「サークルクラッシュ」入門講義(「サークルクラッシュ」研究所会誌Vol.1より)

この文章は「サークルクラッシュ」研究所会誌Vol.1(実質的にはサークルクラッシュ同好会会誌Vol.11)に寄稿したものです。在庫が切れてきたのでネット上に公開します。

 

 

 こんにちは。初めまして。サークルクラッシュ同好会改め、「サークルクラッシュ」研究所の所長を務めています、ホリィ・センこと堀内翔平と申します。

 

 このたびは、恋愛で人間関係が壊れてしまう「サークルクラッシュ」という現象について、講義の形式でみなさんに解説したいと思います。

 

 「サークルクラッシュ」は大学生の間で実際に起きていることです。特に大学1回生の間で起きやすいものです。大学1回生というのは人間関係の流動性が最も高くなる時期だからです。「大学デビュー」的な勢いでサークルに入ったものの馴染めずにすぐ辞めてしまったり、サークル内で急速に恋愛の熱が高まったもののすぐに冷めてしまったり、勢いで告白したら振られてしまったりといった感じで起きてしまうものです。

 

 そんなゴシップ的な興味を掻き立てる「サークルクラッシュ」ですが、言葉の定義が難しく、かつ割と取り扱い注意の概念ですので、言葉としての「サークルクラッシュ」についてまずは解説しておきましょう。

 

 

1.そもそも「サークルクラッシュ」って言葉はなんなの?

 「サークルクラッシュ」とは「男女比が大きく不均衡なサークルや職場などに少数の異性が参加した際、その異性をめぐる恋愛トラブルで人間関係が悪化し、サークルが崩壊に向かう現象」(宇野・更科 2009:167)と定義されています。これは、評論家の宇野常寛さんが2005年ごろから「サークルクラッシャー」という言葉を使い始めたことによって、ネット上で広まったとされている言葉です。

 

 この定義とはやや異なりますが、個人的には「複数人が関与する恋愛トラブルによって人が集団から辞めたり、精神的に傷ついたりする現象」ぐらいに定義しておいた方が分かりやすいと思います。サークル自体が「クラッシュ」してしまうというよりも、失恋した人のメンタルが「クラッシュ」してしまうという意味合いで語られることも多いからです。

 

 さて、言葉の使い方として気をつけるべきなのは、「サークルクラッシャー」が多くの場合、女性を指して用いられがちな概念であることです。そしてこの概念には、恋愛トラブルの責任を女性に帰する含意があります。ここにはおそらく、恋愛関係や性的関係を持つことへの厳しい規範を女性にのみ課す「性規範のダブル・スタンダード」が背景にあります。

 

 むしろ「クラッシュ」を引き起こしているのは男性の方であろうということを強調するため、「クラッシャられ」という言葉が、サークルクラッシュ同好会の初期メンバーであるぶたおさんによって発明されました。クラッシャられ。まるで「赤坂サカス」みたいな響きですね。クラッシャられる、と動詞化することもできます。

 

 結局のところ「サークルクラッシュ」は男女がマッチングすることで起きる現象ですから、これもぶたおさんの言っていた比喩を借りれば、「ガソリンちゃんとライターくん」です。ガソリンちゃん単体、ライターくん単体では特に問題はないのですが、二人が出会ってしまうことで爆発してしまうわけです。

 

 まあ、そもそもとして「サークルクラッシャー」という〝人物〟ではなく、「サークルクラッシュ」という〝現象〟に注目する方が丸くおさまるでしょう。その方が、不当に個人に責任を帰属させてしまう誤った推論を避けることもできます。そのため、僕は基本的には「サークルクラッシュ」という言葉しか使わないようにしています。

 

 それでもなお、「サークルクラッシュ」という言葉自体が女性差別的な価値観に基づいている言葉なのだから使うべきでない、という立場もあるかもしれません。ですが、言葉遣いに問題があるかどうかはさすがに文脈によるでしょう。ステレオタイプを無批判に肯定することに注意して使用すればよいと僕は考えています。

 

 これはたとえば、黒人の研究をしている人が「黒人」という言葉を使うからと言って、「黒人」というカテゴリーの使用を無批判に肯定しているわけではないのと同様です。

 

2.「サークルクラッシュ」のメカニズム

 さて、「クラッシャー」という言葉を使うことには慎重であるべきとはいえ、典型的な「サークルクラッシュ」のメカニズムを説明するにあたっては

A.「サークルクラッシュ」が起こる集団の特殊性

B.「クラッシャー」とみなされる女性の特徴

C.「クラッシャられ」とみなされる男性の特徴

をある程度一般化して見ていく方がイメージしやすいでしょう。ちなみに、男女逆のパターンや非異性愛のパターンは「典型」を見出せるほどには集まっていません。

 

 ここでは、僕が修士論文で調査したインターネット上での言説を紹介し、それと実際に見聞きした「サークルクラッシュ」の事例とを照合することで「サークルクラッシュ」のパターンを把握し、そこから「サークルクラッシュ」のメカニズムを考察します。

 

A.「サークルクラッシュ」が起こる集団について

まず、ネット上の言説を分析したところ、集団に関わる次の6つが見出されました。

 

①女性経験に乏しい男性ばかりの文化系・理系・オタク系の集団

②集団内の人間や恋愛関係に関する情報共有ができていない

③公私を混同し,集団自体の目的(公)よりもコミュニケーションや恋愛(私)を重視

④男女の友情が成立しにくく,恋愛に発展してしまう

⑤男同士の絆が弱く,形式だけのホモソーシャリティが維持されている

⑥「サークルクラッシュ」によって集団がなくなることは少ない

 

 はたしてこれらの言説は事実なのでしょうか。僕が見聞きした事例と照合してみますと、⑥については、「サークルクラッシュ」を経験したという人に実際にインタビューしてみたところ、インターネット上の「オフ会」のような、構造化されていない集団ならば、なくなる場合も割とあるようです。このような集団ではそもそも定期的な集まりがないわけですから、集団がなくなるというよりも「会わなくなる」という感じでしょう。

 

 次に、⑤についてもパターン分けができます。まず「ホモソーシャリティ」という言葉の定義を確認しておきましょう。ホモソーシャリティとは、男性同士の「ホモセクシュアリティhomosexuality」を抑圧しながら、男性が女性を性的欲望の対象として扱うことで周縁的な領域へと排除することによって成立する、男性同士の絆を意味します。図式化すれば,「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)と「ミソジニー」(女性嫌悪)を合成した概念です。

 

 イメージとしては「下ネタを言い合う男たち」「男らしさや権力を追求して競争し合う男たち」などが想像がつきやすいでしょうか。とはいえ、「ホモソーシャリティ」という言葉は実はとても曖昧な概念です。たとえば、男性同士は競争しているのか仲が良いのかどっちなのでしょうか? 女性は集団から排除されるのか集団内の性的対象として取り込まれるのかどっちなのでしょうか? また、俗に「ホモソ」と言われている事例においては「同性愛嫌悪」が明示的に見られない場合も多いわけです。

 

 これについても「サークルクラッシュ」経験者に調査したところ、「同性愛嫌悪」が明示的に見られる場合はほぼなかったですが、男性から女性への性的対象化の視線が集団内で強く共有されている際には――これはホモソーシャリティが〝強い〟と言えるでしょう――「サークルクラッシュ」が起きたときに、女性の方が悪者とみなされ、排除されるというパターンがよく見られます。

 

 それ以外のパターンでは――ホモソーシャリティが〝弱い〟際には――男性が勝手に失恋して集団に居づらくなって辞める、といった帰結を辿ります。

 

B.「サークルクラッシャー」とみなされる女性について

 「サークルクラッシャー」とみなされる女性は、言説上では「サークルクラッシャー」は「意図的なクラッシャー/非意図的なクラッシャー」で分類されることが多いようです。

 

 しかし、「意図的に自分からサークルを破壊する」なんて人はほとんどいないはずです。そのことを考慮してか、「承認欲求型/無意識型」という分類もよく見られます。前者は承認欲求が「暴走」することで、複数人から恋愛的な好意を向けられるような態度を取ってしまうというイメージです。どちらかと言えばこのパターンでは女性が非難される傾向にあります。一方、後者は、無意識に他者との距離感が近くなってしまい、結果的に意図しないかたちで恋愛的な好意を向けられてしまうというパターンであり、この場合はしばしば「勘違いする男に問題がある」と評価されがちです。

 

 また、「承認欲求」という言葉は意味合いが曖昧であり、また、実情に即していない場合もあるように思います。そこで元々の「意図的」という要素を残すのであれば、「操作型/無意識型」という分類にした方がより適切かもしれない場合もあると思います。ここでの「操作」には「他者からの自分に対する印象を操作する」という意味と「関係を操作する」という意味の両方を含みますが、いずれにせよ「無意識型」には見られない傾向ですので、分類としては成立するのではないでしょうか。

 

 「承認欲求」にせよ「操作」にせよ、ある種の〝病理性〟がそこには読み取られています。そのため、「サークルクラッシャー」とみなされる女性の恋愛に関する行為の動機としては、「自己肯定感の低さ」が語られがちです。そして自己肯定感はしばしば「家庭環境の問題」とも結びつけられて語られます。これらの「病理的な恋愛」「自己肯定感」「家庭環境」といった概念セットは、それぞれが意味的な連関を持っており、「家庭環境に問題がある→自己肯定感が低い→病理的な恋愛をする」といった、ステレオタイプな因果関係がしばしば語られますし、そのステレオタイプは「メンヘラ」と呼ばれるカテゴリーによって語られることで戯画化されています。

 

 このような戯画化によって「メンヘラ」カテゴリーはスティグマとして機能してしまい、他者から差別や非難を受けるだけでなく、自分で自分に対してマイナスイメージを付与してしまい、社会からの疎外を強めてしまう場合があります。おそらく、精神疾患カテゴリー(ここではたとえば「発達障害」、「境界性パーソナリティ障害」などがイメージしやすいでしょう)を用いるときと同様の慎重さが必要になるように思います。

 

 しばしば女性を指して用いられる「サークルクラッシャー」というカテゴリーに関しても同様です。ひょっとすると、女性を「サークルクラッシャー」として名づけたくなる欲望自体、男性同士の絆を強める「ホモソーシャリティ」の構造から発生しているのではないか、ということも考えられるように思います。

 

C.「クラッシャられ」とみなされる男性について

 最後に、「クラッシャられ」について。言説の分析から見出された「クラッシャられ」の特徴は主に二つです。一つは「ロマンティックな恋愛規範の内面化」です。アニメや漫画などのフィクションで描かれがちな「ボーイ・ミーツ・ガール」、極端に言えば、「空から少女が降ってくる」ような〝運命的〟な出会いのストーリーをどこか内面化している、ということです。

 

 そしてもう一つは、「非恋愛から恋愛に至るまでの中間段階(グラデーション)のなさ」です。これについては次の図解を元に説明しましょう。

 


 異性愛の男女の関係が「知り合い→友だち→恋人」という風に〝進展〟していくという単純化された図式で考えることになりますが、図式的に言うならばまず、「サークルクラッシャー」とみなされる女性は「知り合い」という関係性をスキップし、最初からまるで友だちに接するかのように接してしまっているということになるでしょう。いわゆる「距離感がバグってる」というやつです。

 

 次に「クラッシャられ」とみなされる男性は、非恋愛から恋愛に至るまでの中間段階にある「友だち」という関係性をスキップしてしまっているということになります。言うならば、「グラデーション」がなく、「すぐ女性を好きになってしまう」ような男性だということです。

 

 この二者――まさに、「ガソリンちゃんとライターくん」――が出会うとどうなってしまうのか。図解を見てください。

 

 ①の段階では、「クラッシャられ」とみなされる男性はしばしば消極的で、むしろ「サークルクラッシャー」とみなされる女性の方が「友だち」として「積極的」に接することになります。まあ、女性からすると積極的に接しているつもりはなく、意図せず距離感が近くなっているということもしばしばあるのですが、男性視点からすると積極的に見えるわけです。

 

 このことで、男性はグラデーションなしに一気に「恋人関係になれる」と勘違いしてしまいます。あるいは実感としては、「ワンチャンいけるかもしれないからいってみよう」という感じでしょうか。暴走しちゃうわけですね。ここでフェイズは図解の②に移行し、男性の方ばかりが恋愛モードになってしまって盛り上がり、友だちだとしか思っていない女性からすると男性からのアプローチに困ってしまうわけです。

 

 このような男性が複数人いれば「サークルクラッシュ」の危険性は高まっていきます。あるいは、男性Aからのアプローチに困った女性は、別の男性Bに相談する、ということもあります。男性Bが「クラッシャられ」でなければよいのですが、どういうわけか「クラッシャられ」である男性Bに対して相談してしまった場合、見事に三角関係の成立です。このような「困ったアプローチ→他の男性への相談」が連鎖していくことで「サークルクラッシュ」に繋がっていくのは一つの黄金パターンとして、しばしば観察されています。

 

 この「クラッシャられ」と呼ばれる男性は、モテない人を指す「非モテ」というカテゴリーと近いように思います。そもそも「サークルクラッシャー」という言葉がインターネット、とりわけ株式会社はてなにまつわるサービス(はてなダイアリーなど)を通じて盛り上がり始めた2005年頃、「非モテ」という言葉を通じたコミュニケーションも盛り上がっており、はてな界隈では「非モテ論壇」と呼ばれるような人たちが存在したほどです。

 

 その後、「非モテ」についての言説はいったんあまり盛り上がらなくなるのですが、近年「インセル」という言葉が出てきたこともあり、「弱者男性論」の一環でよく語られるようになりました。インセルとはInvoluntary Celibateの略で、直訳すると「不本意な禁欲主義者」です。恋愛やセックスを欲しているが、それが女性のせいで叶わないと考えている、女性蔑視(ミソジニー)を基盤とした男性たちを指すと考えればよいでしょうか。

 

 インセルについての言説では、女性蔑視や男性の加害性が問題として語られることが多いですが、「非モテ」については価値判断から離れて、どのように「非モテ」という生きづらさを経験しているかという文脈で語られることも増えてきました。この文脈で言えば、「非モテ研究会」という面白い団体があります。

 

 非モテ研ではたとえば、当事者たちが展開する「非モテ研究」によって、「非モテ」という状況にありがちなパターンを「非モテ用語辞典」としてまとめています。恋愛に関わるもので言えば、自分を救ってくれる女神のように女性を扱ってしまう「女神化」、急激に恋愛のスイッチが入ってしまう「ロマンススイッチ」、振られることが分かっていて告白してしまう「自爆型告白」などの用語が発明されています(ぼくらの非モテ研究会編、2020)。これは「クラッシャられ」が経験している困難を当事者視点からうまく記述したものと言えるでしょう。

 

 「クラッシャられ」はこの他にも、近年話題になっている現象との結びつきがあります。たとえば、「スクールカースト」問題が挙げられます。またもや、「クラッシャられ」という言葉の発明者であるぶたおさんの言葉を借りますが、「オタクになりたくてオタクになった奴ではなく、オタクサークルに入るしかなかった奴がクラッシャられる」のだそうです。これは言い得て妙です。今の時代では何かに熱中できる「オタク」が羨ましい存在として語られることもあります。「オタクになりたくてオタクになった」という人はむしろ人生を謳歌している人だと言えるかもしれません。

