現代インターネットにおける〈マイノリティ〉の在り処――売野機子『インターネット・ラヴ!』評

 売野機子『インターネット・ラヴ!』評です。別の場所にこっそり載っている文章ですが、よく書けたと思うので、ちょっと修正してブログにも載せておきます。

 

 

1.『インターネット・ラヴ!』の設定の背景にあるもの――忘却できない傷つき・痛み

 売野がこの作品において、インスタや韓国、ネイリストのような「オシャレ」なもの、あるいは「社会に包摂されたセクシャルマイノリティ」のようなものをベタに肯定して描いているわけではない点にまず注意を促したい。

 

 では、それらの現代的なモチーフにどのような機能を持たせているのか?

 

 この問いについては、インターネットとマイノリティとの間の関係から考える必要がある。解説しよう。

 

 かつてインターネットはマイノリティにとっての希望だった。人生の敗者復活戦の場だった。

 今・ここのしがらみから逃走し、「本当の私」を承認してもらえる……少なくともそのような希望を抱くことのできる、解放の場であった。

 

 しかし、SNSが普及することで、多くの人間が日常生活の延長線上で自らの情報を電子上にアップロードするようになった。

 「ないことにされている」存在にとっての承認の場であったインターネットのありようは反転する。人々は自らの存在証明をし続けることを強いられるようになる。逆にSNSにアップロードされないものは「ないことにされている」のが現代である。

 

 そうして、マイノリティの居場所は再び失われる。リベラルデモクラシーが活気づく現代において、一見セクシャルマイノリティは存在を承認されているように見えるが、それはマイノリティを「ノーマル」なものとする権力の下で、である。

 

 『インターネット・ラヴ!』はそのような時代状況における物語である。

 天馬は表面的には自らのクィア性を周囲からも、ましてや両親からも承認されている。軽快にインスタグラムを使いこなす「リア充ネイリスト」として生きている。

 

 現代の水準へと「アップデート」された人間においても、やはり恋の悩みは付きまとう。ただし、その恋のカタチは当初「推し」という、これまた慎重に傷つき・痛みを排除した現代的なものとして立ち現れている。

 

 しかし、傷つき・痛みを排除することはできない。天馬は失恋の傷つきを通じて自らのセクシュアリティに対して真剣にならざるを得なくなる。彼女とも別れ、彼女からは「拳で決着」をつけられることになる(身体が傷つくものであるということの端的な表現である)。天馬は〝軽快な〟クィアネス(あるいはバイセクシュアリティ)を降りて、「モテないゲイ」としての実存を生きることになる。


 自らの身体性をキャンセルできないということ。これ自体もSNS以前のインターネットにおけるつまずきの石となっていた、きわめてマイノリティ的な問題系である。

 ちなみに売野機子は『ルポルタージュ』においても、恋愛が絶対視されなくなった未来社会において、それでも自らの身体性は残るのだという主題を扱っていたわけだが、多かれ少なかれ「失われていくものへのノスタルジー」を通して耽美な世界観を作り上げている。今作におけるノスタルジーの対象は、SNS以前の「マイノリティによるインターネット」ということになるだろうか。


 ウノくんに出会った天馬は、その肉々しい身体性に圧倒され、その匂いを嗅ぎ、射精する。これにはクスリとさせられると同時に、正しくマイノリティとしての身体性を表現している(むろん、翻訳アプリを使わない、手書きの文字や絵でなされるコミュニケーションもまた、SNS以前の身体性を巧みに表現していると言えよう)。

 

 ここまでをまとめるならば、売野は「傷つく身体性」を排除しない描き方をしていると読むべきである。すなわち、「推し」や「認知」などといった安全圏においては忘れ去られているものを描き出そうとしているのである。

 


2.「否定性=物語」なき世界での〈抵抗〉のかたち

 「SNS以前のインターネット」というノスタルジーを描いているからと言って、この作品は決して懐古趣味ではない。むしろ、この作品は「漂白」され、フラット化した現代社会の〝内側〟において、それでも決して何かに回収されることなく、抵抗的に生きる人間を描いている。それは、一見「抵抗」には見えないようなあり方である。

 

 より具体的に言おう。
 インターネットがマイノリティにとっての楽園だった理由の一つは、インターネットが2ちゃんねるに代表されるようなシニカルなカルチャーを持っていたからである。

 すなわち、社会で常識とされている規範を相対化する「冷笑」や「否定性」の中で、社会の主流に対するオルタナティブとなるようなカウンターナラティブが形成されてきた。

 現代のSNSにおいてその代表的な場はTwitter(現X)である。結果としてTwitterは、広い意味でのマイノリティが社会に対して文句を言いつつも存在を承認される、サブカルチャーの格好の場となってきた(2016年頃からは人口が増えすぎてだいぶ「治安が悪く」なっている側面もあるが)。


 Twitterと比べるとインスタグラムは社会に対して迎合的である。ここまで再三述べてきたように、傷つきを避け、否定性を排除したようなフラットで漂白された場という傾向が強いだろう。

