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ドゥカート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランツ・ヨーゼフ1世の肖像が刻印された、オーストリアのドゥカート金貨。

ドゥカートイタリア語: ducatoハンガリー語: dukátオランダ語: dukaatドイツ語: Dukat, Dukaten [duˈkaːt(ən)]英語: ducat [ˈdʌkət])は、中世後期から20世紀の後半頃までヨーロッパで使用された硬貨。同時期を通じて、多様な金属で作られた様々なドゥカートが存在した。ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨は、中世のヒュペルピュロンフローリン、または現代の英ポンド米ドルのように国際通貨として広く受け入れられていた[1]

初期ドゥカート

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ルッジェーロ2世のドゥカート銀貨。片面には福音書を持ち、後光の差したキリスト像が描かれており、もう片面には、大きな十字架を持って向かい合うルッジェーロ2世とその息子のルッジェーロ公が描かれている。

ドゥカート」という単語は中世ラテン語の"ducatus"(「公爵の」や「公爵領の」、または「公爵の硬貨」の意。)が語源である[2]

こうした硬貨が初めて発行されたのは、シチリア王ルッジェーロ2世統治下のプッリャ公国(公爵領)であったと考えられている。1140年に彼は、キリスト[3]と"Sit tibi, Christe, datus, quem tu regis iste ducatus"(「キリストよ、汝が統べるこの公爵領を汝に捧げん」の意。)という文句が刻印された硬貨を鋳造した[4]

ヴェネツィア共和国のドージェエンリコ・ダンドロはルッジェーロ2世の硬貨からデザインの影響を受けたドゥカート銀貨を導入した。しかし、ヴェネツィアのドゥカート金貨が次第に重要度を増した結果、「ドゥカート」という言葉はこれらの金貨のみを指す言葉となっていき、銀貨はグロッソ英語版と呼ばれるようになった[5]

ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨

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1200年代のヴェネツィアの貿易は、東方から買い付けた物品をアルプス以北で販売するという形態であった[6]。彼らはこの買い付けの際に東ローマ帝国の金貨を使用していたが、東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴス1282年シチリアの晩祷と呼ばれる暴動を支援した結果、ヒュペルピュロンの価値は低下した[7]。これは、繰り返されるヒュペルピュロンの価値低下の一例に過ぎず[8]1284年ヴェネツィア共和国大評議会は純金製の独自の硬貨を発行する事でこれに対応した[6]

フィレンツェ共和国ジェノヴァ共和国はどちらも1252年に金貨を発行(フィレンツェのフィオリーノ金貨と、ジェノヴァのジェノヴィーノ金貨英語版)しており、特にフィオリーノ金貨はヨーロッパの金貨のスタンダードになっていった。ヴェネツィアは彼らのドゥカートをフィオリーノのサイズや重量に準じたものにしたが、両国の度量衡制度が異なっていた為、重量には僅かに差が有った。ヴェネツィアのドゥカートは99.47%純度の金を3.545グラム含んでいたが、これは当時の冶金技術で精製できる最高峰の純度であった[9]

ヴェネツィアのドージェ、ミケーレ・ステーノ英語版のドゥカート金貨。表面には、ひざまずくドージェにゴンファローネ英語版を授ける聖マルコが描かれている。裏面には、星々を背景に立つキリストが楕円形の枠の中に描かれている。

ドゥカート金貨はドゥカート銀貨に、突き詰めれば東ローマの銀貨に由来する。表面には、ヴェネツィア共和国の守護聖人である聖マルコの御前でひざまずくドージェの姿が示されている。聖マルコは福音書を手にしており、ドージェにゴンファローネ英語版を授けている。左側の銘"S M VENET"は"Sanctus Marcus VENETI"(「ヴェネツィアの聖マルコ」の意。)の頭字語で、右側の銘"MICAEL STEN"はドージェの名前(ミケーレ・ステーノ英語版)を表している。名前の隣には、彼の称号のDVXが示されている。裏面には、星々を背景に立つキリストの姿が楕円の枠内に描かれている。裏面の銘はルッジェーロ2世のドゥカートに刻印されているものと同様である[10]