 

 それに対して、学校のクラスで周縁的な存在であり、かといって熱中できる趣味もないような人。こういった人こそ「スクールカースト」の犠牲者であるように思われます。居場所のない彼らは、大学生になった際に、オタク的な趣味に熱中しているわけではないもののしぶしぶ居場所を求めてオタクサークルに入ることがあります。それでなんらかの趣味に熱中できるようになればまだよいのですが、目の前に「恋愛」のチャンスが転がりこんでくると、コロッとそちらに転んでしまうわけです。戯画的に言えば、「こんなオタクサークル、二人で抜け出そうよ」というわけです。しかし、それは彼の勘違いなわけです。

 

 「恋愛によって青春を取り戻すチャンスがきた」という勘違いから発生するトラブルを通じて、彼がサークル活動や友情よりも恋愛の方を優先する人間だったということが周囲に露呈してしまうわけです。ぶたおさんは「クラッシャられは友だち甲斐のないやつだ」ということをあるときに言っていましたが、それはこういったプロセスを辿るときでしょう。

 

 このようなクラッシャられの人物像は特殊なものかもしれませんが、ある意味で現代の「草食化」した若者像を象徴しているとも言えるかもしれません。自身が「サークルクラッシャー」であったと著書で語っている鶉まどかさんは、「クラッシャられ」は「上げ膳据え膳を希望」であり「リスク回避・コスパ志向」であるという特徴づけをしています。

 鶉さんはそのような「クラッシャられ」に対してデートプランをこちらで考えるなどの「お膳立て」をすることでどんどん男性たちを攻略していったそうです(鶉 2015)。「クラッシャられ」は自分からは恋愛に対して積極的に行動はせずに「リスク」を回避するものの、いざ恋愛のチャンスが巡ってきたらそれはいただきます、という戦略を採っているわけです。「恋人のおいしいところだけが欲しいんです」というのは2016年に流行したドラマ「逃げ恥」のセリフですが、恋愛のおいしいところだけがほしい「クラッシャられ」はまさに現代的な恋愛を象徴している側面があるのではないでしょうか。

 

3.「サークルクラッシュ」現象の社会学的意義

 さて、既に「クラッシャられ」というものを通じて、非モテ、スクールカースト、草食化のような現代的な現象との接合性を紹介しているわけですが、ここからはさらに一般化し、現代社会において「サークルクラッシュ」現象とはどういうものなのかということを考えていきましょう。

 

 社会学者のアンソニー・ギデンズ(1992=1995)いわく、社会が近代化していく中で「純粋な関係」というものがよく見られるようになりました。「純粋な関係」とは、関係を結びたいというそれだけの目的のために結ばれる関係であり、その関係から得られる満足がある限り関係を続けていくような関係を指します。要は外的な拘束によっては左右されないような関係のことです。

 

 とはいえ、現代においても、完全に「純粋な関係」はまずありえません。たとえば、僕たちはなんだかんだ学校や企業などの場所があって初めて人と出会うわけです。結婚相手の選択などにおいても、性別はもちろん、収入、学歴、人種などでフィルターがかかることは現代でもよくあることです。しかし、昔に比べればそれらの友人関係や恋愛関係は「純粋化」しているとは言えそうです。たとえば現代は、同じ地域や身分の人としか友人関係や恋愛関係を築けない、みたいな時代ではないわけです。

 

 また、社会学者の石田光規(2018)の言い方を借りるならば、人間関係は近代化によって「共同体的関係」から「選択的関係」へシフトしているとも言えます。共同体的な「そこにある」関係ではなく、自分の選択によって選びとっていく関係が主流になってきているとは言えるでしょう。

 

 このように考えると、伝統的に機能してきた中間集団、たとえば親戚や地域、学校、職場における出会いはどんどん衰退していると考えられるでしょう。それに対して、自発的な選択に基づく関係が盛り上がっています。その意味で、「サークル」的なものが台頭しているのが現代なのです。そして、インターネットやSNSの存在がこの「選択的関係」が主流になる傾向を加速させています。サークルについても大学のサークルに限らず、インターネットを経由して作られた「サークル」(あるいは「コミュニティ」)は数多く存在しています。

 

 ところで、個人の選択に基づいて関係が作られるようになったということは、個人の「コミュニケーション能力」がモノを言う時代になったということでもあります。というのは、選択的に関係が作られるということは、自分の力で相手との関係を取り結ぶことが重要になってきますし、「人から選ばれる」能力も重要になってくるからです。

 

 言い換えるならば、人間関係は「自由市場」に近づいていくことになります。すると、「選ばれる」人が生き残り、「選ばれない」人が淘汰されていくという傾向が強まります。これは「スクールカースト」や「陽キャ/陰キャ」の二極化の問題にもおそらくつながっていることでしょう。これまた石田の言い方を借りれば「つながり格差」が生じる社会なわけです。

 

 このような現代の人間関係の状況が、実は「サークルクラッシュ」の発生に繋がります。まず、中間集団が衰退したことで、家庭や地域に居場所がなかったり、学級の「スクールカースト」からはじき出されたりする人がそれなりの数出てくるわけです。そういう人たちが、いざ大学やネットで人間関係を作ろうと思うと、コミュニケーションの不得手な人たちだけが「生物濃縮」(あるいは濾過)された「サークル」ができあがってしまうわけです。典型的にはオタクサークルですね。

 

 言うならば「排除された人たちが流れ着く、受け皿としてのサークル」が生じるわけです。そのサークルの内部で起きる、更なる排除の問題が「サークルクラッシュ」であると言えるでしょう。

 

 実際、そのような「受け皿サークル」で起きる恋愛はリスクが高いわけです。具体的に言いましょう。たとえば中学高校などで規範的な男性性に馴染めずに疎外されてきた男の子が、大学に入って、自分の男性性をワンチャン取り戻せる手段として恋愛が立ち現われてきてしまうわけです。非モテ研用語で言えば、「彼女ができれば全て救われる」という「一発逆転幻想」ですね。

 また、親などの重要な他者から愛を受けずに育ってきた女の子が、自身の寂しさを埋める手段として恋愛してしまうなんてこともあります。

 

 このような恋愛は、誤解を恐れずに言えば、幼稚で未熟なものになるでしょう。青年心理学者の大野久(1995)は、思春期特有の自己愛が先行する身勝手な恋愛を「アイデンティティのための恋愛」と呼んでいますが、まさにそのような恋愛が「受け皿サークル」では生じやすいわけです。

 

 結果として、「受け皿」からも排除されてしまうわけですので、外から見れば笑い話かもしれませんが、当事者から見れば深刻な問題なわけです。現代の「選択的関係」から生じる「つながり格差」は、自己責任の問題として片付けられない「社会問題」だと僕は考えています。

 

 この他にも、「サークルクラッシュ」現象と深い関わりがあるのはたとえば「若さ=女性性に固執してしまう問題」――これは「パパ活」や美容整形ブームなどとも関連が深いでしょう。

 「距離感がバグってる問題」――これは流行している「発達障害」という言葉とも関連づけて語られがちでしょう。

 「恋愛ではない関係を築きたいのに恋愛的な好意を持たれてしまう問題」――これはネットミームでは「ぬいぐるみペニスショック」や「雑魚モテ」、ミームでない言葉では「アロマンティック」などと関わりが深いと思われます。

 

 いずれにせよ、「サークルクラッシュ」は現代的な社会問題を発見するための1つのスコープ(照準器)だということが僕の言いたいことです。

 

 ですが、「サークルクラッシュ」を社会問題と結びつけすぎるのも、ちょっとまじめすぎるかもしれません。「サークルクラッシュ」がゴシップとして語られてきたことを振り返れば、起きてしまった「サークルクラッシュ」を楽しく味わえることもまた重要だと考えています。

 現代の選択的関係は「排除型社会」、つまり「失敗を許さない」社会を助長しています。選ばれなかった人が再度「社会復帰」できる方が公正な社会であると僕は思います。どうしても「サークルクラッシュ」は起きてしまう、しょうがないんだという側面もあるわけです。むしろ起きてからのアフターケアが大事です。長い目で見れば失敗したことを笑って語り合えるような、そんな場があってこそ、過去の失敗を受容できる。そして、その後の人生のまだ見ぬ誰かと、より良い関係性を築いていける。そういうものなのではないでしょうか。

 

【文献】

ぼくらの非モテ研究会編 2020 『モテないけど生きてます――苦悩する男たちの当事者研究』青弓社。

Giddens, A. 1992 The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and Eroricism in Modern Societies, Cambridge: Polity Press.(松尾精文・松川昭子訳 1995 『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ,愛情,エロティシズム』而立書房)。

石田光規 2018 『孤立不安社会――つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖』勁草書房。

大野久 1995 「青年期の自己意識と生き方」落合良行・楠見孝編『講座生涯発達心理学4 自己への問い直し』金子書房:89‐123。

Sedgwick, E. K. 1985  Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire, New York: Columbia University Press.(上原早苗・亀澤美由紀共訳  2001 『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』名古屋大学出版会)。

宇野常寛・更科修一郎 2009 『批評のジェノサイズ――サブカルチャー最終審判』サイゾー。

鶉まどか 2015 『岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私――サークルクラッシャーの恋愛論』コアマガジン。

「運命」を感じていた頃の話(『秒速を語るな、自分を語れ』より)

この文章は、2019年に発行された同人誌『秒速を語るな、自分を語れ』に寄稿したものです。新海誠の『秒速5センチメートル』の内容が前提になっていますのでご了承ください。

 

 

僕が『秒速5センチメートル』を観たのは中学3年生から高校1年生に上がる春休みのときだった。僕のいたオタクグループでは新海誠というクリエイターのことがたびたび話題になり、その新海の新作ということで5人の男たちで映画館に行った。

観終わった第一印象として、とにかく映像の綺麗さと、第三話の主人公の転落ぶりが印象的だった。新海誠の作品を初期から追っているオタク友人は言う。

「『雲のむこう』まではまだギリギリ共感できたけど、この作品はさすがにドン引き。だって、小学生のときに好きだった子のことを大人まで引きずってるヤツってキモいやろ。ストーカーかよ」

マジレスだった。僕はハッとした気分になった。危うく作品の綺麗さに騙されるところだったな、と。

 

あれから12年。今の僕は27歳で、大学院生をやっている。大学生は勉強・バイト・サークル・恋愛の4つの内2つしか選択できないなどという俗説があるが、既に大学に9年間も在籍している僕は、もはやすべてを経験したのだと思う。しかし、恋愛だけは一筋縄ではいかなかった。恋愛を通して人生が捻じ曲がるような経験を何度もした。どれだけ勉強して、メタ的な視点を獲得しようとも、恋愛においてはシッチャカメッチャカだった。僕は、恋愛の魔力に憑りつかれたジャンキーだった。僕の捻じくれた恋愛経験を振り返って総括する上で、『秒速5センチメートル』は有効な補助線となる。

 

***

 

兄の影響で摂取していたオタク作品(漫画やエロゲなど)を通して漠然と恋愛に憧れを抱いていた僕は、女性を好きになるということに対して開かれていた。開かれすぎてガバガバだった。小学1年生のときから常に誰かしら好きな子がいたし、好きな子と仲良くなる妄想を日々していた。

しかし、あまりにも女性を意識してしまうのか、女性と話すのは苦手だった。話したくてもうまく話せなかった。緊張した。中学生になってオタク趣味が高じていくなかで、余計に女性とは何を話せばいいのか分からなくなっていった。唯一まともに女性と接点があったのはインターネットだった。インターネットを通じて何人かの女性を好きになったり、遠くに住んでいても会いに行ったりしたものだが、どうすればいいのか分からずに気持ちだけが先行して、そのまま関係は消滅していった。

 

大学1~3年生のとき、僕は悠木碧という声優を追っかけていた。最初はその演技に魅せられたのだが、時折見せるネガティヴさや自己否定に惹かれるものがあったのだと思う。僕は純粋な気持ちで「声優」を応援しているつもりだったが、後から振り返ってみればあれは疑似恋愛だった。そして、なぜ僕はネガティヴさに惹かれていたのか?

 

結局のところ、まともに女性と話せるようになっていったのは大学4年生になってからのことだった。僕はスカイプ掲示板というサービスを通じて、自分のようなオタクでも話せそうな趣味の合う子と一対一で喋っていたし、「サークルクラッシュ同好会」という恋愛トラブルを主題にしたサークルを作ったことによって、「メンヘラ」的な女性や「サブカル」的な女性と話す機会が圧倒的に増えた。僕は、そんな子たちを次々と好きになった。

当時の僕は女性に飢えていた、と言っていい。「話しかけてくれる人は好きになる」と言っても過言ではないような状態だった。そのことの自覚がないわけではなかったが、自覚していたところで好きになるものは好きになるんだからしょうがない、と開き直っていた。ただ、それにしても、僕はどうして「メンヘラ」的な女性や「サブカル」的な女性を好きになったのだろうか?

 

そうして僕は2013年以降、何人かの女性と付き合ったり、ある程度仲良くなったところで告白して振られたり、ということを幾度も繰り返してきた。今も僕の記憶の中には、様々な女性との関係の履歴が、屍のように横たわっている。

「そんなにたくさんの女性と……?」と怪訝に思われるかもしれないが、そもそも恋愛関係に移行しようとするとたちまちにして関係が壊れていくということが多かったのだ。なぜ僕はそんなにもすぐに愛想を尽かされるのか(仮に付き合っても1~3ヶ月でフられてばかりだった)。それはそれでまた大事な部分だが、ここで掘り下げたいのはむしろ僕の意識や心境の変化の方である。

僕はそれらの女性の内の何人かに対して、「この人こそ運命の人だ」、「この人以上に魅力的な人はもう現れないだろう」と本気で思ったものだ。付き合っていて振られたときには嗚咽を漏らしながら泣き、「僕はこれから何を指針に生きればいいんだ!」、「彼女にもう一度認めてもらえるまでは、恋愛しない!」などと自分に言い聞かせるようにモノローグ(独り言)した。

にもかかわらず、僕は何人もの女性に心移りしていった。寂しさを埋めるように「次の女性」を探していったのだ。

「運命」を確信したあの純粋な気持ちはどこにいってしまったのだろう。人間は忘れる生き物なのだろうか。失恋の傷を癒してくれるのはやはり「時間」なのだろうか?

 

***

 

『秒速5センチメートル』の貴樹にとっては違った。彼は小中学校の頃の思い出を引きずり、引きずったまま大人になった。やや踏み込んで解釈するならば、彼は子どもの頃の「神秘体験」の呪縛に囚われ、他の女性と本当の意味で親密になることを恐れてしまったのだ。

彼も心のどこかでは過去の呪縛から自分を救い出してほしい部分があったのだろう。高校時代の花苗からの好意を表面的には拒否しなかった。しかし花苗も、大人になってから3年間付き合ったリサも、彼の堅牢な心の鎖を解くことはできなかった。

「そして、ある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いがきれいに失われていることに僕は気づき、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた」

このモノローグから、希望を見出すことも可能である。「秒速」の漫画版では、会社を辞めた貴樹は宇宙関連の会社に就職する。思い出の踏切では小学生の明里が笑顔で大人になった貴樹を送り出すシーンが描かれ、貴樹は歩き出す。

しかし、普通に理解するならば、このモノローグはただただ絶望を表現している。映画視聴者は、僕が抱いたような「転落」の印象を受けることだろう。新たな生活を歩んでいる明里との対比で、一人だけ前に進めずにうじうじ過去を引きずっている男にしか見えない。「会社を辞めた」というのも、現代であれば「うつ」の描写ということになるだろう。

それではなぜ、貴樹はこんなにも明里のことを引きずってしまったのだろうか?

