新卒から12年エンジニアとして勤めた某外資証券会社を辞めてスタートアップにジョインした話

本記事は退職者その2 Advent Calendar 2017の25日目の記事です。

adventar.org

僭越ながら最終日を担当させていただきます、@itohiro73 と申します、よろしくお願いします。

半年前ちょっと前にすでに入社エントリーは書いているので順序が大幅に逆になってしまっていますが、今回は退職者アドベントカレンダーということで、せっかくの機会なので新卒から12年も勤めた前の会社のことを振り返ってみようと思います。

前の会社について

世界的にもかなり大きい外資系証券会社でエンジニアとして新卒から入社して12年と1ヶ月半くらい勤めました。会社名に関しては、自分がかなり大々的にOSS活動等もしていたこともあり公開情報からちょっと調べればわかるところではありますし、本記事を読んで明らかにわかる部分もあります。とくに隠しているわけではないのですが、一応大人の事情としてあえて言及はしないといったところです。

なぜ外資系証券会社に「エンジニア」で新卒入社?

よく、新卒で外資系証券会社の「エンジニア」という選択肢をどうしてとったのかとよく聞かれます。

(余談ですが12年くらい前は「エンジニア」ってあんまり呼ばれていなかった気がしていて、同様の職種は日本だとプログラマー、海外(社内)だとdeveloperと呼ばれるのが普通でした。いつのころからかエンジニア/engineerが定着しましたね。ということで当時的にはdeveloperとしての新卒入社です。)

外資系証券会社というと、投資銀行部門のバンカーであったり、トレーダーやセールス、アナリスト等のいわゆる「フロントオフィス」の職種が花形であるとされています。

そんななかで、なんでエンジニア?っていうのが外資系証券会社をよく知る人たちにとっての疑問なのでしょう。逆にエンジニア系の人たちにとっては、(今でこそFinTechが盛り上がりを見せているものの)そもそも金融であったり証券に興味がない人が多いため、SIやWeb系企業ではなくなぜ外資証券?っていうのが疑問なんだと思います。

実際当時の私にとっては、外資証券に興味があったわけでは特になく、いわゆる就職活動によくある自己分析というやつで下のような3つの軸を求めてました。

  • 自分で手をうごかしてものづくりをしたい
  • 自分がつくったものを実際につかってくれるユーザーの側で働きたい(フィードバックを直に受けたい)
  • インターナショナルで多様な環境で働いてみたい

この軸に沿っていてくれさえすればいいと思っていたものの、当時この3つすべてを満たすような会社は自分が調べた範囲内ではほとんど存在していませんでした。

そんな中バイト先で一緒に働いていた大学の同期が、〇〇っていう会社の選考を受けてきた〜っていう話を聞いたのがこの外資証券の会社でした。へぇーそんな会社があるんだと思ってリクナビから会社ホームページを調べたりいろんな口コミページ的なのをを眺めて見たら、「社内で使われているほとんどのトレーディングシステムや業務システムが内製化されている」「チームワークを重要視するカルチャー」「外資系企業で、多様性を重視、さまざまなバックグランドの人が働いている」というような文言がならんでいるじゃないですか。まさに上の3つの軸を満たしていそうで、「自分が求めているものにすごくしっくりくる、ここしかないんじゃないかー」、と思って早速エントリーしたのがすべての始まりです。

実際、就職活動中にお話を聞いた先輩社員の方達は皆ものすごく魅力的で、最高に輝いて見えました。その中には現在bitFlyerでCEOをされている加納さんもいました。こんなすごい人たちと一緒に働けるのであれば最高に楽しいだろうなと考え、全力で選考に挑んだところ、ご縁があって採用していただけました。

最初の「外資系証券会社でなぜエンジニア?」という疑問ですが、実際蓋を開けてみると、全世界で3万数千人いる社員のうちの約4分の1、つまり8~9000人のオーダーでエンジニアが働いています。この人員だけでITの大企業がつくれてしまう規模感です。それほどまでにエンジニアリングに力をいれている環境で、世界中の優秀なエンジニアと切磋琢磨しながら証券会社という複雑怪奇なビジネスをつくりあげていく。こんな最高に面白い環境は今考えても他になかったとおもいます。実際エンジニアとして最初の12年のキャリアを積むのにはこれ以上ない環境だったと感じていますし、今でもこの会社のことは大好きです。

