ヴリトラ
インド哲学 - インド発祥の宗教 |
ヒンドゥー教 |
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ヴリトラ(梵: वृत्र, Vṛtra)は、『リグ・ヴェーダ』などで伝えられる巨大な蛇(アヒ[注釈 1])の怪物。その名は「障害[5][6]」「遮蔽物[7]」「囲うもの[8]」を意味し、「天地を覆い隠すもの」とも呼ばれる[5]。『マハーバーラタ』においては、別名にアスラなどがある[9]。その姿は蛇のほか、雲や蜘蛛だとも描写される[7]。
水を閉じ込めて旱魃を起こすとされている[5]。インドラ神とは敵対関係にあり、インドラに殺されることとなる[5][7][注釈 2]。
『リグ・ヴェーダ』
[編集]『リグ・ヴェーダ』においては、ヴリトラは「足なく手なき」[11]「肩なき(怪物)」「蛇族の初生児」[12]とされている。ヴリトラはその巨大な体で水を塞き止めて山の洞窟に閉じ込めていた。インドラは、工匠トヴァシュトリが作った武器・金剛杵(ヴァジュラ)を用いてヴリトラを殺害した。ヴリトラがインドラに倒されると、水が解放されて、雌牛の咆吼のような音を立てながら海へと流れていったという[13](あるいは、「雲の牛群」とも表現される雨が解放される[7])。
この功績により、インドラはヴリトラハン(ヴリトラ殺し)の異名を得た[9][注釈 3]。その一方で、『リグ・ヴェーダ』の伝えるところでは、インドラは勝利したにもかかわらず強い怖れにとらわれたという[16][注釈 4]。
『リグ・ヴェーダ』(I・33・4)では、ヴリトラに対するインドラの勝利によって、神が天や太陽を作り出したとされている[18]。また、同じく『リグ・ヴェーダ』の他の箇所(X・113・4-6)では、インドラは誕生するとすぐに天空を定め、水を闇に幽閉していたヴリトラの体をヴァジュラをもって割いたとされている[18][注釈 5]。
叙事詩・プラーナ文献
[編集]『マハーバーラタ』
[編集]叙事詩『マハーバーラタ』ではヴリトラはトヴァシュトリによって作り出され、ここでもインドラに殺されている[6]。
ヴリトラとインドラは戦闘の後、ヴィシュヌ神の仲介により[20]和平条約を結んだ。この時ヴリトラは「木、岩、武器、乾いた物、湿った物、ヴァジュラのいずれによっても傷つかず、インドラは昼も夜も自分を殺すことができない」という条件を勝ち取った。その後ヴリトラが、昼でも夜でもない明け方または黄昏時に海岸にいたところ、インドラが木、岩、乾いた物、湿った物のいずれでもない海の泡を用いて攻撃してきた[21][22]。泡にはヴィシュヌが入り込んでおり[6]、この泡によってヴリトラは殺された[6][22]。この物語における「明け方に泡で殺害する」というモチーフは、『タイッティリーヤ・ブラーフマナ』や『シャタパタ・ブラーフマナ』においてインドラがアスラのナムチを同様の状況で殺害する物語が元になっていると考えられている[23]。
『マハーバーラタ』では他に、ヴリトラとインドラとの戦闘が長引く中、ヴリトラがその口を大きく開けたとき、インドラが口の中をヴァジュラで刺し貫いて殺害したともされている[9]。
別の箇所では、ヴリトラ・アスラが率いる悪魔たちの猛攻撃によってインドラ側が劣勢となる。神々はヴィシュヌの助言に従い、聖仙・ダディーチャから体内の骨を貰い受ける。インドラはこの骨とヴァジュラをもってヴリトラを殺すことができた[24][注釈 6]。
プラーナ文献