 

***

 

フロイト曰く、幼児期の母への欲望は父が介入することで断念され、抑圧される。しかし、抑圧されたものは回帰する。光源氏が桐壺更衣の面影を追い求めたのが象徴的なように、抑圧された欲望はどこかで反復されているのである。

僕自身、「次の女性」を追い求めて、そのたびに複数の女性たちに何度も「運命」を感じてしまったという点で貴樹と違う立場ではある。しかし、そこで僕が何を「運命」だと感じたのか、その要素を取り出してみれば、根本的には貴樹と同じものを追い求めて反復していたのだと思う。

 

内面の共有、あるいは傷の舐め合い

恋愛に限らず、人間関係において趣味嗜好が似ていることは距離が近づくキッカケになるだろう。現に僕はオタク的な趣味を深めていったせいで、女性と何を話せばいいか分からなくなったということを述べた。しかし、インターネット上には僕と同様のオタク的な趣味を持っている人がいた。漫画やアニメの話で盛り上がれる、そのことによって距離が近づいたのはごく普通のことであった。

しかし、それ以上に恋愛という文脈が絡んでくると、深い内面的な傷つきを共有することが重要になってくることが多い。「秒速」において、貴樹と明里はお互いに転校してきた関係で、お互いに体が弱く、お互いに図書館の本を読んだ。そして、クラスの人間からは冷やかされた。虐げられた者同士がお互いに惹かれ合うのは必然だった。

一方、僕はと言うと、あるときから「メンヘラ(と呼ばれるような女性)が好き」だと自覚し、公言するようになった。僕自身が精神的に不安定かというと必ずしもそうではないが、「普通」からズレて生きてきたという自覚はある。少なくとも小学生のときは情緒不安定で、暴力事件を引き起こしたこともあった。中学以降も、電車男が流行っていた当時のスクールカースト状況において、「オタク」としてのアイデンティティを持っていた。そのくせ、現実の恋愛やコミュニケーションに対してコンプレックスを抱き、「リア充」から虐げられた存在だという気持ちを本気で抱いていた。

そんな僕は「メンヘラ」という存在に自らの幻想を投影してしまった。僕たちは世界から虐げられてきた者同士、分かり合えるはずだ、と。「サークルクラッシュ」の研究を進める中で、「クラッシャー」の当事者がしばしば「メンヘラ」性を持っていることを知るようになった僕は、「メンヘラ」に対する「聞き上手」というコミュニケーションスタイルを自然と身につけていった。

そして、「メンヘラ」との関係が恋愛という形を取ったとき、僕の中にある心の穴が埋まるのを感じた。「ホリィさんって聞くの上手いですね」、「ホリィさんはすごく喋りやすいです」と、女性から承認を受けたのである。恋愛にコンプレックスを抱いていた僕は、初めて女性に承認された気がした。

貴樹が明里を「守る」という立場を取ったように、僕もメンヘラを「守る」ためのスタイルを構築していった。「メンヘラ」相手ならば、僕でも会話が成立するし、相手にとって大切な役割を果たすことができる。女性全体のなかで唯一僕がアクセスできる存在として「メンヘラ」が立ち上がってきたのだ。

そして、現実にコミュニケーションを取り、関係を深める中で「庇護欲」という形で僕の心の穴が埋まっていくのを感じた。運良く付き合う関係になり、セックスをする中でも、それぞれの女性が持つ個性的なエロティシズムに僕は魅せられ、「自分が性的に受け入れられる」ということに喜びを覚えた。「聞き上手」的コミュニケーションによって関係がうまくいくということを、積極的に恋愛の文脈に読み替えてしまったのだ(勝手に勘違いして恋愛的な片思いをしてしまうこともあった)。そこには自分の「男性」としての自己不全感があったのだと思う。

しかし、そのような醜い欲望を女性との関係に投影してしまうと、当然ズレが出てくるものである。貴樹は「手紙から想像する明里は、なぜかいつも独りだった」とモノローグしていた。これは結局のところ、孤独を感じている貴樹自身の自己投影でしかない側面もあるだろう。ひょっとすると中学時代から既に、貴樹と明里との間の「孤独」観、そのすれ違いは始まっていたのだと思われる。

相手のために作り上げたコミュニケーションスタイルだったはずが、いつの間にか僕は自分本位になっていた。醜い性的欲望を彼女たちに押しつけた。結局のところ女性たちを傷つけてきたのだと思う。あるいはそのような欲望のキモチワルさに呆れられたのだろう。関係はすぐに切れていった。

 

神秘体験とストーカー

貴樹と明里はすれ違っていた。そうなのだとしたら、なぜ貴樹は明里のことを諦めずに、ずっと引きずってしまったのだろうか。

中学1年生の貴樹が明里に会うために栃木に行き、そこで大雪に見舞われたにもかかわらず明里に会えてしまった。このことの偶然性=運命性が、根本的な不幸の始まりだったのではないか、と僕は思う。

僕自身、女性に対して運命的なものを感じるとき、多かれ少なかれ「神秘体験」と呼んでもいいような体験をしていた。数時間にわたるディープなスカイプ通話で相手の生育環境を聞いたこと、僕の「言語化」へのこだわりが情念のような非言語的な部分までを分節しようとしていることを見出してくれたこと、自転車で帰ろうとしていた僕を引き留めて荷台のところに飛び乗ってきてくれたこと。そして彼女は言う。「あなたと話しているときが一番楽しい」と。

貴樹も栃木で明里と会えてしまったのである。それだけに飽き足らず、作ってきてくれた弁当を食べ、桜の木の下でキスをした。帰れなくなった2人は小さな納屋の中で身体を寄せ合いながら一晩を過ごした。「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした」。「あのキスの前と後では、世界が変わってしまった」。

ここには「呪い」の作用がある。付き合っていた彼女たちと別れるとき、あるいは好きだと告白した女性に振られるとき、いつも感じることがあった。「あんなに好きだと言ってくれたのに、どうして」。そして、僕ははっきりとは振ってくれない女性たちに業を煮やして、ストーカー的な行為をはたらいてしまった。今では反省しているが、僕がストーカーになってしまったのは「あなたと話しているときが一番楽しい」という言葉を、あたかも永遠の契約のように勘違いしてしまうからだった。「あのときああ言っていたじゃないか」と僕は詰め寄った、僕たちは相性抜群で、運命的な体験を共有した仲だったはずだった、と。でもそんな風に感じているのは僕だけだったのだ。貴樹もまた明里との体験を反芻していたが、大人になった明里は手紙を見つけるまですっかり貴樹のことを忘れていたのである。

 

「今ここ」の向こう側、東京という街

僕が彼女たちに投影していた幻想はもう一つある。それは、美的・文化的なセンス、言ってしまえば「東京」への憧れである。僕が好きになる人は「マシンガントークで、絵を描いている人」が多かった。マシンガントークの方は、僕が「聞き上手」というポジションを得られるがゆえに価値があった。そして、「絵を描いている人」は僕から見れば「遠くにいる」人で、自分が持っていないものを持っている人だったと言える。

僕は大学に入ってから、自分の文化的な教養のなさを思い知った。毎クール放映されているアニメを観て育った僕には、映画を観る習慣や小説を読む習慣がなかった。美術館に行ったこともなかったし、音楽もアニソンぐらいしか聞かなかった。もちろん、もっとディープなサブカル的教養などあるはずもなかった。「オタク」と対比されるところの「サブカル」に対して、僕は「憧れ」と「劣等感」を持ってしまった。

結果的に、東京に住んでいる(あるいは住んでいた)女性を好きになることが多かった。少なくとも、文化的な教養のある人を好きになることが多かった。「僕の持っていないものを持っている」がゆえに好きだった。そういう人と付き合えば、僕もその趣味に染まって、別の世界に行くことができるんじゃないか、そんな期待を抱いてしまった。

文化の象徴としての「東京」への憧れは、新海誠作品に出てくるモチーフだ。種子島在住の花苗が東京からやってきた貴樹に惚れてしまったように、『君の名は。』の三葉が東京のイケメン男子に憧れたように、僕は(性別は逆であるが)彼女たちに憧れた。雑然としていて息苦しいはずの東京を、新海は非常に綺麗なものとして描く。長野出身の新海にとって、距離を隔てた東京という街は「向こう側」にあるものだったのだろう。新海の作品は、地球と宇宙、本州とエゾ、地方と東京、この世界とあの世界、年齢、時間などといった様々な断絶の「向こう側」にあるユートピアを常に夢想している。そしてその「向こう側」に恋愛が重ね合わされてしまう。渡せなかった手紙、送れなかったメール、言えなかった「好き」という言葉、「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」。「秒速」では「手が届かない」ということのフェティシズムが追求されていた。それに対して、僕は手を伸ばしてしまったのだ。

僕は、彼女との間にある断絶を、目の前にいるにもかかわらず埋められない無限の距離を、感じざるを得なかった。彼女に追いつこうと、音楽を聴いたり、映画を観たりするのにはどうしても苦痛を伴った。そもそも僕にはそういう習慣がなかったから。重い腰を上げて彼女が絶賛する映画を観てみても、僕はつまらないと感じた。僕がもっと映画を観ていれば、その良さが分かったのだろうか。あるいはもっと積むべき人生経験があるのだろうか。

美少女ばかりが出てくる漫画が本棚にあることのセンスを彼女に貶され、自分のこれまでの(オタクとしての)人生を否定された気分になった。その一方で、僕は典型的なオタクがハマるような美少女系作品にハマれるわけでもない。彼女に対する劣等感が強まり、それでも彼女のことは好きだったから、僕は変わらなければならないと思った。「今ここ」にいる僕には価値がないんだ、と本気で思った。

これは文化以前の問題だった。僕は美醜の感覚や嫌悪感が麻痺してしまっている。身体性が欠如しているのだ。姿勢も、生活も、衣食住も、部屋の片付けさえもままならない。興味が湧かない。僕はたびたび彼女との感覚のズレに苦しんだ。

彼女が景色を見ているとき、僕が見ているものは文字だった。

僕はこの鈍感さを補うかのように、「言葉」によって感覚を分節する能力を身につけた。

カオスを切り取る言葉。言葉が構成する意味の世界。

僕=貴樹=新海誠は、その過剰なまでの言葉に乗って、どこまでいくのだろう。どこまでいけるのだろう。

現代インターネットにおける〈マイノリティ〉の在り処――売野機子『インターネット・ラヴ!』評

 売野機子『インターネット・ラヴ!』評です。別の場所にこっそり載っている文章ですが、よく書けたと思うので、ちょっと修正してブログにも載せておきます。

 

 

1.『インターネット・ラヴ!』の設定の背景にあるもの――忘却できない傷つき・痛み

 売野がこの作品において、インスタや韓国、ネイリストのような「オシャレ」なもの、あるいは「社会に包摂されたセクシャルマイノリティ」のようなものをベタに肯定して描いているわけではない点にまず注意を促したい。

 

 では、それらの現代的なモチーフにどのような機能を持たせているのか?

 

 この問いについては、インターネットとマイノリティとの間の関係から考える必要がある。解説しよう。

 

 かつてインターネットはマイノリティにとっての希望だった。人生の敗者復活戦の場だった。

 今・ここのしがらみから逃走し、「本当の私」を承認してもらえる……少なくともそのような希望を抱くことのできる、解放の場であった。

 

 しかし、SNSが普及することで、多くの人間が日常生活の延長線上で自らの情報を電子上にアップロードするようになった。

 「ないことにされている」存在にとっての承認の場であったインターネットのありようは反転する。人々は自らの存在証明をし続けることを強いられるようになる。逆にSNSにアップロードされないものは「ないことにされている」のが現代である。

 

 そうして、マイノリティの居場所は再び失われる。リベラルデモクラシーが活気づく現代において、一見セクシャルマイノリティは存在を承認されているように見えるが、それはマイノリティを「ノーマル」なものとする権力の下で、である。

 

 『インターネット・ラヴ!』はそのような時代状況における物語である。

 天馬は表面的には自らのクィア性を周囲からも、ましてや両親からも承認されている。軽快にインスタグラムを使いこなす「リア充ネイリスト」として生きている。

 

 現代の水準へと「アップデート」された人間においても、やはり恋の悩みは付きまとう。ただし、その恋のカタチは当初「推し」という、これまた慎重に傷つき・痛みを排除した現代的なものとして立ち現れている。

 

 しかし、傷つき・痛みを排除することはできない。天馬は失恋の傷つきを通じて自らのセクシュアリティに対して真剣にならざるを得なくなる。彼女とも別れ、彼女からは「拳で決着」をつけられることになる(身体が傷つくものであるということの端的な表現である)。天馬は〝軽快な〟クィアネス(あるいはバイセクシュアリティ)を降りて、「モテないゲイ」としての実存を生きることになる。


 自らの身体性をキャンセルできないということ。これ自体もSNS以前のインターネットにおけるつまずきの石となっていた、きわめてマイノリティ的な問題系である。

 ちなみに売野機子は『ルポルタージュ』においても、恋愛が絶対視されなくなった未来社会において、それでも自らの身体性は残るのだという主題を扱っていたわけだが、多かれ少なかれ「失われていくものへのノスタルジー」を通して耽美な世界観を作り上げている。今作におけるノスタルジーの対象は、SNS以前の「マイノリティによるインターネット」ということになるだろうか。


 ウノくんに出会った天馬は、その肉々しい身体性に圧倒され、その匂いを嗅ぎ、射精する。これにはクスリとさせられると同時に、正しくマイノリティとしての身体性を表現している(むろん、翻訳アプリを使わない、手書きの文字や絵でなされるコミュニケーションもまた、SNS以前の身体性を巧みに表現していると言えよう)。

 

 ここまでをまとめるならば、売野は「傷つく身体性」を排除しない描き方をしていると読むべきである。すなわち、「推し」や「認知」などといった安全圏においては忘れ去られているものを描き出そうとしているのである。

 


2.「否定性=物語」なき世界での〈抵抗〉のかたち

 「SNS以前のインターネット」というノスタルジーを描いているからと言って、この作品は決して懐古趣味ではない。むしろ、この作品は「漂白」され、フラット化した現代社会の〝内側〟において、それでも決して何かに回収されることなく、抵抗的に生きる人間を描いている。それは、一見「抵抗」には見えないようなあり方である。

 

 より具体的に言おう。
 インターネットがマイノリティにとっての楽園だった理由の一つは、インターネットが2ちゃんねるに代表されるようなシニカルなカルチャーを持っていたからである。

 すなわち、社会で常識とされている規範を相対化する「冷笑」や「否定性」の中で、社会の主流に対するオルタナティブとなるようなカウンターナラティブが形成されてきた。

 現代のSNSにおいてその代表的な場はTwitter(現X)である。結果としてTwitterは、広い意味でのマイノリティが社会に対して文句を言いつつも存在を承認される、サブカルチャーの格好の場となってきた(2016年頃からは人口が増えすぎてだいぶ「治安が悪く」なっている側面もあるが)。