前の会社のカルチャーと強み

ここの会社の一番好きなカルチャーは、スーパースター個人個人に頼るような仕事の進め方はせず、チームワークを最重要視するところ。チームとして最高のパフォーマンスを出すために皆がそれぞれ自分のチームの中での役割をしっかりこなす。"I did this"ではなく"We did this"と言うのが美徳とされる、そんなカルチャーでした。

このカルチャーはチームレベルではなく、会社全体の特性としても現れていました。よく「世界最強の投資銀行」などと評される会社でしたが、特定の部門が最強だったわけではありません。投資銀行のバンカー、トレーダー、セールス、アナリスト、コントローラーズ、オペレーションズ、コンプライアンス、テクノロジー、人事から総務や広報にいたるまで、すべての部門でそれぞれ最高のパフォーマンスを出し、部門間でのチームワークを発揮することで会社として世界最強の名をものにすることができていたのではないかと、自分は12年働いてきた中でそう感じています。

会社の外でよく聞く評判では、イカつい人が働いてそうとかガツガツしてそうとか怖そうとか言われるんですが、実際そんなことはなくて、一緒に働く人みなものすごく温和でやさしくて非常に人間味あふれる人たちでした。

さらにすごいのは、このカルチャーがグローバルで、しかも偉い人から新人まで一貫しているというところ。グローバルで数万人規模の大企業であるにも関わらず、日本で働いていてもニューヨークに出張してもインドに出張しても、香港やシンガポールの人たちとリモートで働いていても、常にアットホーム感あふれるものすごく暖かいチームワークを常に感じていました。

そしてもうひとつ一貫していたのが、皆一様にものすごく負けず嫌いであるというところ。「温和」と「負けず嫌い」って相反する概念じゃ無い?って思うかもしれませんが、これは本当に面白いんですが、このふたつの性質は同居できるんですね。フロントオフィスの人たちはわかりやすく勝ちにこだわって攻めて行くという意味での負けず嫌い。バックオフィスの人たちは絶対に負けない戦略をじっくり練って守って行くという意味での負けず嫌い。温和でやさしいけど皆さん芯がしっかりしてるんです。

マイノリティであり、多様性の一部であるということ

この会社に入って一番のカルチャーショックだったと言えるのは、「日本人であることがマイノリティである」ということに気付かされたことでした。

この会社の東京オフィスでは、なんと「日本人のためのコミュニティ」というものがが存在します。東京にいるのに日本人のためってどういうこと?と思うかもしれません。私の例をとってみれば、東京オフィスでのテクノロジー部の新卒同期は9人。そのうち日本人は4人だけです。グローバルでみるとテクノロジー部新卒同期全体で240人ほど、他のオフィスでの日本人採用はゼロだったので、同期の仲間たちでも日本人であるということは全体の2%にも満たない、相当なマイノリティです。

ではこの「日本人のためのコミュニティ」(Fuji Committeeという名で呼ばれていました)は何をするために存在するのでしょうか。日本人は、実は自分たちでは普段意識していないような日本人特有の性質を平均的に持っています。たとえば、コミュニケーションのとり方がハイコンテクストであったり、同調意識が働いて他の人と違う意見を自分の中にためこみがちだったりだとか、単純に英語が得意でないとか。あとは欧米人が比較的得意なアクティブな議論の場で発言するのが難しいと感じたりだとか、「自分の意見を表明しない」という認識を周りに持たれがちだったりとか、グローバルな環境で働いている日本人たちにとっては「あるある」的な話が山ほどあります。

このFuji Committeeでは、こういった自分たちの性質に関する気づきを得たりだとか、それぞれが抱えている悩みを共有したり、その問題について議論したり、日本人がグローバルに活躍してキャリア形成を促進して行くにはどうしたらいいか、といった話をする場でした。また、シニアなメンバーが自分の培ってきたキャリアについて話す場を設けてくれて、彼らが抱えていた悩みやコンプレックス、それらをどうやって解決してきたかを赤裸々に語ってくれたりしました。自分がまだジュニアだった頃には、自分にとって凄い神のような存在である彼らが、自分と同じような悩みをかかえていて解消してきたんだという話は、とても親近感を持てますし、安心感と勇気を与えられました。

この経験からも、自分が比較的シニアになってからも、自分がかつて抱えていた仕事上の悩みやコンプレックスをジュニアなメンバーたちと正直かつ素直に共有するようになりました。