[編集]プラーナ文献では、ヴリトラの出生について異なる2つの経緯が語られている[5]。『パドマ・プラーナ』によれば、二人の子供をそれぞれヴィシュヌとインドラに殺されたカシュヤパが、インドラに対抗できる生き物を授かるために儀式を行い、その結果、炎の中から誕生したのがヴリトラであるという。その外観は、黄色い目と黒い肌をした巨人であった[26]。また、『デーヴィー・バーガヴァタ』によれば、トヴァシュトリには3つの頭を持つ息子トリシラス(別名ヴィシュヴァルーパ)[注釈 7]がいたがインドラに殺されたことから、インドラに復讐をするために祭祀を行って呪文を唱え、炎からヴリトラを生み出したという[注釈 8]。その外観は男の鬼神であった[28]。
『パドマ・プラーナ』の語るところでは、インドラはヴリトラを恐れ、自分の地位の半分を譲るという条件を提示して彼と講和した。しかしインドラは、ヴリトラに美女ラムバーを差し向けて誘惑し、バラモンでもあったヴリトラがスラー酒を飲むように仕向けた。飲酒後に意識を失ったヴリトラをインドラは殺した。彼はヴリトラハンの別名を得ると同時に、バラモンを殺した罪を負うこととなった[28]。
神話の解釈
[編集]ヴリトラとインドラの戦いは、古い時代の新年祭において世界の再生を象徴する儀礼を構成していたとも考えられている[19]。また、自然現象を神格化したものとも考えられている。つまり乾燥した夏の象徴がヴリトラであり、それを倒すインドラは雷と雨期の象徴である。
ヴリトラは山に水を閉じ込めて旱魃を引き起こす。山とは雲のことであり、ヴリトラを破って水を解放するインドラは雷雨を象徴していると解釈されている。ほか、ヴリトラとは冬の巨人であって、太陽神であるインドラが冬の力に打ち勝つとも解釈されている[5]。水を凍らせて捕らえている冬の寒気を太陽が打ち破る[34]、すなわちヒマラヤ山脈の積雪が太陽光で溶かされることで、冬期間は涸れていた河川に水が溢れるのだという[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ アヒ (Ahi) は「蛇」を意味し、ヴェーダではヴリトラを指している[1][2][3]が、時には別の怪物を指すこともある[3]。冬には水が山に雪として留まることから、地上の水をすべて山に閉じ込めてしまうアヒは、旱魃のほかに冬の象徴とも解釈できる[3]。なお、サンスクリット語の「アヒ」とギリシア語の「オピス」(蛇)は同根語である[4]。
- ^ ヴリトラのような竜や蛇、あるいは海の怪物と神が戦う神話は世界各地にみられる。たとえば、イラン神話でのアジ・ダハーカとスラエータオナ、ヒッタイト神話でのイルルヤンカシュと嵐の神、バビロニア神話でのティアマトとマルドゥク、ウガリット神話でのヤムとバール、エジプト神話でのアポピ蛇とラー、ギリシア神話でのテュポンとゼウス、日本神話でのヤマタノオロチとスサノオの戦いがある[10]。
- ^ ヴリトラハン (Vṛtrahan) は、イラン神話に登場する神ウルスラグナ (Verethraghana) に対応している。従って、インド・イラン共同時代からインドラ神が崇拝されていたと考えられている[14][15]。
- ^ 『マハーバーラタ』(V・9・2-)においても、インドラはヴリトラの殺害後に恐怖心に見舞われ、遠方へと逃れて蓮の中に身を隠している[17]。
- ^ 他の創造神話においては、トヴァシュトリが自分が建てた家を覆う屋根や壁としてヴリトラを作り出したとされている。この家の中に天も地も水も存在していたが、インドラがヴリトラを殺害したことで、天も水も解放され、世界も動植物も生み出されることとなった。ミルチャ・エリアーデはこの神話について、プルシャの巨人解体神話との類似を指摘している[19]。
- ^ 『リグ・ヴェーダ』によれば、ヴァジュラ自体がダディーチャの骨から作り出されている[25]。