 Twitterと比べるとインスタグラムは社会に対して迎合的である。ここまで再三述べてきたように、傷つきを避け、否定性を排除したようなフラットで漂白された場という傾向が強いだろう。

 この観点から見ると、『インターネット・ラヴ!』の世界は「インスタグラム」的な世界である。キャラクターたちの関係に否定や批判は生じず、共感と配慮に満ちている。この「やさしい世界」においては、マイノリティたちが持つ後ろ暗い欲望を追求していこうというサブカルチャーは生じてこない。否定はされないものの「人それぞれだよね」とゆるやかに遠ざけられることになるであろう。


 一方、Twitterではたびたび批判が噴出しつつも「出会い厨」「メンヘラ」「サークルクラッシャー」「オタサーの姫」「オフパコ」「ナンパ」などといった、王道ではない「邪道」のインターネット恋愛文化が醸成されてきた。

 オタク系やサブカル系の作品において描かれる恋愛はこれらの文化と呼応してきた側面が強いように思われる。「セカイ系」と呼ばれる作品群において描かれる自己憐憫的な恋愛描写や、サブカル系作品の逸脱的な性愛の描写は、「社会に適応できないダメ人間」を慰撫しつつ恋愛へと駆り立てている側面があるだろう。要するに「陰キャによる恋愛」の物語を提供してきたと言える。


 しかし『インターネット・ラヴ!』はそれらの路線にはのらない。セカイ系的な自己陶酔モノローグが描かれるわけでも、周囲の関係や親子関係での不和が描かれるわけでもない。実際、天馬がゲイであることを親が受容していることは、これみよがしに描かれている。それゆえに親や誰かを「敵」として設定することもできず、「敵を乗り越える」という分かりやすい主体性獲得の物語が描けないような構造になっているのである。 

 すなわち、「否定性」がない世界だ。その内側におけるある種の〈抵抗〉のかたちが丁寧に描写されている。

 たとえば「やさしい配慮」で天馬を受容してくれる親の言いつけ;「人生は短い」を天馬は否定することができず、天馬はウノくんに対して「ダメ元」で告白することを決意するというかたちで話が進んでいくのは、マイノリティの物語としては特異であろう。しかし、微妙にズレている親に対してキッパリとした抵抗ができない点にこそリアリティがある。


 小括しよう。たしかに「否定性」を媒介とした分かりやすい物語としての「インターネット・ラブ」であれば安易に批判/共感もできるだろう。

 しかし、売野は現代の否定性なき世界における〈インターネット・ラブ〉に真剣に向き合っているのである。タイトルは『インターネット・ラヴ!』であるが、ここを読み違えてはならない。

 


3.『インターネット・ラヴ!』の結末について

 この作品の結末に疑義を呈する声もあるようだが、私見ではむしろ、この作品の結末は非常に練られたものになっている。最後に結末で何が描かれていたのかについて、解説しよう。

 

 クライマックスに至るプロセスで、作中の主題は単に「マイノリティ」の問題ではなくなることがポイントである。

 天馬が恋する相手であるウノくんは韓国人というだけで、分かりやすく定義されたマイノリティ性を持っているわけではない(ただし、日本人と韓国人という設定が、疑似的にSNS時代以前の「距離」を再現しており、「会う」ことの特別さを演出しているということは指摘しておこう)。

 現代的な基準においてウノくんは「SNS依存」だと彼女に診断されてしまうわけだが、彼はメディア上に自己をアップロードすること、目の前にはいない「誰か」にまなざされることを純粋に楽しんでいる。それは作中で描かれているように、神からのまなざしの等価物である。

 

 インターネットに〈神〉からの救いを求めたが、まなざし返されなかったことに絶望したのはそう、秋葉原連続通り魔事件のKだった。

 Kは現代における「インセル」「弱者男性」現象の走りとして解釈することも可能だが――まさに売野は『ルポルタージュ』で「インセル」を描写している――ウノくんには天馬がいたからこそ、天馬がずっとまなざしてくれていたからこそ、闇堕ちせずに済んでいるのである。過剰なまでにアップロードされ続ける「存在の叫び声」の中に、「寂しがり屋」なところを見出したのが天馬だったのだ。

 

 ウノくんの方は天馬に対し1か月間自分のことをアップロードするように言う。そして天馬は「おれはおれの知らないおれを知る」。メディア上に自己をアップロードすることを通じて、「マイノリティとして」ですらない自己に出会い直すのだ。

 重要なのは、これがちょうど天馬がウノくんのインスタ投稿からウノくんが「寂しがり屋」であると見出したことを、自分自身に対して適用する構図になっていることだ。天馬はそうして自分の感情を省察し、自らのゲイネスさえも相対化していく。

 そしてその天馬の投稿もまたウノくんは見ている。お互いがお互いを発見していくプロセス。ウノくんはひょっとするとここで自身のゲイネスに気づいたのかもしれない。

 そして何よりウノくんは、天馬がインスタ投稿を続ける(=まなざされる)ことを通じて、天馬がそれまでのただまなざすだけの存在ではない、ということに気づいたのだろう。まなざし合う双方向性が生まれることで、二人は結ばれるのである。


 そこにはもはや他者からの承認は必要ない。作中を通して、軽快なクィア→モテないゲイ→マイノリティとしてではない自分自身という、3段階のビルドゥングのプロセスが描かれたのである。

谷口一平「「マイナス内包」としての性自認の構成」&査読コメント を検証する

 

独立研究者・谷口一平氏の日本大学哲学会『精神科学』への投稿論文がリジェクトされた。

そこで谷口氏は査読過程、及び匿名査読者2名の査読コメントに疑義を投げかける連投ツイートを昨年末にしていた。

谷口氏のツイートを見る限り、この疑義にはもっともな部分もありそうだが、谷口氏の論文本体が公開されているわけではないので、判断しかねる部分もある。

とりあえず、Twitter上の言説レベルで分かるのは、このツイートを火種として、トランスジェンダーの問題にまつわる党派的な争いが(いつものように)起きているということである。

 

トランスジェンダーにまつわる問題は、非常に複雑な側面があるように思うし、一個人としてどういう働きかけをすれば不幸の最小化に寄与できるのかもあまりよく分かっていない(ので、この問題について、僕は沈黙していることが多い)。

ただ、今回の騒動については自分の出る幕があるように思った。

 

というのは、

①谷口氏自身に論文を請求し、読んだうえで査読コメントの妥当性を検討している人がなぜかほとんどいない(まあそんなもんなのか……)

②自分は「ジェンダー論」が一つの専門であり、永井均の議論にも触れたことがないわけではないので、論文の内容/査読コメントの意図が少しは理解できそう(あと、個人的に読んでみたいテーマでもあるので、モチベーションは高い)

③(これは後から分かったことだが、)この論文には精神医学にまつわる科学哲学の議論も関わっている。僕はその議論にも比較的詳しいほうなので、その点もコメントできる

というところからである。

 

よって、ある程度多元的な視点からのコメントができそうなので、それを(主にTwitter上の)言説空間に放り込んでおくことで、この問題がごくわずかであっても良い方向に進むよう寄与できるかもしれないと思った(まあ、言説の行く末なんて予測不能なものだが)。

もちろん僕には僕で立場上の偏りがあり、それは避けられないし、いくら中立的な立場でコメントしようとしても、どうしても「党派的」なものとして回収されてしまうだろう。

自説に都合の良い部分だけを取りあげて溜飲を下げたい人はどうぞ溜飲を下げてくれ。人は意見・政治的構えに偏りがあって当然だと思う。そうして溜飲が下がっちゃうのは当然のことである。

ただし、溜飲が下がった後に「自説に都合の悪い」部分も含めて検討するべきだ、と僕は考えている。それが理性というものだろう。

だから僕は自分の目で谷口氏の論文を読んだうえで、査読コメントが妥当なのか妥当でないのかも含めて、自分の目で確かめてみたい。

個人的に論文データを送ってくれた谷口氏にまずは感謝したい。

 

 

査読①のコメントについて

まずは、査読コメントを検討する。

査読コメントには妥当でないと思われる部分と、妥当だと思われる部分の両方があるように思われるので、具体的に指摘していきたい。

しっかり文章として構成するのが面倒なので、ここからは基本、階層化された箇条書きで僕の考えを述べていく。なお、査読コメントの内容を太字で示す。

 

 

 

  • 2段落目:
  • 「性自認」は「性同一性」と同じ意味の言葉であり、性自認は社会のうちで生きていくなかで、さまざまなジェンダー規範に対する反応を通じて形成されていくものだという理解が一般的だと考えられる
    • 谷口氏も言うようにこの話は根拠が曖昧
    • まあ、たとえば社会で「男性」だとみなされる人が、そうみなされるがゆえに自分を「男性」だと自認していく、みたいなそういうプロセスを指して言っているのだろうなと思う
      • なお、「「性自認」を「性同一性」と同じ意味だと考えるのが一般的ではないか」という視点については後で谷口論文の中身を検討するときに触れる
  • こうして形成された性自認はさまざまな振る舞いに現われるため、私秘的なものであるとも思えない
    • 「さまざまな振る舞いに現われる性自認」と「私秘的な性自認」の両方があり、谷口論文は後者を扱っているという理解でよいと思う
      • では、「さまざまな振る舞いに現われる性自認」を論文上ではどう処理するべきなのか、これについても後で触れる

 

  • 3段落目:
  • 残る問題は「外的な基準を一切持たない自己についての認識はいかにして可能か」というごく一般的な問題のみ
    • 谷口論文はとりわけ「性自認」について問うているし、その理路も含めてオリジナリティはあると思う。なので、この言い方には疑問がある

 

  • 4段落目:
  • シスジェンダーの性自認については自明視し、トランスジェンダーの性自認のみを特別な説明や根拠が必要なこととみなすことを前提としている
    • 谷口論文はそんなことしていないだろう
  • 身体が性自認の究極的な根拠だ
    • 谷口論文はそんなこと言っていない(はず)

 

  • 5段落目は省略

 

  • 査読①の感想:
  • 言っていないことが言っていることになっているという点ではよろしくない査読
  • まあでも〝ふつうの査読〟として最低限は機能しているとは思う
    • というのも、2段落目で言われていた「性自認は社会のうちで生きていくなかで、さまざまなジェンダー規範に対する反応を通じて形成されていくものだという理解」や「(性自認は)私秘的なものであるとも思われない」、といった割とよくある議論を「先行研究」として位置づけたり、この論文上で議論する必要のないものとして扱うための処理をしたり、といった工夫がないので
    • これはたしかに問題で、〝ふつうの査読〟であれば、リジェクトされるには十分な理由だとは思う

 

査読②のコメントについて

 

同じく査読コメントは太字で示す。

  • 査読②の1,2段落目:
  • 谷口論文は身体基準とは無関係のところでなされる性自認を有意味なものとして解釈する理路を提示している
    • これはそう

 

  • 3段落目:
  • 自己論としての新奇性や妥当性があるのか?
    • この査読者は「自己論とジェンダー論」という「二つの主題」を分離したものとして捉えているっぽい
      • とはいえ、二つの主題が総合されたものとして見ることもふつうに可能だとは思うし、僕はそう見ている
      • 余談だが、(谷口氏的には不満だろうが、)この査読者の言ってることを押し進めるならば、「性自認」の議論はなしにして、4~6節の「自己論」的な側面だけを取り出し、余った文字数を「自己論」的な先行研究の整理と当該論文の位置づけに使えば、それはそれで論文が書けるだろうなとは思った

 

  • 4,5段落目:
  • 谷口論文によれば、自己の性性は「第〇次内包」とはなりえない
    • ここは谷口論文第三節の主張の根幹だなあ
  • この指摘はそのままトランスの人々やジェンダー論の論者への批判に繋がっている
  • 「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り、当事者の意識やジェンダー学の教説の中で、われわれがこれから探究するような「性自認」の観念へむしろ接近してくる」(谷口論文3ページ)
  • 本論文がジェンダー論への学術的な貢献をなしうるためには、上記の論述に関する典拠が必要
  • 言い換えるなら、トランスの人々やジェンダー論の論者が現実に「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」と主張しているという証拠が必要 
    • 谷口論文の主題を「自己論/ジェンダー論」と分けて考えるという査読者②の見方に従うのであれば、自己論またはジェンダー論への学術的な貢献が必要、ということをこの査読者は言いたいのだろうなとまず思った。だからこそ「ジェンダー論への学術的な貢献」の話をしているのだろう
    • 査読②の言うとおりここの「典拠」、「証拠」が必要になってくるとは僕も思うのだが、それは査読②とは違う意味で必要だと思う(詳しくは谷口論文の中身の検討のところで述べる)
      • ちなみに、ここでの「言い換え」について谷口氏は「そんなこと私もひと言も言ってない」とツイートしていた。どうだろうか。
        該当部分を引用すると、「さて 20 世紀後半からのトランス権利運動の流れの中でトランスジェンダーの脱病理化・脱医療化が進められ、「性同一性」という概念の置かれる文脈も変容する。identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り、当事者の意識やジェンダー学の教説の中で、われわれがこれから探究するような「性自認」の観念へむしろ接近してくる。重要なのは、それが自己確証に基く「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになってきたということである。」(谷口論文3ページ)
      • これはすなわち、「性同一性という概念は、自分のことを女/男と思うこと(谷口の定義による「性自認」)に近づいている」ということを意味しているように思われる。そして、当事者やジェンダー論者たちの言説がそのように組織されているということなのだろう。
      • よって、基本的には査読者②が言っているとおり(トランスの人々やジェンダー論の論者が現実に「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」と主張している)に僕には読めるが……
        • なお、査読者②が危惧しているのはおそらく、「自分が女/男だと思えば、その人は女/男である」という主張が簡単に成立しすぎてしまうと、トランスヘイト言説における〝陰謀論〟の資源になってしまうからである。「あいつらは好き勝手に自分の性別を名乗っている!」という風に。
    • なんにせよ、やはり先行研究からの流れにおいて谷口論文がどう位置づけられるのかが書かれていないと、〝ふつうの査読〟においては落ちそう
      • なお、ここで言われている「ジェンダー論」は割と広義に捉えられるし、哲学的問題も含まれるであろう。だから、別に「哲学」とは厳密に区別しなくてもいいと個人的には思う。谷口氏はここで書かれている「ジェンダー論」という言葉を「哲学」とは区別されたものとして捉えすぎなところがあるように思う
      • まあただ、谷口氏の怒りのポイントはまさに、「哲学」色の強い第3~6節がほとんど検討されなかったことにあるのだろう
  • このとき注意すべきなのは、筆者自身がこうした言明〔「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」〕を独自の形而上学的世界図式にもとづいて「私の身体は男であるが、私はもともと女であった」 という言明へと再解釈しているように、たとえ現実に「自分で女と思えば、その人は女なのだ」という発言が認められたとしても、それをただちに筆者の定義する「性自認」概念と同一視する必然性はないということです。それはあくまで省略的な物言いであり、別様に解釈することがつねに可能
    • ここはちょっと意味が取りにくい……
    • たぶん、当事者の性自認を、谷口論文の4~6節の理路によって再解釈する必然性はない、という主張かと思われる
    • 結局のところ、当事者の性自認概念がどのように未整備なのかをもうちょっと説明してよ、ということなのだと受け取った

 