このようなある属性にフォーカスしたコミュニティは、日本人向けのものだけではなく、黒人やヒスパニック、LGBTやWIT(Women In Technology)などの様々なコミュニティが存在していました。それぞれのコミュニティで特有の悩み共有や問題解決をおこなって行くことで、それぞれの属性をもつグループが最高のパフォーマンスを出せるように改善していき、結果として会社全体への強みへと昇華して行く。このように多様性を重視して、それぞれの強みを最大限活用できるようにしていくカルチャーの大切さというのは、自分がマイノリティであることを認識してはじめて身にしみて感じました。この会社で働いて初めて、どんな人であっても多様性を構成する一部である、そんなあたりまえのことを大きな気づきとして得られた気がします。

前の会社のエンジニアリングについて

前の会社では、「コントローラーズ」と呼ばれる、トレーダーの損益を日々モニターしてリスク管理やレポーティングをする職種の人たちが日々使うアプリケーションの設計・開発・テスト・運用に関わりながら最初の10年間のキャリアを過ごしました。アナリストからアソシエイト、ヴァイスプレジデントと昇進を重ね、エンジニアとしてはジュニアデベロッパーからプロジェクトマネージャー、QAのグローバルコーディネーション、テクニカルアーキテクトと呼ばれるアプリケーションチームの技術面を支える仕事まで様々なレイヤーを経験しました。キャリアのほとんどをここのチームで過ごしたので、実はここで学んだことや経験したことが自分のエンジニアリング哲学を形成する大部分になるんですが、残念ながら会社の機密に関わる仕事が多かったため、ほとんど語ることができません(汗)

代わりに、最後の2年ほどを過ごしたプラットフォームチーム、そのなかでもOSS活動について語って見たいと思います。プラットフォームチームとは、アプリケーション開発とインフラのちょうど間くらいに位置するチームで、開発者たちが日々使うアプリケーション(たとえばSoftware Development Life Cycleのなかで重要な位置を閉めるコードレビューやビルド、リリースのプラットフォームであったり、各言語のライブラリやフレームワーク、テストのためのプラットフォーム、ジョブスケジューラー、ワークフローエンジン等々多岐に渡ります)を開発していました。ここは純粋に技術的なチームだったため、会社のビジネス業務に直接関わる機密的な話はほとんどなく、比較的表に出しやすい内容なのです。

Eclipse Collections秘話

その中でも、Eclipse Collectionsと呼ばれるJavaのコレクションフレームワークは私にものすごく関わりが深い技術で、かつOSSで公表されている技術なのでブログに記載することに何の問題もありませんw

コレクションフレームワーク誕生

このフレームワークは、もともと Donald Raab というエンジニアがコントローラーズのテクノロジーチームでCaramelという名で開発を始め、そのあと社内で広く使われるようになりました。上記の通り私もコントローラーズのチームで働いていたので、このフレームワークは当初からユーザーとして使用していました。Javaのコレクションフレームワークとしては相当使いやすい実装でかつパフォーマンスも良く、同僚たちとは「Javaに標準で入るのはいつだ」なんて冗談をよく言っていました。2012年に同社初のOSSとして公表された際は社内の皆でものすごく興奮した覚えがあります。

拡散と認知

2014年にはJavaOneで初めてDonald Raab がキーノートに登壇し、同フレームワークのセッション発表もされたことで、世界的に知られるようになりました。これを知った私はものすごく興奮し、日本でもこのフレームワークの認知を広げたいと考え、日本のJavaコミュニティへの進出の機会を探り始めました。JJUG CCC 2014 Fallに始めて参加した際に、JJUG会長の鈴木さんとお話ししたところ、驚いたことにJavaOneキーノートでの発表を見てくださっていたようで、日本支社の誰かとコンタクトを取りたいと思っていた、とのことでした。そこからはあれよあれよという間に話が進み、2015年Java Day Tokyoでの同社での初登壇が実現しました。その直後にはJJUG CCC 2015 Springでもセッションをすることができ、コミュニティによる情報拡散の手助けにより、このフレームワークは日本で一気に知名度を上げます。

この頃のコミュニティ活動は完全に社内での同フレームワークの1ユーザーとしてのボランティア活動であり、別に担当していた本業のかたわらやっていました。もともと日本では同フレームワークの開発チームはいなかったのですが、業務のかたわらちょいちょいコントリビュートを送るようにしたり、東京チームで興味のあるエンジニアにもコントリビュートを勧めたりしていました。

