ウラルトゥ
- ウラルトゥ
- Biainili[1]
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前9世紀から前6世紀のウラルトゥの版図-
公用語 ウラルトゥ語、古アルメニア語 首都 アルザシュクン
トゥシュパ (前832年以降)
ウラルトゥ (Urartu) は紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアナトリアに存在した王国。その版図は、現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。
名称
[編集]「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競ったアッシリア人たちが呼んだ名である。王国は、ウラルトゥ語でビアインリ (Biainli)と呼ばれ、これは「ヴァン (Van)」の語源となった。また、「ウラルトゥ」の名はアララト山 (Ararat) とも関係づけられる。
また、「ハルディ (en)」と呼ばれる神を信仰していたことから、「ハルディア (Haldia)」とも称された[2]。
歴史
[編集]前史
[編集]紀元前1250年ごろのアッシリアの文書は、「ウルアトリ (Uruatri)」または「ナイリ (Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどは、アッシリアの文書から得られたものである。
黎明期
[編集]その民族は、紀元前860年から紀元前830年のあいだに、王アラマとルティプリの下で黎明期を迎え、王国を形成した。首都は、初期の頃にはアルザシュクンに置かれていた。
拡大期
[編集]その息子サルドゥリ1世の下で、紀元前832年頃に現在のヴァンのあたりに遷都しトゥシュパ (Tushpa) と呼ばれた。ウラルトゥ王国はメヌア(メヌアシュ)からサルドゥリ(サルドゥリシュ)2世の時代が最盛期[2]で、最盛期にはアルメニア高原の全域を含み、東は現在のタブリーズを越え、南はティグリス川、西はユーフラテス川の上流域にまで至った。
衰退期・滅亡
[編集]紀元前714年には、ウラルトゥの王ルサ1世 (Rusa) がサルゴン2世率いるアッシリア軍に大敗して王は自殺に追い込まれた。この戦い以降、ウラルトゥ王国はアッシリアと幾度か戦った(ウラルトゥ・アッシリア戦争、紀元前714年 - 紀元前585年)。ウラルトゥ王国は、キンメリア人やアッシリアの攻撃に苦しんだ。紀元前585年にスキタイ人の攻撃によってウラルトゥ王国は滅んだ。アケメネス朝の成立後、この地にアルメニア人が定住した(アルメニア、紀元前553年 - 紀元前331年)。
発掘
[編集]紀元後5世紀ごろ以降、ウラルトゥの存在は忘れ去られていたが、18世紀、19世紀の発掘によって再発見された。
言語系統
[編集]ウラルトゥ語は、フルリ・ウラルトゥ語族に分類される膠着語である。フルリ人が築いたミタンニ王国(紀元前1500年頃 - 紀元前1270年頃)で使用されたフルリ語と近縁関係にある。
歴代国王
[編集]黎明期
[編集]拡大期
[編集]- サルドゥリ1世(紀元前834‐828年)
- イシュプイニ(紀元前828‐810年)
- メヌア(紀元前820‐785年)
- アルギシュティ1世(紀元前785‐753年)
- サルドゥリ2世(紀元前753‐735年)
- ルサ1世(紀元前735‐714年)
衰退期
[編集]- アルギシュティ2世(紀元前714‐680年)
- ルサ2世(紀元前680‐639年)
- サルドゥリ3世(紀元前639‐635年)
- エリメナ(紀元前635‐629年)
- ルサ3世(紀元前629‐615?年)
- サルドゥリ4世(紀元前615‐598年)?
- ルサ4世(紀元前598‐590年)
脚注
[編集]- ^ Paul Zimansky, "Urartian material culture as state assemblage", Bulletin of the American Association of Oriental Research 299 (1995), 105
- ^ a b 杉「ウラルトゥ王国」『アジア歴史事典 1』
参考文献
[編集]- Boris B. Piotrovsky, The Ancient Civilization of Urartu (translated from Russian by James Hogarth), New York:Cowles Book Company, 1969.
- ボリス・ピオトロフスキー著, 加藤九祚訳, 「埋もれた古代王国の謎―幻の国ウラルトゥを探る」岩波書店, (1981年)
- 杉勇「ウラルトゥ王国」(『アジア歴史事典 1』(平凡社、1984年))
関連項目
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