  • 6段落目:
  • トランスの人々がみずからを女性/男性として自認するとき、それは真空状態で生起するわけではなく(…)セックスから派生するジェンダーを割り振られることへの違和感を契機としている場合が多いように思われる
    • この点は査読①でも指摘されていたこと
    • そこでも書いたが、谷口論文は、この種の”社会的な”性自認の形成についての理解を乗り越えるような構成では書かれていない
    • つまり、先行研究としてこういった”社会的な”性自認形成についての主張を紹介した上で、それの不十分な点を指摘するかたちで書かないと、〝ふつうの査読〟ならばリジェクトされてもしょうがないとは思う
  • そうしたこと〔社会におけるジェンダー割り振り経験に基づいた性自認の獲得、という理路〕を捨象して、トランスの人々やジェンダー論の論者たちの「性自認」概念は概念的に未整備であり、筆者自身が哲学的にそれを整備するというスタンスで論文を書くというのは、学術的意義の捏造に近いものがある。それどころか、トランスの人々を非哲学的な存在として指定している点で、本論文は不要な攻撃性を孕んでいるとさえ言える
    • 繰り返しになるが、"社会的な"性自認の形成、という理路を捨象せずにちゃんと先行研究として扱ってよ、ということだろう
    • 「不要な攻撃性」については後で検討

 

  • 査読②の感想:
  • 査読①ほどの根本的な誤読はないと思う
  • ただまあ、言っていることの中心は査読①とはあまり変わらないという印象

 

査読①②総合しての感想

  • 谷口論文はほんとうにトランスジェンダーの人々に対して中立的ではなかったり、不要に攻撃的であったりするのか?
    • 査読①のコメントは単に誤読に基づいているので論外(たとえば「身体が性自認の究極的な根拠だ」などと谷口氏は主張していない)
    • 査読②のコメントでは「トランスの人々を非哲学的な存在と措定する」という点を問題視しているが、それほどかな? まあ、「先行研究への位置づけをしなさい」というコメントだと考えればそれに限っては妥当だとは思うが
    • 僕としては査読①②の言っていることよりもむしろ、「性同一性」と「性自認」との間の概念的区別の箇所の方がよっぽど問題があると思う(後に批判的に検討する)
  • 谷口氏は「哲学」の論文を「ジェンダー論」の人間に査読されたことを問題視しているが……
    • とはいえ、査読①②に共通している「社会的な性自認の形成」について谷口論文は考えるべきだ、という指摘は哲学論文へのコメントとしても妥当ではないだろうか
      • 分からないけど、2人の内1人ぐらいは哲学の人かもしれん
    • 先取りして言うならば、谷口論文がふつうの査読論文としての水準を満たすためには、たとえば「第一次内包(日常文脈的内包)としての性自認」についての先行研究を乗り越えていくことが必要だと思う(この言い方が正確なのかはビミョーなのでそれも後で触れる)
  • 『精神科学』は日本大学における紀要的な位置づけの雑誌なので、リジェクトを聞いたことがないにもかかわらずリジェクトされたという話について
    • 紀要的な位置づけなんだとすると、たしかに政治的なリジェクトっぽい
    • ただまあ、上で述べてきたように、〝ふつうの査読雑誌〟であれば修正なりリジェクトなりになってしまうぐらいの瑕疵はあるのではとは思う
    • 問題は〝ふつうの査読雑誌〟レベルの厳しさをなぜ『精神科学』は課したのだろうかということ
      • 編集方針が気になるところ
    • 一つ考えられることとして、査読者の選定については実務的にはタイトルとか「はじめに」とかで選定されることになりそう。なので、さすがにキルケゴールの専門家は査読者に選ばれないのでは……
    • 「マイナス内包」という入不二の用語もあまり知られていない気がするので(永井均のいる大学なので、むしろ「マイナス内包」のことを知ってる人も多いかもしれないが)、そうなると「性自認」という用語に基づいて、現実的にはジェンダー論の学者が査読するのもやむを得ないかもしれない
    • 『精神科学』に投稿された論文のタイトルをザッとCiNiiで見てみたが、基本的には哲学、倫理学、美学あたりの論文が多い感じ。なので、基本的には哲学の人が査読をすると考えても良さそうだが、「性自認」がキーワードになったことで今回はジェンダー論者を査読者に据えたってことなんだろうか
    • その結果、ジェンダー論的観点から見て厳しい基準での査読が行われた?
      • 余談だが、僕は「ジェンダー論」が一つの専門であるので、「ジェンダー論」の論文を某社会学雑誌に出したことがある。すると、タイトルとキーワードにジェンダー要素が薄かったせいか、「ぜんぜんジェンダー論を分かってないだろ」という人たちに査読をされ、リジェクトされ、嫌な思いをしたことがある
      • ところで、学会発表や学会誌を軽視する社会学者への警鐘を慣らしている太郎丸氏のブログは有名だが、

        阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望 | Theoretical Sociology

      • その太郎丸氏が「査読結果への不満」の話をかなり具体的に書いている論文がある 

        投稿論文の査読をめぐる不満とコンセンサスの不在

      • 最終的には太郎丸氏は査読制度をよりよいものにしていく方策を考えるべきだという話をしている
      • 査読制度は公正であるべきだろう。だが、どうしても限界はあるというか、ある種の偏りを伴うものであるし、投稿者視点では「査読を通すためのゲーム」になってしまう側面もある。とはいえさすがに「ないよりはマシ」だろう。アカデミアの専門性を担保するための代替案が思いつかない以上、現行の査読制度をより「マシ」なものにしていくしかないのではないだろうか
      • 以上余談

 

 

谷口論文「「マイナス内包」としての性自認の構成」の中身の検討

では、さきほどの査読コメントも踏まえた上で、論文の中身を検討する。やはり本文の内容を太字で書く。

  • 谷口論文の1節:
  • 谷口の「性自認」の定義は「自分のことを女性(男性)だと思っている」ということ
  • 論文が書かれたキッカケは、永井均の発言
    • この節は特に問題を感じないが、永井の発言は谷口論文の3~6節を理解するうえで、助けになったので一応部分的に書いておく↓
    • 永井:たとえ第〇次内包の側からの逆襲が起こりえなくとも、マイナス内包からの逆襲(?)は起こりうる(いつもすでに起こっていうる)のではないか。なぜならジェンダーは実は社会的構築物ではないから(という筋)。ジェンダーをマイナス内包として(すなわち第一次および第〇次内包化不可能なものとして)捉えるという発想は現代思想っぽくて、かつ精神分析を超えている

 

  • 2節:
  • 「性同一性」と訳される意味でのgender identityは外形的に判断されうるし、操作的定義を試みることも可能。精神医学的実在論を取るならば、科学的探究の結果として脳内にその本質が発見されることもありうる。ゆえに、それを「性自認」と訳すのは誤訳である。(谷口的には)性自認は性同一性の一部である
  • そうでなきゃ、self-identified gender identity: SIGIという言葉が訳せなくなる、ということも脚注7で主張されている
  • 従来「性同一性」という概念であったものが「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り」(3ページ)、谷口の言う「性自認」概念に接近していく。そして「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになった
  • 脚注9:脱病理化運動は医学との対抗で形成されたがゆえに、性自認は、一人称の権利、他からのアクセス経路が原理的にありえない、反証可能性のない仕方で、主張されている
  •  
  • この2節の議論には大きく以下2点の問題があるように思う
    • ①「性同一性」概念の取り扱いの問題
    • ②性自認が社会的経験の累積の結果として構成できるのではないか、という議論がすっ飛ばされている
    • 以下で順に書いていく
  •  
  • ①:脚注9で指示されている動画https://youtu.be/b5vnpTwt0cs?si=Qm9PXP2sp8Pn3RXvも含めて、「性同一性」は医学的な概念であることから、「性同一性」は科学的探究の対象であり、科学的探究の末にその本質が発見されうるような概念であると規定されている
  • しかしそもそも、精神医学的カテゴリーが(たとえば脳内に)実在するという「精神医学的実在論」はかなり偏った立場であると言わざるを得ない
  • 精神疾患を原因別に分類する、よく知られた分類としてたとえば外因性/心因性/内因性というものがある
    • 精神以外の疾患であれば、概ね外因性(すなわち、身体や脳の実質的変化に基づくもの)だと考えられる
    • それに対して、精神疾患においては、ストレスや葛藤への心的反応として生じていると想定される心因性のカテゴリーがたくさんある
    • たとえば、統合失調症の陽性症状においてはドーパミンの放出が過剰だとされている「ドーパミン仮説」などがあり、たしかに科学的探求は行われるものの、そこから「統合失調症の本質的定義」へと至るメドが立っているなどとは到底言えない
  • ましてや、DSMにおける「適応障害」や「PTSD」といったカテゴリーは、「ストレス因」や「外傷となった出来事」が関わってくるため、脳には還元しきれないカテゴリーである(仮に脳が同じ状態になったとしても、明確な「ストレス因」や「外傷となった出来事」がなければ、そのようには診断されないだろう)
    • 精神医学ではこのような社会的なものの関わってくるカテゴリーも念頭に置きながら診断するため、バイオ-サイコ-ソーシャルモデル(生物-心理-社会モデル)に基づく診断が行われている
  • 以上より、「性同一性障害」に本質主義的定義を与える(たとえば、脳内の状態がこれこれであれば「性同一性障害」であると定義する)ことが果たして可能なのかと言われると、かなり疑わしい
  • また、谷口論文や動画において、DSMでは操作的定義が採用されているということが言われている
    • すなわち、客観的に定義が可能な概念であるということが言いたいのだろう
  • しかし、アメリカ精神医学会(APA)も認めているように、DSMにおける精神疾患カテゴリー間の境界は曖昧であり、実際、医師ごとの診断にも揺れがある(心理検査の用語で言えば信頼性がない)
  • 動画を観た限り、谷口氏は「「性同一性障害」という堅固なカテゴリーであればアイデンティティ・ポリティクスが成立し、それに対して「性自認」という科学探求的内包を持たない・家族的類似でしかないカテゴリーではアイデンティティ・ポリティクスは成立しない」という旨の対比によって「性自認」の概念上の不備を指摘しているが、以上の議論を踏まえれば対比として成立しているかは怪しい
  • 医学のカテゴリーであるとはいえ、「性同一性」も「性自認」と同じぐらい本質主義的には定義し難く、運用し難いカテゴリーである
    • 実際、現状のDSM-5の「性別違和」の診断基準を抜粋してみると、
      • A その人が体験し、または表出するジェンダーと指定されたジェンダーとの間の著しい不一致が少なくとも6か月、以下のうち2つ以上によって示される。

      • 1.その人が体験し、または表出するジェンダーと、第一次および/または第二次性徴(または若年青年においては予想される第二次性徴)との間の著しい不一致。

      • 2.その人が体験し、または表出するジェンダーとの間の著しい不一致のために、第一次および/または第二次性徴から解放されたい(または若年青年においては予想される第二次性徴の発達をくい止めたい)という強い欲求。

      • 3.反対のジェンダーの第一次および/または第二次性徴を強く望む。

      • 4.反対のジェンダー(または指定されたジェンダーとは異なる別のジェンダー)になりたいという強い欲求。

      • 5.反対のジェンダー(または指定されたジェンダーとは異なる別のジェンダー)として扱われたい強い欲求。

      • 6.反対のジェンダー(または指定されたジェンダーとは異なる別のジェンダー)に定型的な感情や反応を持っているという強い確信。

    • ……という感じで、「欲求」や「確信」に基づいている
    • これらは、実務的には精神科医や臨床心理士などがその人の生育歴を聴取することや「振る舞い」から診断することになるだろう
    • ついでに言えば、性同一性障害の人が実際に性別再割り当て手術を受ける際には高いハードルがある。イギリスにおいて専門の医師が「門番」の役割を果たしてきた(今でも果たしている)ことがよく知られている。どれぐらい「門番」が機能するのかは恣意的な基準が適用されてきた(たとえば、「パス度」を医師が勝手に判断することで、手術を拒否するなど)
    • 以上より、「性同一性」は科学的探究の末に本質主義的な定義が可能なカテゴリーとは到底考えられない
  • 以上の議論に基づけば、gender identityが「性同一性」とも「性自認」とも訳されうるのは、その二つの概念の間に本質的な差異を設けることが不適切だからだとも解釈しうるし、査読①による「性自認」が「性同一性」と同じ意味の言葉である、という理解もそれほど無理のあることではない
    • ついでに、知らない読者もいるだろうから一応触れておくが、gender identityを「性同一性」と訳すのか「性自認」と訳すのかはそれ自体狭い意味での政治的な問題を孕んでいる
    • 具体的には、昨年成立した「LGBT理解増進法」では法案の段階で、右派から「性自認」概念を用いることへの(シスジェンダー女性の安全への配慮を根拠とした)批判があり、法案の中の文言が右派への配慮から「性自認」→「性同一性」→「ジェンダー・アイデンティティ」と変化していった経緯がある
    • よって、「性自認」概念と「性同一性」概念とを対比させて、前者を不備のあるものと考えるのは、右派による「性自認」バッシングの主張と重なるものである
      • いやまあ、別に谷口氏の主張が右派の主張と重なってようが、左派の主張と重なってようが、究極的にはどっちでもよいとは思うのだが(重要なのは内在的な検討だと思うので)
      • ただし、2節での事態を「社会的混乱」と言うのであれば、「トランス権利運動」だけでなく右派側のバックラッシュにも触れるべきだろうから、歴史的経緯の整理としては不十分だろう
      • むしろ純粋に哲学的な問題についてのみ考えたいのであれば「トランス権利運動」に触れる必要も、「性自認」という用語を使う必要もないのでは?
        • それこそ敢えて挑発的に既存の文脈に位置づけることで「逆ソーカル事件」を起こしたということなのかもだが……

 