後継のドージェ達もドゥカートの鋳造を続け、手を加えたのは表面の彼らの名前だけであった。1400年代、ドゥカートの価値は銀貨換算で124ヴェネツィアソルドと安定していた。この事からドゥカートという単語は次第に、金貨そのものだけでなく、この量の銀貨を表す言葉としても使われるようになった。しかし、1567年イングランド王国スペイン帝国の衝突により金の価格は騰貴し、この均衡は崩された[11]。この時点で、ドゥカートは"ducato de zecca"(「造幣所のドゥカート」の意。)と呼ばれており、これが短縮して"zecchino"、更に転訛して"Sequin"と呼ばれるようになった[9]レオナルド・ロレダンは新たに2分の1ドゥカートを鋳造し、彼の次代のドージェであるアントニオ・グリマーニイタリア語版は更に4分の1ドゥカートや105ドゥカートなどの多様な硬貨の鋳造を行った。こうした硬貨は全て1284年の元々のドゥカートのデザインや重量を受け継いで作られていた。西洋の鋳造貨幣において鋳造時期の刻印が一般的になった後も、ヴェネツィアは1797年ナポレオン・ボナパルトへの降伏まで日付の刻印が無いドゥカートの鋳造を続けた[12]

ヴェネツィア共和国のドゥカートの模造品

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コムーネ・ディ・ローマ英語版元老院が金貨を導入する際(cf.Monetazione pontificia)、フィオリーノやドゥカートは模倣する良い見本になると考えられたが、元老院の経済を握っていたフィレンツェ人たちは彼らの硬貨が模倣される事の無いように働きかけた[13]。その結果ローマ人の硬貨は、聖ペテロの前にひざまずく元老院議員が表面に、楕円の枠内で星々を背景に立つキリストが裏面に描かれた、ヴェネツィアのドゥカートを露骨に模倣したものとなった。教皇たちは後にこうしたデザインを改めたが、1500年代まで重量やサイズが同じドゥカートを鋳造し続けた[14]

ヴェネツィア・ドゥカートの模倣品の殆どは、ヴェネツィアが買い付けで多くの金銭を使っていたレバントで作られた。聖ヨハネ騎士団の騎士たちは、表面に総長デュードネ・ド・ゴゾン聖ヨハネの前でひざまずく姿が描かれ、裏面にキリストの墓に座す天使が描かれたドゥカートを鋳造していた。しかし、彼の後の総長たちは、より正確にヴェネツィアのドゥカートを模倣する方が好都合だと考え、ロドス島マルタ島でそうした模倣品の鋳造を行った[15]。ジェノヴァの商人たちは更に踏み込んだ模倣をしていた。彼らはヒオス島でドゥカートの模造品を鋳造していたが、それは技術的な精巧さのみでしか本物との区別が付かない明らかな贋物であった。こうした質の低い模造品は、貨幣の純度によって高い評価を得ていたヴェネツィアにとって問題であった。ミティリーニや、ポカイア、ペラなどの都市でジェノヴァの商人たちが鋳造したドゥカートが殆ど現存していない事実からは、ヴェネツィア人がこうした模造品を発見し次第溶かして処分していた事が窺われる[16]

ハンガリー王国のドゥカート

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フェルディナント3世が描かれた100ハンガリードゥカート(1629年

ヴェネツィア共和国は極めて活発な貿易国であったが、西ヨーロッパにおいては彼らは主に貿易品を販売しており(つまり、貿易品を購入して硬貨を使う機会が少ない)、一般的にこの地域ではドゥカートよりもフローリンが多く用いられていた[17]。だが、ハンガリー国王カーロイ1世が金貨の鋳造を始めた際、模倣したものはヴェネツィアのドゥカートであった。彼の息子のラヨシュ1世は、ドゥカート風の聖ヨハネの立ち姿を、フローリン風の聖王ラースローの立ち姿に変更した他、後にフィレンツェのユリを自身の紋章に変更したが、金の純度は維持していた[18]。1400年代、純金で作られたフローリンをドゥカートと呼び、価値の低い模造品のフローリンをグルデンやゴールドグルデンと呼ぶ事で両者を区別していた[19]。1524年、神聖ローマ皇帝カール5世がヴェネツィア共和国のドゥカートを、グルデンよりも39%高い価値で帝国内の標準通貨とした際、彼はこの区別を認識していた[20]。彼の弟で後に後継者になるフェルディナント1世は、1526年にハンガリーの王位を継承した際、このシステムをハンガリーにも持ち込んだ。これ以降、ハンガリーの金貨の中でも純度の高いものはドゥカートと呼ばれるようになる[21]。こうした金貨は純度が高いためヨーロッパ中で受け入れられた。スコットランド大蔵卿Lord High Treasurer of Scotland)は、国王さえ賭博にこうしたドゥカートを用いていたとの記録を残している[22]