- ^ インドラによるトリシラス(別名ヴィシュヴァルーパ)殺害の経緯は次の通りである。トヴァシュトリはインドラの敵とするべく、3つの頭を持つ息子トリシラスを作り出した。このトリシラスはバラモンであった[27][28]。『デーヴィー・バーガヴァタ』では、トリシラスの母がアスラだったため彼がアスラに好意的であったことから、インドラは彼の殺害を決意した[28]。また『マハーバーラタ』においては、ヴィシュヴァルーパが苦行を修めた末に三界を飲み込むことを恐れたインドラが、アプサラス達を送って彼を誘惑させたが彼の苦行を止めることができなかったことから、殺害を決意した[27]。『デーヴィー・バーガヴァタ』や『ジャイミニーヤ・ブラーフマナ』ではインドラは自らトリシラスを殺害した[28][29]。『リグ・ヴェーダ』ではインドラは神トリタ (Trita) に命じてヴィシュヴァルーパを殺害させている(トリタは、『アヴェスター』において3つの頭を持つアジ・ダハーカを殺害するスリタ(Thrita。すなわちスラエータオナ (Thraetaona))に対応している)[30]。『マハーバーラタ』では、インドラはヴァジュラでヴィシュヴァルーパを倒した後で、樵に命じてヴィシュヴァルーパの頭を斧で切らせるが、インドラが自ら頭を切らなかったことはトリタが殺害する構図の名残とも考えられている[31]。
- ^ 『ジャイミニーヤ・ブラーフマナ』では、インドラに息子を殺されたことから、トヴァシュトリはソーマ祭に際してインドラを招待しなかった[29]。(『タイッティリーヤ・サンヒター』や『カウシータキ・ブラーフマナ』ではトヴァシュトリがインドラの招待を失念した[32]。)これらのブラーフマナによれば、インドラはトヴァシュトリの家に来てソーマをあらかた飲んでしまった。トヴァシュトリは残ったソーマを炎に投げ入れ、インドラの敵になれと呪文を唱えた。するとソーマがヴリトラになったという[29][32]。エリアーデによれば、トヴァシュトリはインドラの父であるとされることもあり、トヴァシュトリから作り出されたヴリトラはインドラの兄弟であると解釈できるという。『シャタパタ・ブラーフマナ』(1・6・3)においては、ヴリトラがインドラを前にして、「かつてのお前であった私を攻撃するな」という趣旨の言葉を語っている[33]。
出典
[編集]- ^ 『インド神話伝説辞典』 29頁。(アヒ)
- ^ 『インド神話伝説辞典』 46-47頁。(インドラ)
- ^ a b c 『世界の怪物・神獣事典』 23頁。(アヒ)
- ^ 荒川紘「第2章 大河文明の生んだ怪獣」『龍の文明史』安田喜憲編、八坂書房、2006年2月、63-93頁。ISBN 978-4-89694-856-1。(参照:69頁)
- ^ a b c d e f g 『インド神話伝説辞典』 96頁。(ヴリトラ)
- ^ a b c d 『神の文化史事典』 122頁。(ヴリトラ)
- ^ a b c d 『世界の妖精・妖怪事典』 64頁。
- ^ 『世界の怪物・神獣事典』 71頁。(ヴリトラ)
- ^ a b c 『インド神話伝説辞典』 98頁。(ヴリトラ)
- ^ 『世界宗教史2』 45頁。
- ^ 『リグ・ヴェーダの讃歌』 22頁。(インドラの歌 その1 (1・32))
- ^ 『リグ・ヴェーダの讃歌』 21頁。(インドラの歌 その1 (1・32))
- ^ 『世界宗教史2』 44-45頁。
- ^ 『インド神話』(上村 1981) 17頁。
- ^ 『インド神話 - マハーバーラタの神々』 19頁。
- ^ 『リグ・ヴェーダの讃歌』 22頁。(インドラの歌 その1 (1・32・14)) "アヒの復讐者として、汝は何者を見たりしや、インドラよ、勝ちし汝の心に恐怖起り、...。"
- ^ 『世界宗教史2』 299頁。(原注 第8章33)
- ^ a b 『世界宗教史2』 46頁。
- ^ a b 『世界宗教史2』 47頁。
- ^ 『世界の怪物・神獣事典』 72頁。(ヴリトラ)
- ^ 『神の文化史事典』 122-123頁。(ヴリトラ)