  • 次に、「②性自認が社会的経験の累積の結果として構成できるという議論がすっ飛ばされている」について。まずは谷口論文の該当部分をもう一度貼る
  • 従来「性同一性」という概念であったものが「identity があることから self-identify することへと内包の比重が移り」(3ページ)、谷口の言う「性自認」概念に接近していく。そして「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになった
  • +脚注9:脱病理化運動は医学との対抗で形成されたがゆえに、性自認は、一人称の権利、他からのアクセス経路が原理的にありえない、反証可能性のない仕方で、主張されている
    • これらの話については論文としては文献を示すぐらいでもよいので、(査読者②も言ってるけど)典拠が必要だろう。典拠を示さずとも、もう少し議論が必要だろう
    • というのも、トランスジェンダーが第二次内包を持たない「雑多な状態像の寄せ集め」である〔これは、「家族的類似」に基づいたものであると言い換えてもよいだろう〕と脚注9で言っているんだから、何に基づいて性自認が成立しているのかを考えると、まずは社会における経験が累積していくことで成立していくと考えるのが普通では?
    • しかし、その議論はすっ飛ばされ、性自認は自己確証に基づく「一人称特権」を伴うものとして、すなわち私秘的なものとして(第〇次内包またはマイナス内包として構成されるものとして)扱われるというスジで議論が展開されていく
    • 3節では(背理法的な理路で)性自認は第〇次内包としては構成できないという話になり、そこから4節~6節では性自認はマイナス内包として構成できるという主張に辿りつくように議論は進んでいく
    • けどそもそも、「性自認は社会的経験の累積の結果として構成される」という話がすっ飛ばされているし、2節の議論だけでは不十分だろう
    • これは永井や入不二の用語法でいくなら、 「第一次内包(日常文脈的内包)としての性自認」説と考えることもできるかもしれない
      • だがこれに対しては、第二次内包(科学探求的内包)による逆襲も、第〇次内包(文脈独立的な内包ないし、内面孤立的な内包)による逆襲もあり得ないと考えられる(2節・3節参照)。それを「第一次内包」と呼んでよいのか?
      • 谷口氏が3節で「性を自認するとはどういうことなのか、わからない」という問題に触れているように、「感じ」を伴わないものは定義上「第一次内包」と呼んではいけないのではないか?(そのへん、チャーマーズ=永井用語の使い方を僕は厳密には分かってない)
      • ということで、以下は「第一次内包(日常文脈的内包)としての性自認」という言葉遣いはやめて、「社会的経験の累積の結果としての性自認」という言葉遣いにする
    • 査読論文としては、2節で先行研究レビューをして、査読①②で指摘されていた「社会的経験の累積の結果としての性自認」説を乗り越えておくべきだと思われる
      • 「性自認は社会的経験の累積の結果として構成できる」という主張では説明しきれない事態もきっとあるだろうからそれを指摘すればよい(筋が良いかは分からないが、たとえば、社会的な経験が同定できない状況でなんとなく「私は男性である」と思う、ということもありうるだろう)
      • 1節の永井の発言も踏まえると、谷口的には「社会的経験の累積の結果としての性自認」は「ジェンダー論」の話であり、「哲学」の話ではないのかもしれないけど……
        • ちなみに余談だが、「社会的経験の累積の結果としての性自認」も脱病理化・脱医療化運動の流れで捉えることが可能である。専門知から離れた当事者主導で作られていくカテゴリーがむしろ、アイデンティティ・ポリティクスとして有用でありうる事例はいくらでもある(アダルトチルドレン概念やニューロダイバーシティ運動、当事者研究など)
        • また、専門知を利用するかたちで当事者の概念運用が活性化するパターンもある(cf.前田・西村 2018 『遺伝学の知識と病いの語り』)
        • 必ずしも「当事者」に同一化するのではなく、「当事者」カテゴリーに対して交渉的な立場を持つという概念運用の方法もありうる(cf.貴戸理恵 2022『「生きづらさ」を聴く』)
        • なので、個人的には家族的類似に基づくカテゴリーによってある種のアイデンティティ・ポリティクスをやってもいいし、成功しうるでしょとは思ってる
        • 以上、余談

 

  • 3節:
  • 4ページ5行目「というのも、素朴な仕方で立てられた「性自認」は、哲学的に構成不可能だからである」
    • その後の「性自認は第〇次内包として構成できない」という主張のことを指しているっぽい
    • 指示されている三浦俊彦の文章も読んでみたが、「ジェンダーは個人ではなく社会の属性である」となる理路が僕には理解不能で、読むのをやめた
  • ウィトゲンシュタインの言う「私的言語」としての性自認;永井均の言う第〇次内包(観察可能な兆候なしで当人に、「通時的他者としての自分」と記憶によって繋がっているがゆえに、判別可能なもの)としての性自認
  • 「女性(男性)」は内観における感覚的対象を名指す語ではないので、第〇次内包がないという主張。例として、子供が「男性」という概念を習得する場面が挙げられている
    • これはなるほど。「女性(男性)」が感覚語ではなく、すなわち第〇次内包がないことを示す例としてよく分かるし説得される
  • 心を自由に入れ替えることができる(複数の身体を渡り歩ける)と仮定して、「女」の身体になったときにだけ感じる特異な感覚や体験を同定できれば、それが「女」であると言えるかもしれない
  • しかし、実際には心を自由に入れ替えることはできないので、特異な体験があったとしてもそれを「女」としては同定することが権利上不可能。つまり、ここでの「性自認」は有意味な信念として言語運用できない

 

  • 4節:
  • キルケゴールの(言語哲学的)解釈に基づき、性自認の発生について考えていく
    • 面白い。脚注14でも言われているが、僕も真っ先にラカンを思い出した。バトラーもジェンダー・メランコリー論で同じ問題を違った角度から論じていると僕は理解している
    • 僕はキルケゴールを読んだことないので、残念ながら内在的なコメントはできない
    • とりあえず脚注14で指示されている上野論文は読んでみたが、これは(上野は無内包の話に繋げているが)マイナス内包の話に繋げる方がしっくりくるかも? その意味でも谷口氏が6節でマイナス内包を導入するのも分かるなあと
    • というのも、マイナス内包は認識論(意味論)が成立する以前の存在論として構成されているものなわけだが、これ自体非常に精神分析的な議論だと思う。フロイトのトラウマ論では、幼少期に何かしらの一撃(ラカンが言うところの原初のシニフィアン)があり、それは当初は意味づけられていないわけだけど、後から言語的に解釈されることで症状が現われてしまうというスジだから(これはフロイトの用語では「事後性」という)。
  • 「ここでいきなり読みを入れておけば、これは各人が「私である」という極めて特殊なありかたをした類例のない存在であると同時に、それが客観的世界へ錨泊する実在として「谷口 一平という人物である」といった仕方で人類史に登場してきもする、という二重性をもったありかたをして在るという事実の、キルケゴールによる言い表わしである、と筆者は解釈する」(6ページ)
    • キルケゴールの話を、永井均的に読んでいる感
    • 「私は世界であると同時に、世界の中で発見される性的身体としても、世界へ二重定位している」(9ページ)も含めて、いわゆる独在性の話なんだろうなこれ
  •  
  • 5節:
  • 原罪前性自認成立説と原罪後性自認成立説
    • 不可逆な一撃として言語世界への参入を捉える図式はやはりラカンを思い出す
    • 永井的な話では、そもそもは現象的な〈私〉しかないのに、「自分」がそれぞれの人間にあるものとして一般化して(人称化して)語れてしまうようになることが、言語による作用だという話なので、その理路が5節の展開においても活かされているのだと思われる
  • 原罪(言語世界への参入)後であれば、言語が使えるので、性的主体の自己規定(性自認)は可能である
    • というスジで合ってるよね?
  • ただし、それは認識論的な話であり、存在論的には「原罪前からもともとそうであったもの」として性自認は成立したと谷口は言う
    • 「しかし原罪後も、「私」が依然として「世界」でもあることに注意しよう。それならば、性的身体として規定された谷口一平は、世界全体を内包とする概念としても「男」を獲得している、と考えることはできないか?」(11ページ)の意味が分からなかったので、ここの理路が僕には追えない
  • この事態を考える際に「マイナス内包」という見方が適切

 

  • 6節:
  • 「マイナス内包」としての性自認の構成
  • ①現代科学において物神化された超越論的統覚としての、すなわち世界をそこから表象し構成する物質としての「脳」に注目
    • 「脳」を召喚する理由は、「性自認」という語りの体制それ自体が現代科学の産物なのではないかという解釈ゆえ
      • これ自体、かなり面白い仮説だと思う
  • ②「中心化された可能世界」というコンセプト
    • 世界の内容的事実はそのままで、その世界が「男」から開かれている可能世界であると考える場合と「女」から開かれている可能世界であると考える場合とを区別する
    • これは言語(に組み込まれた様相化装置)が可能にしている事態
  • ①②を使って、性自認はマイナス内包として構成される
    • ここ以降の議論は正直難しくてよく分からなかった

 

  • 論文全体の構成についての感想:
  • 最後の方がムズカしかったのでコメントに窮しているが、最後に世界をそこから表象し構成する物質としての「脳」が召喚される以上、2節では精神医学的実在論の立場に立たざるを得ない感じなのかもなあとは思った
    • とはいえ、精神医学の科学哲学を踏まえたうえで、僕はやはり「性同一性」を科学的なカテゴリーとして擁護するスジは厳しいと思っている
  • 「マイナス内包」を用いて議論を展開することについて一般的なコメントをするならば、これ自体一時代前の現代思想的な議論と相性いいんだろうなと思った
    • というのも、「マイナス内包」は意味論的に成立している事態に対し、遡行的な形でその存在論を擁護する議論だから。これは、現在視点からの構築主義(反実在論)に対する、過去視点からの本質主義(実在論)の逆襲と考えることができるわけだが、これって、東浩紀が言うところの「否定神学」に近いのでは。否定神学的に「原初」の存在が擁護されているわけで
    • 精神分析における「無意識」を脳科学的なシナプスとして捉える議論も一部で流行ってるらしいので(詳しくないけど)、「マイナス内包」による実在論の擁護として「脳」が出てくるのもその潮流に近いものを感じる
  • ただまあやはり、構築主義なり「社会的経験の累積の結果としての性自認」と多少なりとも対決しないことには、この論文の射程が分かりにくく、もったいないなとは少し思った
    • この考え方自体、アカデミアに毒されすぎなのかもしれんが

精神分析的読みのススメ・前編――エヴァンゲリオンTV版を例として

この記事はゼロ年代研究会アドベントカレンダー18日目の記事です(遅くなってすみません)。

adventar.org

 

 

半年ほど前にこんなツイートが(主にアラサーアラフォーに?)話題になっていた。Kanonって今も好かれているんだなあと感慨深い気持ちになった。

このツイートとはあまり関係ないが、「忘れていた幼少期」がストーリーにおける重要な「謎」になっているという作品展開はゼロ年代によく見られたものだ(たとえば赤松健の『ラブひな』とか)。

 

幼少期こそが人間について知るための重要な「謎」である、というのは「精神分析」と呼ばれる学問に特有の視点である。とりわけ、精神分析の創始者であるフロイトはそう考えていた。

だが、2010年代に入り、精神分析の枠組みがすっかり流行らなくなったのと並行して、「忘れていた幼少期の謎が解き明かされていく」というストーリーも流行らなくなったように思う。

 

現代は即物的な情動が社会を支配するようになった(宮台真司風に言えば「感情が劣化した」)。具体的には、COVID-19が流行ればマスメディアもソーシャルメディアも過剰に不安を煽り、インターネット広告が人々のコンプレックスを刺激し、ソシャゲではガチャをまわすことで射幸心に慣らされ、思考を停止して押される「いいね」「リツイート」が“共感”を集める時代である。

今や(少なくとも若い世代の)人々の手元には常にスマホがあることで、これらの(光や音や「パワーワード」による)情動への情報刺激から逃れることは難しい。もっと言えば、メディアからの情報刺激が過多な現代社会において、休むことなく無理にテンションを保とうとすれば、合法的な神経刺激薬であるカフェインとアルコールに頼ることになってしまう。このこと自体も資本主義のロジックに飲み込まれていることは、「エナジードリンク」と「ストロング缶」が象徴している。

 

まるで動物の群れを操っているかのように即物的に情動へとはたらきかけてくるこの現代社会において、“人間”としての幸福を追求するためにはスマホ・ソーシャルメディア以前の時代の視点をなんらかのかたちで再導入していかざるを得まい。そこでゼロ年代だ。

 

「ゼロ年代の知」である精神分析の視点から作品を読むことができるようになること。

これだけでもだいぶ人間的に生きることに近づくはずだ。

さあ、精神分析的読みの世界へ足を踏み入れよう。

 

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起源としてのエヴァンゲリオン

ゼロ年代研究会は1995~2011年を「長いゼロ年代」と定義し、重視している。その一つの起源としてやはり重要な作品はエヴァンゲリオンである。

エヴァの庵野秀明監督はエヴァを作る際に精神分析関連の本を読み漁っていたと言うが、それがわかりやすく反映されているのは親子関係、広く言えば大人と子どもの関係だろう。

 

フロイトの精神分析には「エディプス・コンプレックス」という根本的な仮説がある。異性の親への愛と、それを阻む同性の親への憎しみからなる欲望の複合体があり、これらは結局のところ無意識へと抑圧される。その抑圧のされ方(子と親との関係性)次第で、人間の欲望はその内容や対象を変えていくという考え方でもある。

 

この枠組みは実のところ、かたちを変えて一般に普及している。

 

たとえば、フロイトのこの枠組みを参考にしたジョン・ボウルビィの「愛着理論」は、親からの愛を得られなかった子どもが、成人してからも対人関係や自己肯定感、性格などにおいて問題が生じるという知識として、「常識」化している(ただし「親からの愛」だけで人の性格などの大部分を説明できるかというとそうでもないので、これは偏見の一種でもある)。

 

エヴァでもまた、このような枠組みが参考にされているのだろう。親との関係になんらかの難を抱えている「チルドレン」たち(これは当時流行していた「アダルトチルドレン」をもじった言葉だろう)について見てみると、シンジは引っ込み思案であり、レイは感情抑制的であり、アスカは短気である。また大人の側も、ミサトは押しつけがましく、ゲンドウは(主にシンジに対して)冷淡である。

そしてエヴァでは、このようなキャラクターたちによる様々なディスコミュニケーションや精神的葛藤が描かれるのである。

 

親子関係に限らず、このようなキャラクターたちの病理的な側面は、精神分析的には「症状」として読解することができる。

症状は、フロイトの精神分析においては幼少期の「性生活」の影響によって生じるとされている。この仮説が、精神分析がバッシングを受ける大きな理由にもなっているのだが、その理路はいわゆる「トラウマ」がどのように発症するのかを考える上で重要なため、ここで紹介しておこう。

 

症状とは妥協された欲望の成就である

多くの成人において「性器」を中心に組織されていく性欲動は、幼児期にも「幼児性欲」というかたちで存在しているとフロイトは主張している。

 

おっぱいを吸うことで得られる快感(吸えないことで得られない不快感)に特異性のある時期が「口唇期」、トイレトレーニングの我慢や排泄がうまくいってほめられる快感(うまくいかないことで怒られる不快感)に特異性のある時期が「肛門期」、男性性器が重視される時期が「男根期」(たとえば幼稚園児が性器いじりをするのはよく言われることである)、といった区分である。

その後、自己の身体よりも外部の対象に対する愛情が重視されていく「潜伏期」を経て、その後第二次性徴期を境に「性器期」を迎え、異性との性器結合を目指すようになる。この時期以降の性欲を「性器性欲」と呼ぶ。

 

「口唇期→肛門期→男根期→潜伏期→性器期」という、この壮大な性的発達論仮説は、例外も多いうえに幼児に「幼児性欲」があると主張しているため、世間にはなかなか受け入れられない。たしかにいろいろと反論は可能だろう。

しかし、口唇や肛門が他の部位と比べてしばしば明確な性感帯になることを考えれば、少なくともそこになんらかの基盤があると考えるのは自然なことではないだろうか。

 

そのうえで、もう二つ、重要な精神分析用語を導入しておこう。

それぞれの発達段階で十分に満足を得られなかった、または非常に満足を得た記憶がある場合には、成人してから強い精神的ショックなどがあったときにその段階へと行動原理が立ち返ることがある。これを「退行」と呼ぶ。

また、ある発達段階への(無意識的なものも含む)こだわりや執着を「固着」と呼ぶ。たとえば、口唇期固着のある人が退行した際には「爪を噛むクセ」が出るかもしれないし、肛門期固着のある人が退行した際には著しい我慢、または解放をするかもしれない。

 

以上のような性的発達段階論を受け入れるのにはだいぶ難があるかもしれない。しかし、以上の理論をいわゆる「トラウマ」論として抽出するならば、次のことを理解しておけばよい。