ハンガリーはドゥカートの鋳造を、98.6%純度の金を3.5グラム使って続けた。ヴェネツィア・ドゥカートが一定のデザインを守り続けたのとは対照的に、ハンガリー・ドゥカートは裏面の紋章が情勢に応じてしばしば変更された。1470年マーチャーシュ1世は裏面の紋章を聖母マリアに置き換えた[23]。ハンガリー王国は1915年まで、即ちオーストリアの統治下でさえドゥカートの鋳造を続けた。これらは貿易用の硬貨として使用され、後年再鋳造されたものもある[24]

オランダ共和国のドゥカート

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オランダの反乱英語版の結果、オランダ共和国は国内7州の通貨管理が可能となった。しかし、1583年アンジュー公フランソワの統治が破綻し、貨幣に名前を付けるべき憲法上の統治者が不在となった。彼らは、広く受け入れられている外国の硬貨を模倣する、というこの地域の伝統に立ち戻る事となる。このケースでは、もはや用いられなくなった硬貨を模倣する事で政治的な面倒を回避した。カトリック両王が発行した金貨は、ドゥカートを模倣したものであり、オリジナルと同様にドゥカートと呼ばれた[25]。彼らはハンガリー・ドゥカートを模倣した硬貨も発行したが、これ以降のオランダ共和国の貨幣はこの硬貨の強い影響を受けたものになる。オランダが世界規模の覇権的な貿易国家になるに応じて、これらのドゥカートの影響力も国際的になっていった[26]

オランダ、1724年の金貨、ユトレヒト

オランダで鋳造されるハンガリー風のドゥカートは始めの内、模倣の元となったハンガリー・ドゥカートと同様に、表面に王冠戦斧を持った聖王ラースローの立ち姿が描かれていた(但し、銘は別人の名前で刻まれていた)。裏面のデザインはマーチャーシュ1世が変更する前のハンガリー・ドゥカートに倣い、鋳造した州の紋章が描かれていた[27]。表面のデザインは次第に、国内の7州を表す7本の矢と剣を持つ騎士の立ち姿へと変化していった。"CONCORDIA RES PAR CRES"という銘は、サッルスティウスの言葉"Concordia parvae res crescunt, discordia maximae dilabuntur"(「小さきものも調和によって成長し、偉大なるものも不和によって滅ぶ」の意。)の一部。また、硬貨を発行した州の名前も刻まれている。裏面は、"MO OR DI PROVIN FOEDER BELG AD LEG IMP"(「地域の法に則したベルギーの連邦州の金貨」の意。)[28]ナポレオン時代には、バタヴィア共和国ルイ・ボナパルトがこうしたデザインのドゥカートの鋳造を続けた[29]

ドゥカートの普及

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4オーストリア・ドゥカート(公式再鋳造品)

1400年代、西ヨーロッパの国際的な貿易商たちは業務で用いる通貨として、フローリンよりもドゥカートを好むようになっていった。統治者が貨幣を改める際、殆どの場合ドゥカートがモデルとして利用された。マムルーク朝アシュラフィ英語版オスマン帝国のアルトゥン(altun)、カスティーリャ王国のドゥカート等がその例として挙げられる[30]

マクシミリアン1世の貨幣改革により、1511年オーストリアでのドゥカート金貨の鋳造が始まった[31]。この金貨は1857年法定通貨としての地位を失うが、オーストリアは第一次世界大戦の影響で1915年に終了するまでドゥカートを貿易鋳貨英語版として鋳造し続けた[32]。また、それ以降も「1915」の銘の入ったドゥカートの再鋳造を現在に至るまで続けている[33]。だが、スペインのアメリカ大陸植民地で豊富な銀資源が発見されると、スペインドル英語版が国際貿易で用いられる支配的な通貨としてドゥカートに取って代わった[34]

1913年頃、ドゥカート金貨の価値は「9シリング4ペンスと同等、または2ドルより若干多い。ドゥカート銀貨はこの半分の価値」であるとされた[35]。現代においても、いくつかの国の造幣局は投資用やコレクション用のドゥカートを鋳造・販売している。

