ち2勝目。日本鋼管との決勝でも先発、打撃戦を10-9で制しチーム初優勝を飾った[2]。翌1985年都市対抗でも2勝を挙げ準々決勝に進むが、日本生命に敗退[2]。選手専任で14シーズン、コーチ兼任選手として3シーズンを過ごし、1999年シーズン終了後監督に就任した。

指導者としても手腕を発揮し、2003年の第30回社会人野球日本選手権大会で同大会チーム初優勝に導いた。都市対抗野球では2005年第76回大会)、2006年第77回大会)と2年連続で決勝に進出したが、いずれも準優勝に終わった。日産自動車は2009年のシーズンをもって休部。10シーズンにわたり指揮を執り、その間に日産自動車に在籍していた選手のうち9人がNPBのドラフト指名を受けた(後述)。

日産自動車休部後の2010年5月、近畿地区のパナソニックからの誘いを受けて転籍。2010年シーズンは副部長として主に選手のスカウティングを行っていた[3]

前任者の退任に伴い、2011年シーズンから監督に就任。3シーズンにわたってチームを率いた。2014年からは近畿大学硬式野球部で投手アドバイザーを務めた。

2018年シーズンよりJR東海の監督に就任した。2022年12月1日付で退任[4]

主なタイトル・表彰

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NPBドラフト指名を受けた選手

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久保が指揮を執っている間にチームに在籍していた選手から10人がNPBドラフト指名を受けた。☆印は他チーム移籍後、当該チームにおいて指名。

日産自動車監督時代
パナソニック監督時代

注釈

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  1. ^ 読売新聞和歌山版2008年8月31日
  2. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ パナソニック野球部HP-監督からのメッセージ
  4. ^ JR東海野球部 新監督に井上氏”. 交通新聞 電子版 (2022年12月9日). 2023年2月4日閲覧。

外部サイト

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