――ある人が過去になんらかの強度の高い体験をしたとする。その体験が幼い時期のものであることや、その体験の衝撃の強さゆえに、体験を十分に思い出すことができない状態にあるとしよう。そして、その体験にまつわる「退行」的な欲望がうまく満たせない葛藤状態になったときに、その体験はトラウマ(心的外傷)として「固着」することになる。言わば、トラウマ的な体験の記憶が無意識のなかに鬱積、沈殿してしまうというイメージである。

過去のトラウマにまつわる欲望をうまく満たせないとき、人は精神的な「症状」という代替的なかたちで欲望を満たそうとする。「症状」とは言わば、妥協された欲望の成就のことである。このように解釈することが精神分析の特異性だ。

 

 

エヴァンゲリオンはシンジが見た夢である

以上のような精神分析の視点で、エヴァンゲリオンTV版について解釈してみよう。

 

エヴァのTV版は最終的には主人公のシンジの内面がひたすらに描かれ、シンジの内面の中での気づきによってこれまでの問題がすべて解決したかのように終わる。

これを踏み込んで解釈すれば、これまで20話以上描かれてきた使徒の襲来やエヴァでの戦闘、あるいは父や女性たちとの人間関係的な葛藤は、結局のところシンジの内面の葛藤を象徴的に表現したものでしかなかったとして見ることが可能である。すなわち、使徒との戦闘も、人間関係的な葛藤も、シンジの「症状」だったのである、と。

 

あるいは、こう言った方が分かりやすいだろう。これらは、シンジの「夢」だったのだ、と。

 

フロイトは、夢は無意識へと至る王道である、と言った。そして、私たちが見る夢もまた、欲望の成就であるとフロイトは言っている。しかし、夢は明らかに、直接的な欲望成就ではない。私たちの見る夢はしばしば「意味不明」であるからだ。

ここでの欲望は、さまざまな検閲を被り、加工されたかたちで夢に表現される。夢もまた、「症状」と同様に、妥協形成の産物なのだ。だが、「意味不明」である症状も夢も、なんらかのかたちで無意識の欲望を表現しているはずなのだ。その欲望とはなんなのか。欲望はどのように葛藤し、どのように症状や夢を作ってしまったのか。これらの構造を解釈していくこと。これが、精神分析である。

以上のことを図にするとこんな感じである。このように、無意識の欲望はなんらかの検閲などを受けて葛藤し、妥協されたかたちでしか現れてこない。

精神分析ではこの矢印を逆に辿る。すなわち、夢や症状といったテクストを手がかりに、無意識の欲望を解読していくわけである。

 

さて、エヴァンゲリオンの24話までの物語がシンジの夢だったとするならば、精神分析の視座からすれば、そこにシンジの欲望が表現されているはずだ。それも、直接的ではないかたちで。

ここからの解釈はいろいろありうるが、一つ陳腐な解釈を述べておこう。

使徒はATフィールドという奇妙な壁を張りながらエヴァと戦い、終盤にはエヴァ操縦者の精神へとアクセスするようになっていった。

これをたとえば、「他者との壁を取り払い、繋がり・分かり合いたい」というシンジの欲望の象徴的な表現であると解釈することはできるであろう。

 

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さて、以上で精神分析的読みのだいたいの道具立ては揃った。これらを元に、次回は代表的なゼロ年代エロゲである『ONE』の瑞佳ルートと『Kanon』のあゆルートを読み解いていこう。

後編に続く。

(ホリィ・セン)

ホリィ・センが20代頃にしてきた恋愛の総括

この記事は「サークルクラッシュ」研究所アドベントカレンダー5日目の記事です。

adventar.org

 

2年前のサークラアドベントカレンダー

恋愛からの卒業と、その先 - 落ち着けMONOLOG

で書いたように、僕は好きな人と「友人関係のような恋愛関係」を築いた。この関係は概ね今も継続していると言ってよい。そのため、自分の精神に動揺が走るような"事件"が起きることもなく、僕の心は平穏な幸福に包まれている。

 

思えばそれまでの恋愛は青年期らしいというか、動揺続きの疾風怒濤なものだったので、しばしば僕は自分の苦しみや考えたことなどを文章に書き綴って(書き殴って)きた。

これまでの恋愛に比べると、今はとても落ち着いているし、2年前に「恋愛からの卒業」と書いたのは間違っていなかったと思う。

 

ここに至るまでの「20代頃の恋愛」を、いま一度大局的な視点から軽く語り直しておいてもよいかと思った。すなわち個別具体的な恋愛の中身について云々するのではなくて、僕がどういう態度で恋愛に臨んでいたかの変遷というかたちで今回は書いてみようと思う。

 

 

はじめての交際

思えば、初めて人と「付き合う」ということをしたのは約14年前、17歳のときのことだった。滋賀県の高校生の演劇部の人たちが集まる合宿で知り合った同い年の女の子のことがどうも気にかかり、友人にもその子のことを話していたら「好きなのでは」と言われた。

 

僕は小学生とかのときから同級生の女子を意識するタイプだったし、どういうわけか“女”というものに対して常に幻想を抱いてきたように思う。

また、今から振り返れば、たびたび教室などで話題になる「好きな人」という概念に固執してしまうタイプだった。一度囚われるとなかなかそこから自由になれないタイプであって、中学生のときは好きになった人に告白してみたこともある(振られた)。

 

演劇で知り合った子については、メールや年賀状などでコミュニケーションを取っていた。彼女は当時流行していたケータイサイトをやっていて、ケータイブログなどを書いていたこともあって、電子上でその動向を追えていたというのも好きになるキッカケだったのかもしれない。合宿でメールアドレスを交換した後に特に連絡を取らなければ、関係が進展することはなかっただろう。

 

そんな感じで幸運が重なり、告白したら実ったのだが、他校の生徒ということもあって普段の接触はなかった。「付き合う」が成立したその後に、どのように関係が進展していくのかということが具体的にイメージできていなかった。メールのやりとりをするのは楽しかったのだが。

恥ずかしからずに同級生とかに相談しておけばよかったのかもしれないが、何回か会って、特に関係も進展しないまま、それこそ手も繋ぐこともないまま振られてしまった(大学1年生の夏のことだったと思う。高校2年の2月から付き合ったので、期間だけで言えば1年半も付き合っていたことになる)。

 

僕の中ではおそらく「彼女がいる」ということに観念的に満足してしまっていたように思う。そこには実質が伴っていなかった。

日常生活において特に接点があるわけでもない関係性においては、自分で主体的に相手とのイベントを作った方が良かったのだろうなと今では思う。まあ、当時はそういうのがムリだった。

 

ネット恋愛期

それからはとある女性声優にガチ恋してしまい、3年ぐらいはその追っかけをしていた。それは今から考えると恋愛の代替物として機能していたように思う。

 

ただ僕は割と寂しがりな方なので、大学でも人と交流しようとしていた。だが僕はシャイというか、自分を何者として呈示すればよいものか分からなかったときにはとりわけ、人に話しかけることが苦手だった。

それゆえに、なんらかの文脈を共有している特定の人としか関係を作れないタイプだった。理系だったのもあり交友関係は限定されており、人間関係は所属していたオタク系サークルが主だった。必然的に周囲の人間はほとんど男だった。

 

それにより、僕にとって女性との交友の主戦場は小中学校の頃から通暁しているインターネット上、ということになった。高校のときに演劇をやっていたり、声優オタクだったりした流れで、「こえ部」という音声投稿サイトに登録していた。そこには女性がそれなりにいて、とりわけ「こえ部LIVE!」という不特定多数の人が会話できるサービス(今で言うTwitterのスペースみたいなの)で会話していた。

ただし、3人以上での会話が苦手だった。文脈の共有できている相手ならまだしも、見知らぬ人と「雑談」的なコミュニケーションを継起していくことの難しさを感じた。

 

当時の僕は自分の会話できなさを「内輪ノリ」への嫌悪として理解していた。自分で「ノリ」を作り出せる人や、相手が作った「ノリ」に入り込める人が会話において有利だということだ。

そんな苦手さを感じつつも仲良くなった女性はいて、一人とはリアルで会えたので好きだと言ってみたものの、恋愛関係になることはなかった。

 

「こえ部」でウダウダやっていていろんな人の話を聞いている間に別のサービスを知ることになる。たしか当時小学6年生の子が教えてくれたような記憶があるが、Skypeちゃんねるというものだ。

LINEが十分に普及していなかった頃に流行していた音声通話サービスであるSkypeのアカウントを掲示板に書き込み、誰かと会話をするというものである。これはこえ部LIVE!と違って一対一で通話できるので、僕にも馴染みやすかったし、Skypeちゃんねるに漂う場末的な雰囲気ゆえか、性愛的な関係に進展することが割と容易だった。

 

これについてはサークラ会誌Vol.5で詳しく書いたので繰り返さないが、そこで毎晩のように女性と話したり、いわゆる「エロイプ」というテレホンセックス的なものをしていたりした。しまいには女性と出会い、いわゆる「オフパコ」をすることになる。女性への執着が強かった僕は、そこで初めて女性とセックスをするに至った。2013年3月のことだった。

 

このときは自分が童貞じゃなくなることは本当に良いことなのだろうか、といったやはり観念的な思考に囚われていた。中学生の頃から僕はまとまって考えたことはなんでもブログなどに書く性分だったので、その混乱ぶりについては当時のブログ記事(をこのブログに移したもの)

私がなぜオフパコによって童貞喪失したのかについて - 落ち着けMONOLOG

に記録してある。怪文書(というか怪図表)もいいところだし、そのときの情感を自分でも思い出すことが難しい。

 

自分本位な恋愛

リアルにおいて女性との性愛的な関わりがなかったためにどうにかネットでそれを実現していた僕だったが、サークルクラッシュ同好会(以下サー同と表記)を2012年に立ち上げ、翌年の2013年4月にまじめに新歓を始めてからはおそらく人生で初めて多数の女性と関わるようになった。

 

余談だが、2012年のあまり発信できていないときの新歓にも1人だけ他大学から女性が来ており、当時はあまりにも少数で行われていた活動を手伝ってくれていた。後になってその女性には彼氏ができたのだが、そのときにその女性はワンチャン自分とセックスすることを狙っている側面もあったのだと話していた。

曰く、自分が処女であることにコンプレックスを抱いていたとか。「なんだそりゃ」と思ったが、今にして考えると、恋愛の"可能性"は自分が認識していた以上に無数にあったものなのだろう。『やれたかも委員会』的な世界観である。

 

それはともかく、2013年のサー同の新歓で入ってきた他大学の女性と急に親密になった。やはりSkypeで長々と通話することで仲良くなったのだった。

相手には彼氏がいたらしいのだが、僕は相手に好きだと言ったところ付き合っているような関係になった。今思うと「付き合っていた」のかちょっと疑問なのだが。なんにせよイチャイチャしていたり性的な関係を持っていたりはしたので、自分としては完全に舞い上がっていたし実感としては「初めてまともに彼女ができた」気分だった。そのときの精神状態はちょっとおかしかったと思う。

 

詳しくは省略するが1ヶ月半後に酷い別れ方することになる。主観的にはあまりにも濃密な時間を過ごしていた気がするので、体感的には1年ぐらい付き合っていた感じなのだが。

 

恥ずかしい話、別れた後に僕は相手を非難する酷い発言をいろいろとしていた。だが、冷静に考えるともう少し相手を楽しませるというか、テイクだけでなくギブがあるべきだったんじゃないかと思う。要はその関係性において、相手が何を考えているかとか、自分の行動によって相手がどう感じるだろうかといった想像がうまくできていなかった。僕はとにかく自分本位に考え、自分にとっての快楽に邁進していたのである。

 

別れてしまったものの、周囲の人々との相談を繰り返すうちに、かなり自分の中で他者性が芽生えてきた。要は自分が取る行動が、相手にとってどのように映るのか、どのように評価されるのかということをかなり具体的に想像できるようになったように思う。

 

再度、ネット恋愛

とはいったものの翌年の2014年にはまたやらかすことになる。大学院試験に落ちてしまった僕は、大学は卒業していたので身分がない状態だった。勉強はしていたものの暇だったので、やはりSkype掲示板などに明け暮れていた。

 

そして、サー同が軌道に乗っていたことで、僕に興味を示した女性がTwitterを通じて話しかけてくるということが何回かあった。それで話しかけてきた女性と親密になったのだが、通話するうちに僕はガチ恋してしまうことになる。

その女性とのコミュニケーションにおいては、お互いの内面をかなり深いところまで開示することを意識的にやっていた感じがあり、そのせいでおそらく僕も自分の内面の脆い部分まで開示してしまったのだと思う。最終的には相手に対する好意を伝えるために異常なポエム文章を書き上げてしまい、恐怖を与えてしまったのか音信不通になった。

余談だが、その後にその女性と交際していたと思われる男性とはTwitterで相互フォローだったのだが、あるときにブロックされた。

 

その他にも、急にTwitter経由で連絡先を交換して、急に付き合おうと言ってきた女性がいた。僕は当時やはり女性に飢えていたし、好奇心もあってあまり考えずにOKしたのだった。

その人とは毎日5時間ぐらい通話していたと記憶しているが、心理的な距離は1センチメートルぐらいしか埋まらなかったってやつかもしれない。8~10月ぐらいに付き合って、大学院試験で忙しかった1月ぐらいに別れた記憶がある。

 

相手に合わせる恋愛、自分を変える恋愛

というわけで、2010年代前半の恋愛はかなり観念的なことに終始していた。「付き合う」まで進むことはけっこうあったが、そこから先がうまくいかないというか、大まかにいって「関係の維持」をどうしていくかという問題が僕の中から抜け落ちていたのだろう。

 

そろそろ具体的な情報を書くのが疲れてきたのでもうちょっと省略するが、2016年に大きな恋愛があった。これは約半年付き合った。

この恋愛において「相手に合わせる」ということをそれなりにちゃんと始めるようになり、「関係の維持」にしっかり取り組み始めたような気もするが、それはかなり歪なかたちだった。

 

どのように歪かと言うと、「普通になりたい」、「カルチャー教養を得たい」、「自分を変えたい」といった願望がそこに大きく関わっていたことである。

僕は大学入学当初から周囲に対するカルチャー・コンプレックスが強かったのだが、彼女に対してもそれを強く感じていた。彼女は東京的な(?)カルチャーにそれまでの人生でいろいろと触れてきた人で、多趣味な人だった。

だから彼女が「良い」と言っているものを摂取することで、自分もカルチャーに染まっていけるんじゃないか、今の無教養でみすぼらしい自分を脱して変われるんじゃないか、みたいなやや強迫的な観念があった。

この記事

「センスのある奴」を殺したい - 落ち着けMONOLOG

はそんな彼女と付き合う最中で書いたものであり、彼女に見せようと思って書いた記憶がある。この記事は3月初めに書かれているが、付き合い始めたのはたしか年初ぐらいだった。こういう記事を書いて見せている時点で彼女との関係は崩壊し始めていたように思う。

 

もちろん「関係の維持」を目指す意味でも「相手に合わせる」ということはしていたが、それはすなわち「相手の言動に対して嫌なことを嫌だと言えない」ということだった。僕は彼女の言動を間違っているとは思えず、怒りなどの感情が抑圧されていた。我慢の限界を超えた際には爆発していたというか癇癪を起こし、それでも彼女にぶつけるのはおかしいと思っていたから、叫んだり床を殴ったりしていた。当時シェアハウスに一緒に住んでいた人たちには申し訳なかった。