ドゥカートの一覧

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1934年チェコスロヴァキアで発行された10ドゥカート金貨は、(平均的には)1.1063オンスの金を含んでおり、全体で34.9グラムだった。この硬貨は68枚しか鋳造されておらず、極めて珍しい[36]
1645年エアフルトで鋳造された10ドゥカート硬貨には、スウェーデンクリスティーナ女王が描かれている[note 1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 三十年戦争中の1631年から1648年エアフルトはスウェーデン軍に占領されていた[37]。クリスティーナ女王の姿が刻まれた金貨は、1649年の5ドゥカート1枚と[38]、1645年の10ドゥカート6枚[39]の計7枚の現存が確認されている。

出典

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  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Ducat". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 8 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 628-629.
  1. ^ The two concepts of money: implications for the analysis of optimal currency areas, Charles A. E. Goodhart, European Journal of Political Economy, Vol 14(1986) page 407
  2. ^ Online Etymology Dictionary http://www.etymonline.com/index.php?search=ducat
  3. ^ Byzantine Coins, Philip Grierson, page 12
  4. ^ American Journal of Numismatics, Volumes 50,page 72
  5. ^ Coins In History, John Porteous, pages 84 and 86.
  6. ^ a b Coins In History, John Porteous, page 86.
  7. ^ Coins of Medieval Europe, Philip Grierson, page 110
  8. ^ Byzantine Coins, P. D. Whiting, page 232
  9. ^ a b The Oxford Encyclopedia of Economic History, page 112
  10. ^ Historic Gold Coins of the World, Burton Hobson, page 39.
  11. ^ Coins in History, John Porteous, page 174
  12. ^ Gold Coins of the World, Robert Friedberg, listings for Italy-Venice
  13. ^ Coins In History, John Porteous, 106.
  14. ^ Gold Coins of the World, Robert Friedberg, listings for Vatican City-The Roman Senate
  15. ^ Gold Coins of the World, Robert Friedberg, listings for Rhodes and Malta
  16. ^ Coins in History, John Porteous, pages 108 and 109
  17. ^ Coins in History, John Porteous, pages 106.
  18. ^ Coins in History, John Porteous, illustration 126.
  19. ^ Coins in History, John Porteous, pages 132.
  20. ^ The Coin Atlas, Cribb, Cook and Carradice, page 99
  21. ^ Gold Coins of the World, Friedberg, section on Hungary-Habsburg Rulers
  22. ^ Coins of Medieval Europe, Philip Grierson, page 213.
  23. ^ Coins of Medieval Europe, Philip Grierson, page 212.
  24. ^ Standard Catalog of World Coins, Chester Krause and Clifford Mishler, Trade Coinage section of the listings for Hungary
  25. ^ Coins in History, John Porteous, pages 184.
  26. ^ A Companion to the Global Renaissance, G. Singh ed., page 265
  27. ^ Coins in History, John Porteous, page 187 and illustration 213.
  28. ^ Historic Gold Coins of the World, Burton Hobson, page 88 and illustration 104.
  29. ^ Historic Gold Coins of the World, Burton Hobson, page 187 and illustration 243.
  30. ^ Global Financial System 1750-2000, Larry Allen, page 128.
  31. ^ The Coin Atlas, Cribb, Cook and Carradice, page 88.
  32. ^ Modern re-strikes 1 ducat created by Austrian Mint - WebCite
  33. ^ Gold Coins of the World, Robert Friedberg, listings for Austria
  34. ^ A companion to the Global Renissance, Juotsna G. Singh ed., page 265.
  35. ^ Webster , Noah (1913). Webster's Revised Unabridged Dictionary. G. & C. Merriam Co. http://dictionary.x10host.com/?w=ducat 
  36. ^ Cuhaj 2009, p. 309.
  37. ^ Cuhaj, George S., ed (2009a). Standard Catalog of World Gold Coins 1601–Present (6 ed.). Krause. pp. 490–491. ISBN 978-1-4402-0424-1. https://books.google.com/books?id=tXSrLbIEDBMC 
  38. ^ Friedberg, Arthur; Friedberg, Ira (2009). Gold Coins of the World: From Ancient Times to the Present (8 ed.). The Coin & Currency Institute. pp. 688–89. ISBN 978-0-87184-308-1. https://books.google.com/books?id=TlnoMdZu40UC 
  39. ^ Kunker Rarities Auction, http://news.coinupdate.com/kunker-auctions-preview-1573 1 March 2015閲覧。 

参考文献

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外部リンク

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