NYからの電話

そんな2015年夏のある日、ニューヨークから自分のデスクに一本の電話がかかってきました。

電話の主は上述の Donald Raab 、同フレームワークの創始者でありプロジェクトマネジャーです。ニューヨークのマネージングディレクターなのでめっちゃ偉い人。面識はあったものの、直属の上司ではなかったので電話で話したことはほとんどありません。いったい何の要件かと聞いてみると、

「今度同フレームワークをEclipse Foundationに移管するんだが、このプロジェクトリードをお前に任せたい。日本のお前のボスに相談しようと思うんだが、どう思う?」

と言うのです!ぶったまげましたが、同時に体の芯が震えるほど喜びました。同フレームワークはそれまで、会社内のsvnで開発・管理されているコードが社内でリリースされ、リリース時のコードのスナップショットのみがGitHubにアップロードされていると言う状態でした。つまり、GitHub上にソースコードは公開されているものの、外部からのコントリビュートを受け付けることができなかったのです。これでは完全なOSSとは言えません。Eclipse Foundationへの移管によりこの問題を解消し、完全に外部での開発ライフサイクルにのせてOSS化するというのが本プロジェクトのゴールです。

実はこの時点でUS以外での同フレームワークダウンロード数は日本がダントツ1位で、大きなユーザー数を占めていました。これはまさに上述した日本でのコミュニティ活動での成果であり、この功績を買われて白羽の矢がたったのです。

Eclipse Foundation移管と"Eclipse Collections"誕生

当然ふたつ返事でプロジェクトのリードを引き受けました。実際の移管プロジェクトでは、最新バージョンの機能開発はもちろん、同フレームワークのパッケージネーム変換から、Eclipse Foundationの開発フローに法ったワークフロー整備やツールの整備、法的書類のフォローアップなど、技術的・非技術的なチャレンジがさまざまありました。自分以外のプロジェクトメンバーは全員ニューヨーク在住、そしてEclipse Foundation本部はカナダのオタワにあるので時差の問題も大きく、電話ミーティングでのフォローアップも大変でした。2015年のJavaOneではDon Raabと共同で本件についての発表を行い(JJUG CCC 2015 Fallで発表された日本語版の同内容の資料はこちら)、2015年12月に無事移管リリースを迎えます。"Eclipse Collections"誕生の瞬間です。

当然OSSだけでは会社のビジネスに直結するわけではないので、移管リリース終了後は本業のプロジェクトも進めつつのOSS業をこなしていました。

紆余曲折を経てのEclipse Collections OSSリリースでしたが、今では開発者以外によるコミュニティでの発表も見られたりと、非常に裾野が広くなってきており、非常に喜ばしい限りです。

OSSとブランディング

こういったOSS活動は会社のブランディングとしての側面も大きいです。ここでいうブランディングは大きく2つの意味合いがあります。まず一つ目は、社外のエンジニア達に会社に興味を持ってもらうこと。つまり、会社がOSSを使うだけではなく、OSSを開発して発信することでコミュニティへの還元をしている、それくらい技術にコミットしているのだということを知ってもらうことです。もう一つは、社内のエンジニア達の士気をあげること。自分たちの会社はOSSにコミットするくらいエンジニアリングに対して本気なんだということを理解してもらい、そしてOSSという皆が平等に貢献できる土壌をつくることで、社内エンジニアリングの士気を上げて行く、空気感をつくることです。

こういった土壌はWeb系の企業だとわりと普通かつ自然に培われるものかもしれませんが、世界的な大企業であり金融機関、という環境でこのムーブメントをゼロから起こすのは相当な情熱(Passion)、忍耐力(Patience)とやり続けること(Persistence)が必要です。この3つのPは私が Eclipse Collectionsの創始者である Donald Raabから学んだ大切な哲学です。

彼は実際2004年からEclipse Collectionsのもととなるライブラリを作り始め、2012年に初めてソースコード公開、そして2015年についに会社外からもコントリビュータを受け入れられる完全なOSSとしてEclipse Foundationへの移管を完了しました(私が任されたEclipse Foundation移管のプロジェクトはこれです)。そしてDonは今現在もひきつづき同フレームワークをJavaの標準ライブラリとして取り込むための活動を続けています。これらの成果はまさに彼の情熱(Passion)、忍耐力(Patience)とやり続けること(Persistence)の賜物と言えると思います。