 この観点から見ると、『インターネット・ラヴ!』の世界は「インスタグラム」的な世界である。キャラクターたちの関係に否定や批判は生じず、共感と配慮に満ちている。この「やさしい世界」においては、マイノリティたちが持つ後ろ暗い欲望を追求していこうというサブカルチャーは生じてこない。否定はされないものの「人それぞれだよね」とゆるやかに遠ざけられることになるであろう。


 一方、Twitterではたびたび批判が噴出しつつも「出会い厨」「メンヘラ」「サークルクラッシャー」「オタサーの姫」「オフパコ」「ナンパ」などといった、王道ではない「邪道」のインターネット恋愛文化が醸成されてきた。

 オタク系やサブカル系の作品において描かれる恋愛はこれらの文化と呼応してきた側面が強いように思われる。「セカイ系」と呼ばれる作品群において描かれる自己憐憫的な恋愛描写や、サブカル系作品の逸脱的な性愛の描写は、「社会に適応できないダメ人間」を慰撫しつつ恋愛へと駆り立てている側面があるだろう。要するに「陰キャによる恋愛」の物語を提供してきたと言える。


 しかし『インターネット・ラヴ!』はそれらの路線にはのらない。セカイ系的な自己陶酔モノローグが描かれるわけでも、周囲の関係や親子関係での不和が描かれるわけでもない。実際、天馬がゲイであることを親が受容していることは、これみよがしに描かれている。それゆえに親や誰かを「敵」として設定することもできず、「敵を乗り越える」という分かりやすい主体性獲得の物語が描けないような構造になっているのである。 

 すなわち、「否定性」がない世界だ。その内側におけるある種の〈抵抗〉のかたちが丁寧に描写されている。

 たとえば「やさしい配慮」で天馬を受容してくれる親の言いつけ;「人生は短い」を天馬は否定することができず、天馬はウノくんに対して「ダメ元」で告白することを決意するというかたちで話が進んでいくのは、マイノリティの物語としては特異であろう。しかし、微妙にズレている親に対してキッパリとした抵抗ができない点にこそリアリティがある。


 小括しよう。たしかに「否定性」を媒介とした分かりやすい物語としての「インターネット・ラブ」であれば安易に批判/共感もできるだろう。

 しかし、売野は現代の否定性なき世界における〈インターネット・ラブ〉に真剣に向き合っているのである。タイトルは『インターネット・ラヴ!』であるが、ここを読み違えてはならない。

 


3.『インターネット・ラヴ!』の結末について

 この作品の結末に疑義を呈する声もあるようだが、私見ではむしろ、この作品の結末は非常に練られたものになっている。最後に結末で何が描かれていたのかについて、解説しよう。

 

 クライマックスに至るプロセスで、作中の主題は単に「マイノリティ」の問題ではなくなることがポイントである。

 天馬が恋する相手であるウノくんは韓国人というだけで、分かりやすく定義されたマイノリティ性を持っているわけではない(ただし、日本人と韓国人という設定が、疑似的にSNS時代以前の「距離」を再現しており、「会う」ことの特別さを演出しているということは指摘しておこう)。

 現代的な基準においてウノくんは「SNS依存」だと彼女に診断されてしまうわけだが、彼はメディア上に自己をアップロードすること、目の前にはいない「誰か」にまなざされることを純粋に楽しんでいる。それは作中で描かれているように、神からのまなざしの等価物である。

 

 インターネットに〈神〉からの救いを求めたが、まなざし返されなかったことに絶望したのはそう、秋葉原連続通り魔事件のKだった。

 Kは現代における「インセル」「弱者男性」現象の走りとして解釈することも可能だが――まさに売野は『ルポルタージュ』で「インセル」を描写している――ウノくんには天馬がいたからこそ、天馬がずっとまなざしてくれていたからこそ、闇堕ちせずに済んでいるのである。過剰なまでにアップロードされ続ける「存在の叫び声」の中に、「寂しがり屋」なところを見出したのが天馬だったのだ。

 

 ウノくんの方は天馬に対し1か月間自分のことをアップロードするように言う。そして天馬は「おれはおれの知らないおれを知る」。メディア上に自己をアップロードすることを通じて、「マイノリティとして」ですらない自己に出会い直すのだ。

 重要なのは、これがちょうど天馬がウノくんのインスタ投稿からウノくんが「寂しがり屋」であると見出したことを、自分自身に対して適用する構図になっていることだ。天馬はそうして自分の感情を省察し、自らのゲイネスさえも相対化していく。

 そしてその天馬の投稿もまたウノくんは見ている。お互いがお互いを発見していくプロセス。ウノくんはひょっとするとここで自身のゲイネスに気づいたのかもしれない。

 そして何よりウノくんは、天馬がインスタ投稿を続ける(=まなざされる)ことを通じて、天馬がそれまでのただまなざすだけの存在ではない、ということに気づいたのだろう。まなざし合う双方向性が生まれることで、二人は結ばれるのである。


 そこにはもはや他者からの承認は必要ない。作中を通して、軽快なクィア→モテないゲイ→マイノリティとしてではない自分自身という、3段階のビルドゥングのプロセスが描かれたのである。