 

彼女の気持ちが僕から離れていくことで、「別れたくない」がゆえにより「相手に合わせなきゃいけない」という感覚が強まり、更なる悪循環に突入していたようにも思う。今にして思うと相手はだいぶ僕に対して酷いことも言っていたのだが、それは僕が招いたことでもあった。

「自分に持っていないものを彼女は持っている」から、彼女のことが好きなのだという説明を当時はよくしていたが、そのせいである種の権力性が生じていたというか、「自分よりも相手の方がモノを知っているし、相手の方が上」という感覚で彼女と接してしまっていたのだと思う。要するに僕は舐められていたのだ。

 

自分の中の「劣等コンプレックス」と「恋愛関係の維持」の問題がないまぜになり、結局は振られてしまったわけなのだが、別れた後もだいぶ引きずった記憶がある。そこには「彼女が僕を変えてくれるはずだ」という絶望的な幻想があった。

「彼女のメガネに適う自分になって、もう一度彼女と付き合うんだ」という妄想をよくしていた記憶がある。

 

普通で対等な恋愛

ついつい感傷的なことまで書いてしまったが、別れてから友人に相談したり文章を書いたりする中で、上に書いたような歪な関係についても自覚していくようになった。

 

心のオアシス(?)であるSkype掲示板に還っていった僕は2017年、またもや女性と親密になる。ケンカなどはあまりせずにイイ感じの関係だったのだが、遠距離であることが問題だった。

「付き合う」ことになり、通話はよくしていたが、東京まで会いに行くとドタキャンされることが何度もあった。さらに、ある時期からあまり相手が連絡を取ってくれなくなった。この間に彼女の中にどういう心情の変化があったのは分からない。

 

それでもたまに喋ってみるとちゃんと好意を表現してくれる人だった。けっこう演技派だったのかもしれない。

僕と別れた1年後ぐらいに彼女が結婚したのを聞いてびっくりした。やはり、僕と関係を持っていると同時に他の男性とも関係を持っていたのかもなあと。

 

翌年、2018年1月の文学フリマ京都にたまたま来ていた女性がサークラ会誌を読んで興味を持ってくれて、僕にコンタクトを取ってくれた。

その女性と会ったところ意気投合し、彼女とはあまり連絡が取れなくなっていたのもあったので僕は「乗り換える」ことにしたのだった。

 

詳しくはサークラ会誌Vol.8参照だが、その彼女とは2019年8月ぐらいまで付き合っていた。幸福にも(?)彼女は恋愛の儀式的側面を重視する人だったので、1年半の間に、同棲を始めるというイベントや、誕生日というイベント、一緒に旅行に行くというイベントなどいろいろやったし、相手の親と会うとかもあった。

そういうのを通ってこなかった僕はかなり勉強させていただいた。というか、それまでの僕の恋愛関係においていかに世間的な意味での「恋愛」をしていなかったかが思い知らされた。積年の劣等コンプレックスが解消されたような気分だった。

 

むろん、そういう「普通の恋愛」をしなければいけないわけではないのだが、ここで「普通の恋愛」を体験したおかげで、ときに「普通じゃない恋愛」を主体的に選択できるような基盤ができたように思う。

 

先ほど挙げた「関係の維持」問題についても改善が見られた。というのもまず、僕は自分のデリカシーのない部分もだいぶ分かるようになったからである。自覚できたところで改善しない側面もあったのだが、十分に自覚していなかったときに比べると大きな進歩である。

同時に、彼女との付き合いにおいては初めて「最悪別れてもいい」と思いながら付き合っていたのも関係の維持においては重要だった。自分にとってどうしても付き合いきれないことがあったら別れる、という選択肢を自分で取っても良い、という主体性が芽生えていたのだ。

これについては彼女が(少なくとも半年ぐらいは)僕のことをちゃんと好きでいてくれたのが大きかったのかもしれない。「恋愛は惚れた方が負け」ということはよく言われるが、それは惚れている側ばかり相手に譲歩するような権力関係が生じてしまうからだと思う。このような権力差は彼女との間になかったように思う。

 

結果として彼女とはたびたび「ケンカ」をしていたのだが、対等なケンカだったように思うし、その点は良かった。ただ、あまりにもエスカレートして落としどころが分からなくなることも割とあったのは苦しかった。

別れてみて、ケンカの原因について全体として考えてみたときに、自分と相手の相性の悪さが浮き彫りになったところはある。加点法的な意味では笑いの趣味などが合うところがありそれでお互い好きだったのだが、減点法的に考えると、たとえば清潔さの感覚などで相性が合わないところはけっこうあった。

 

特に問題だったのは、彼女と僕の周囲の友人があまり仲良くできないところだった。これは彼女に問題があるというよりも、彼女を自分が所属している界隈の「外」から連れてきていることによって必然的に生じる問題であった。

 

ここで得た教訓から自分がどのように考えるようになったかについては、冒頭に貼った2年前の記事に書いたとおりである。要は「友だち」を自分の関係の中心に据えるようになったということである。

 

まとめ――具体化・リベラル化した恋愛のその先は?

まとめよう。2009~2015年頃の僕はまだ恋愛を観念論的に捉えていたように思う。すなわち、「付き合う」という観念ばかりに自己本位に固執し、自分の行動が相手にどのように評価されるのかをあまり想像できなかった。また、「付き合う」という際には具体的に二人で何をするのかを具体化できなかった。そのこともあり、「関係の維持」をしていくことに意識が向かなかった、ということである。

 

2016年頃になってようやく恋愛関係は具体的なものになっていったが、「今の自分を変えたい」という欲望が相手に対して投影されることで、相手が自分よりも権力的に優位に立つ恋愛関係を作ってしまっていた。具体的には相手の言動を絶対視してしまうことで、「嫌なことを嫌と言えない」状況になってしまっていた(付き合っている間は、嫌だということを意識することすらできていなかった)。

 

2018年頃からはより恋愛関係が具体化し、「付き合う」ということの標準的なプロトコルを強く参照した恋愛を経験できた。また、対等な関係性を築くことを重視するようになった。

 

今では、恋愛対象を減点法的な基準で選択をすることや、自分の周囲の友人と仲良くできる人を選ぶこと、さらには必ずしも「普通の恋愛」にこだわらずに自分にフィットした関係をカスタマイズしていくことも模索するようになった。

 

こうやって振り返ってみると、2016年以降の僕の恋愛は「リベラル化」の過程だったと言える。今の恋愛においてもかなりの程度、相手と話し合うことによって、再帰的に関係性を作り上げているが、僕もすっかり都市型の人間になってしまったということか。

2020年から関係が始まった「好きな人」との関係についてはもう2年半になる。やはりいろいろあったので、これについても書き記しておきたいが、ここで書くことではないだろう。稿を改めてじっくり語りたい(要はのろけたい)。

 

思えば、2018年頃の僕は標準的なライフコースに敢えて乗ることで、彼女と結婚し・子育てをしたいなどと考えていたものだ。そこで頓挫したのもあって今では一気に羽を伸ばしているという感がある。結婚や子育ての問題をどう考えるかがやはり今後の課題なのだろうなあ。

コミュニケーション強化合宿by「サークルクラッシュ」研究所のお知らせ ――自分の権利を知る、自分の感情を感じる、自分の言いたいことを溜め込まずに言う

 「サークルクラッシュ」研究所が今年の4月から新しく始まり、大学のセメスターとしては前期が終わろうとしています。

 「サークルクラッシュ」研究所では定期的な集まりはやっていませんが、その代わり夏休み(8~9月頃)を使っていわゆる「強化合宿」を開きたいと思います。

 

 「サークルクラッシュ」研究所の前身であるサークルクラッシュ同好会においては、自身のコミュニケーションやメンタルヘルス、生きづらさについて見つめ直すような活動をしばしばやってきました。

 しかし、1回でせいぜい3時間程度のまとまった時間しか取らないため、体系的なかたちで活動に取り組むには少し限界がありました。

 

 そこで、2泊3日の合宿形式にすることで、まとまった活動に取り組みたいと思います。今回取り組むのは「アサーション・トレーニング」と呼ばれている方法論です。

 

 

 「アサーション」ないし「アサーティブ」といった言葉を聞き慣れない人もいるかと思いますが、敢えて直訳するならば「自己主張」です。より適切に言うならば「やわらかい自己表現」といった言葉になるでしょうか。

 

 本合宿の目論見はこの「アサーション」の理論について学び、かつロールプレイによって実践していくことでコミュニケーションを手っ取り早く強化しようということになります。

 

 

 

 

なぜアサーションなのか

 それではなぜこの「アサーション」に僕が着目したのか。キッカケはやはり「サークルクラッシュ」現象にありました。「サークルクラッシュ」現象において、ある種の人が「無意識型サークルクラッシャー」とカテゴライズされてしまう場合があります。

 具体的には、様々な人にフレンドリーに接したり、目の前にいる人に対して配慮する能力が高かったりといった特徴を持っています。

 

 このような特徴を持った人は一般的には「いい人」ということになるでしょう。しかし、そのような「いい人」が恋愛対象でない人に恋愛的な好意を持たれたり、不快なことを言われたり、プライベートな領域にズケズケと踏み込まれたり、といったかたちで被害を受けることがしばしば観察されます。

 結果として、「無意識にサークルクラッシュしてしまう」ことに悩んでいる、あるいは「サークルクラッシュ」まではいかずとも対人関係で適切な距離感を保てないことに悩んでいる人がいます。

 

 

 このような問題について、もちろん適切な距離感を保たずに侵害的な関わりを持とうとする人(ステレオタイプなイメージで言い換えれば「モラハラ」的であったり、「ストーカー」的であったりする人)に大きな責任がある、と言ってよいと僕は思います。

 

 ただ、この社会を生きていくうえで、そのような人たちと関わらずに生きたり、加害の責任を取らせるかたちで罰したり、といったことは現実的には難しいように思います。

 このような言わば「加害者側」が今後加害をしないように“教育”するプログラムもたしかに存在はしていますが、まだまだ普及しているとは言えませんし、今後も普及するのかは分かりません。

 

 そこで、「被害者」の側が身につけられるスキルを身につけておく、ということも両立するだろうというのが今回の趣旨です。

 そもそもアサーションは、自分も他人も共に大切に扱うコミュニケーションを目指しているという点では、「加害-被害」といったシリアスな事態になる以前の問題としても重要です。そのため、特に「加害-被害」といった状況に陥ることはない、という人にとっても役立つスキルだと思います。

 

 

自分の権利を知る

 しかし、「アサーション」と言われてもピンとこないでしょうから、アサーションによって具体的に達成できることを、この文章において大きく三つ紹介しておくことにします。

 

 1つ目は「自分の権利を知る」です。アサーションにおいては「アサーション権」という概念があります。たとえば、「私には『イエス』『ノー』を自分で決めて言う権利がある」「私には、間違う権利がある」などといったものです。

 

 ここでは、文字だけ読むと「……当たり前では?」と思われるようなことが、敢えて「権利」として明文化されています。これは「ルール」と言い換えてもいいかもしれません。

 

 しかし、このような「権利」は現実にはしばしば侵害されているものです。現実のコミュニケーション場面において、自分の権利が侵害されている状況にすぐさま気づくために、このような「権利」や「ルール」に対する“マインドセット”を形成しておくことが有用だという考え方だと僕は捉えています。

 

 この「自分の権利を知る」トレーニングにおいては、アサーション関連の本に限らず、ASDの当事者向けの「人間関係やコミュニケーションのルール」を記している本も適宜参照します。

 そこで、どのような「権利」や「ルール」があらかじめ定められているとよいのかというメタ的な観点からも参加者の方からは意見をいただきたいと考えています。

 

 

自分の感情を感じる

 2つ目は「自分の感情を感じる」です。アサーションでは自分の思っていることを適切に表現する必要がありますが、そのためにはそもそも自分がどう感じていて、どういう意見を持っているのかを場面に応じて把握できなければなりません。

 

 しばしば人は「あのときああ言えば良かった」と考えがちですが、それ以前の問題として、「あのとき自分はこう感じていたんだ」と後になって自分の感情を知ることもあるように思います。

 

 特に、自分の感情を表現することを抑圧されて育ってきた人の中には、たとえば目上の人の前では「自分の感情を表現してはいけない」というのがクセになってしまい、状況ごとの自分の感情を感じることも難しくなっている人がいるように思います。

 

 そういった人たちにとって、自分の感情を感じることがまず大切です。具体的にはコミュニケーションの場面で感情を表現するロールプレイもしますが、コミュニケーションの外で感情を表現したり、自分の感情と繋がっている身体感覚に注意を向けたりといったトレーニングも実施していきます。

 

 ここでもまたアサーション関連の本の知識だけに留まらず、マインドフルネスと言われる、自分の身体感覚や思考や感情に気づくための瞑想の技法も学び、実践していこうと考えています。

 

 

自分の言いたいことを溜め込まずに言う

 3つ目は「自分の言いたいことを溜め込まずに言う」です。「アサーション」でイメージされるものの一番分かりやすいものはおそらくコレだと思います。

 

 アサーションの用語をざっくり紹介すれば、コミュニケーションにおいて困難が生じやすい態度としてまず、「アグレッシブ」型(自己主張が強く、相手の話を受容しない)と「パッシブ」型(ノン・アサーティブとも。相手の話を受容するだけで、自己主張ができない)の二つが挙げられています。

 それに加えて「パッシブアグレッシブ」型(受動攻撃的、作為的などと訳される。自己主張をしないかたちで相手に攻撃を加える)という分類もあります。

 これらの状態から脱し、目指されるのが、相手の話を受容しつつ適切に自己主張もする「アサーション」型ということになります。

 

 このような分類を示すとなんとなくイメージできたでしょうか。僕としては「モラハラ」的被害を受けてしまうような状況をひとまず問題視していますので、どちらかと言えば「パッシブ」型の状態から抜け出せるようスキルを身につけるトレーニングができればいいのではないかと考えています。

 ただ、「パッシブ」型のコミュニケーションをしている人もしばしば、「溜め込む」ことによって「爆発」してしまうことは観察されるように思います。そうなった際に「アグレッシブ」や「パッシブアグレッシブ」なかたちで他者に接することもあるのではないかと思います。

 結局一言で言えば「自分の言いたいことを溜め込まずに言う」という方向性での練習が必要になってくるのではないか、と考えています。

 

 こういったコミュニケーションは頭では分かっていてもなかなか現実には実践できないものです。今までの人生で「自分の言いたいことを溜め込まずに言う」ということをほとんどしたことがない人もいるんじゃないかと思います。

 そういう人がせめてロールプレイの場面で「自分の言いたいことを溜め込まずに言う」というのはこういうことなんだ、という感覚を掴むだけでも価値はあるんじゃないかと考えています。

 

 

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以上が、「サークルクラッシュ」研究所で開催予定の「コミュニケーション強化合宿」の概要です。既に参加希望いただいている方の都合上関西でやる予定です。

参加者がある程度決まり次第日程調整をしようと思いますので、参加を希望される方はどなたでもご連絡ください。

 

連絡先:

circlecrush@gmail.com

または

@circlecrush(ツイッター)