このOSS活動で学んだエンジニアブランディングにまつわる経験は現職でも生かされていて、現在の会社であるFOLIOで一緒にクリエーターブランディングに注力してくれているよこなさん @ihcomega のFOLIOアドカレ第一日目にもその辺の話題が書かれています。

ihcomega.hatenadiary.com

退職直前のこと

この会社には社内SNSがあったんですが、私もそれなりに投稿してました。いわゆる社内ブログとか呟きみたいのの影響力(like数とか、コメントの数とか、投稿数とか)によってポイントランクみたいのがあって、退社直前についに8000人中の20位内に入り込みました。20位以内だとリストの一番最初のページにプロフィールが表示されるので、やめる直前でトップページに食い込めて喜んだ覚えがあります。この社内SNSのおかげで会ったことないけど私のこと知ってくれている人は世界の各オフィスに結構いて、それなりにグローバルにも影響力あったと思います。ただ、これに関しては完全に私のボスだった Donald Raab のおかげであり、彼がいなければOSSのプロジェクトリードをまかされることもなかったし、社内外に影響のあるプロジェクトを任されることもなかったと思います。彼は私のキャリアのなかで最も尊敬する人物のひとりで、技術的にもマインド的にも彼から学んだことの大きさは計り知れないです。

なぜ辞めたのか

めちゃめちゃ良さそうな会社なのに、なんで辞めたの?と疑問に思うかと思います。実際今でもこの会社のことはすごく好きですし、未だに動向はウォッチしています。

150年ほども歴史があるグローバルな会社で、仕事も楽しく待遇も良く福利厚生も良い、本当に至れり尽くせりのとても良い会社でした。とはいえ、これだけの長い歴史の中で、いろんな人たちが作り上げてきた会社、ということを肌で感じる中で、自分はただそのおこぼれを享受しているだけなのではないか、というのがここ数年のもやもや感でした。もし可能であれば、自分でもこんな素晴らしい会社・組織をつくってみたい、何よりもエンジニアが本気で活躍できるような組織や土壌というものを自分の手でつくりあげてみたい、ということをすごく考えるようになりました。

また、ここ数年日本の技術コミュニティに顔を出すようになり、日本のエンジニアたちの強さ、凄さを目の当たりにする機会が増えました。それとは裏腹に、グローバルと比較した際の日本のエンジニアたちの待遇の低さというのもよく嘆かれています。日本で埋もれているような優秀なエンジニアたちが思う存分実力を発揮して、その実力を適切な待遇で評価される、そして彼ら彼女らがグローバルで活躍できるような土壌をつくる、そんなエンジニア組織を自分でつくれたらいいなと考えていました。

そんな中FOLIOという面白い会社と出会いました。この会社と出会った当時はまだ創業1年そこそこで、社員数20数人ほどのできたてほやほやのスタートアップです。代表の甲斐もクリエーター(デザイナー+エンジニアをあわせてFOLIOではクリエーターと呼んでいます)を非常に大事にしており、次世代証券会社、そして今までの常識をくつがえすような金融プラットフォームをこのチームでつくりあげて行くんだという、そのマインドがものすごく気に入りました。エンジニアたちとも話がめちゃめちゃ盛り上がり、自分の次のキャリアを積むのはここしかないと考えました。なんせ、次世代証券会社をビジネス陣・クリエーター陣で協力してゼロからつくりあげてしまおうというスタートアップなので、私がやりたいと思っていたことにどハマりなのです。

このFOLIOが持っている多様性はFOLIO Advent Calendar 2017を見てもらえばわかると思います。現在ではクリエーター陣だけで30数人(全社では60人ほど)の組織になっていますが、その担当範囲やバックグラウンドは多種多様です。証券会社をつくるクリエーターとして、それぞれが自分のプロフェッショナリズムを発揮して仕事をしています。

qiita.com

そして、FOLIO Advent Calendar 2017では「株式会社FOLIOの次世代証券システムをひもとく」と題して本日の最終記事を担当したのですが、当記事でも述べたように次世代証券会社のシステムをつくりあげていくにはまだまだやることが山積みであり、とてもチャレンジングなさまざまなプロジェクトがわれわれを今後待ち受けています。

締め

以上、わりとエモい感じで前職の会社のお話と5月にジョインしたFOLIOのお話を書き連ねました。まだまだ書き足りないことはいっぱいあったんですが、さすがに長すぎると自粛しました。楽しんでいただけたら幸いです。