- ^ a b 『神の文化史事典』 98頁。(インドラ)
- ^ 『インド神話』(上村 1981) 103-104頁。
- ^ 『インド神話伝説辞典』 48頁。(インドラ)
- ^ 『インド神話伝説辞典』 202-203頁。(ダディヤンチュ)
- ^ 『インド神話伝説辞典』 96-97頁。(ヴリトラ)
- ^ a b 『インド神話』(上村 1981) 89-91頁。
- ^ a b c d e 『インド神話伝説辞典』 97頁。(ヴリトラ)
- ^ a b c 『インド神話』(上村 1981) 102頁。
- ^ 『インド神話』(上村 1981) 101頁。
- ^ 『インド神話』(上村 1981) 103頁。
- ^ a b 『世界宗教史2』 文献解題12頁(68 インドラ、勇士にして造物主)。
- ^ 『世界宗教史2』 文献解題12-13頁(68 インドラ、勇士にして造物主)。
- ^ 『世界宗教史2』 45-46頁。
参考文献
[編集]- エリアーデ, ミルチア『世界宗教史2 - 石器時代からエレウシスの密儀まで(下)』松村一男訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000年4月。ISBN 978-4-480-08562-7。
- 松村一男他 編『神の文化史事典』白水社、2013年2月。ISBN 978-4-560-08265-2。
- 沖田瑞穂 「ヴリトラ」、122-123頁。
- 松村一男 「インドラ」、96-99頁。
- 上村勝彦『インド神話』東京書籍、1981年3月。ISBN 978-4-487-75015-3。
- のち文庫化。上村勝彦『インド神話 - マハーバーラタの神々』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2003年1月。ISBN 978-4-480-08730-0。
- 菅沼晃 編『インド神話伝説辞典』東京堂出版、1985年3月。ISBN 978-4-490-10191-1。 ※特に注記がなければページ番号は本文以降
- 辻直四郎 訳「リグ・ヴェーダの讃歌」『ヴェーダ アヴェスター』訳者代表 辻直四郎、筑摩書房〈世界古典文学全集 第3巻〉、1967年1月、5-104頁。全国書誌番号:55004966、NCID BN01895536。
- ローズ, キャロル「ヴリトラ」『世界の妖精・妖怪事典』松村一男監訳、原書房〈シリーズ・ファンタジー百科〉、2003年12月、64頁。ISBN 978-4-562-03712-4。
- ローズ, キャロル『世界の怪物・神獣事典』松村一男監訳、原書房、2004年12月7日。ISBN 978-4-562-03850-3。
関連資料
[編集]- 小山典勇 「殺婆羅門の一考察」『印度學佛教學研究』 日本印度学仏教学会 1979年 27巻 2号 p.700-703, NAID 130003829656, doi:10.4259/ibk.27.700。
- 茂木秀淳「翻訳 叙事詩の宗教哲学 : Mokṣadharma-parvan和訳研究(XXVII)」『信州大学教育学部研究論集』第1号、信州大学教育学部、2009年6月、151-164頁、ISSN 18839339、NAID 120007111222。
- 茂木秀淳「翻訳 叙事詩の宗教哲学 : Mokṣadharma-parvan 和訳研究(XXVIII)」『信州大学教育学部研究論集』第3号、信州大学教育学部、2010年7月、165-178頁、ISSN 18839339、NAID 120007111237。
- 茂木による以上2件は『マハーバーラタ』第12章「寂静の章」(Santi-parvan) に収められた「解脱の法」(Mok?adharma モークシャダルマ) の日本語訳のうちヴリトラ殺しへの言及が含まれるもの