「“文学少女”シリーズ」の結末に感じる違和感を「とらドラ!」との比較で説明してみる

“文学少女”シリーズの

面白さについては今さら改めて言う必要も無いようなものだけれども、私はシリーズ読了直後から奇妙な違和感を感じて仕方がなかったのですね。その違和感の正体はずっと不明なままで、まるで喉の奥に小骨が刺さったような状態で放置されていたのだけれど、先日天啓のようにその理由がストンと落ちてきたので書いておきます。
ただし、以下の文章はその必然性から「“文学少女”シリーズ」と「とらドラ!」の致命的なネタバレを含んでいます。両作品を未読の方はご注意下さい。
・・・ところで、もったいないところで天啓を使ってしまったような気がしますが・・・天啓って使用回数制限が無いといいな・・・。

恐らく私は

「“文学少女”シリーズ」が読者に対して提示してくる「幸せのかたち」が不満なのです。
最終巻のエピローグだけを読んでみるとそれが非常にあからさまな形で示されています(これを書くにあたって外伝などの要素は排除しています)。それは主要登場人物とその最終的な関係性を一覧にして書き出すと分かりやすいです。

  • 井上心葉——天野遠子
  • 琴吹ななせ——臣志朗
  • 竹田千愛——櫻井流人
  • 芥川一詩——朝倉美羽
  • 姫倉麻貴——黒崎保

非常に綺麗に男女関係が構築されているところが分かると思います。主だった登場人物については男女関係にあぶれる者が一人もいないという不思議が起きているのですね。最後の姫倉麻貴については多少変則的ですが、私の言いたい事の大筋では外れていません。つまり、

  • 「“文学少女”シリーズ」にとっての幸せな結末とは、古典的な女にとっての幸せ、あるいは恋愛の成就を含まずには表現されない。

という事です。
心葉と遠子先輩については作家と担当編集であると同時に男女の恋愛関係でしょうし、竹田さんと流人は変則的ではありながらも強い信頼関係で結ばれた愛し合う関係です。芥川くんと美羽についてはエピローグでは細かく書かれませんが明らかに男女の組み合わせです。麻貴先輩は恋愛に関しては変則的な形を取っていますが、結婚・出産という実に古い形での女性の幸せが提示されます。そして最も顕著なのが琴吹ななせと臣くんの関係でしょうか。そこに到るまでには紆余曲折もあるのでしょうが、明らかに幸福の形としてのななせと臣くんという組み合わせが暗示されます。
・・・綺麗に丸く収まって終わり・・・であることは間違いないですが、青春の行き着く先の幸せって、男女関係の成功だけなのでしょうか?

同じ青春を扱った作品として

同じく名作の「とらドラ!」シリーズを例に挙げて比較してみましょう。

とらドラ!1 (電撃文庫)

とらドラ!1 (電撃文庫)

男女関係の成立具合という意味では露骨に「“文学少女”シリーズ」とは違いますね。竜児と大河については間違いなく恋愛関係ですが、それ以外の登場人物については明らかな形で恋愛関係が成立している組み合わせが存在しません。実乃梨は恋愛よりも大河との友情とソフトボールの道を選びましたし、亜美については竜児を諦めたあとモデルとしての道を進むのでしょう。北村については狩野すみれに懸想しているのは明らかですが、その帰結は明らかになっていません。つまり、「とらドラ!」において男女の恋愛で最終的にはっきりと上手くいったのは竜児と大河の組み合わせだけなのです。それは、

  • 「とらドラ!」にとっての幸せな結末とは、必ずしも恋愛の成就としては表現されない。

という事です。
では、恋愛にあぶれてしまった者達は不幸せなまま物語から退場していったのか? というと、これは間違いなく違います。彼らは皆笑いながら物語のラストシーンを迎えるのです。それぞれ心に想うところはあるにせよ、決して不幸せではありません。彼らの青春は恋愛の成就抜きでも幸せに完結するのです。

比較してみると

どうでしょうか。
ただ予め言っておきたいのは、こうして比較する事によってどちらかがより優れた作品だとか、どちらかがより面白い作品だとか言いたい訳ではありません。この二つの作品はそれぞれに違う楽しさがあり、双方とも非常に優れた作品である事は間違いないと思うからです。単純に二作品とも女性作家の手によるもので、しかも同時期に発表された人気シリーズだというだけです。
ただ、私はどちらの結末が好きかと言われたら、迷い無く「とらドラ!」を選びます。何故なら「“文学少女”シリーズ」は恋愛の成就抜きでの幸せなラストシーンを用意できなかったから、です。
私は「“文学少女”シリーズ」のこの点に不満を感じていたようなのです。青春において「恋を実らせた者こそが幸福である」というのは、確かに一つの結論と言えるかも知れません。「リア充」なんて言葉の意味の一部が示す通り、今や彼氏彼女がいるというだけで人生が充実しているなんていう風に言われたりします。
もちろん、その気持ちは分からないではありません。「“文学少女”シリーズ」だけでなく「とらドラ!」でも主軸に据えられているのは恋愛です。あるいはライトノベルに限らず古今東西そうした物語を探したら枚挙に暇がありません。それだけ恋愛というのが青春のみならず人生においてもそれなりに重要な位置を占めていると思うからです。

しかし

「恋愛の成就」のみが「幸福」の不可欠な要素として示される「物語」というのは余りにも価値観的に古過ぎやしないでしょうか?
今や望めば幾らでも好きな生き方が出来る時代です。歳を取るにつれその選択肢は狭まりますが、上記の二つの物語が描いているのは高校生であり、あらゆる可能性がまだまだ幾らでもあると言ってもいい時期ですし、当然「幸福」の形は「恋愛の成就」以外にもあるはずです。
にも関わらず、「“文学少女”シリーズ」では「恋愛の成就抜きでの幸福の提示」が最終的にはないのです。その顕著な例として挙げられるのが琴吹ななせでしょうか。彼女は一人でいるのが「物語として可哀想である」という理由のためだけに臣くんとの将来的な関係を示唆されたという印象がつきまといます。
このラストシーンに違和感を覚えた人は恐らく多いのではないでしょうか。それは「失恋」=「独り者」=「不幸」=「青春の敗北者」という等式をこの物語が強制しているからに他なりません。その等式からすれば、琴吹ななせがハッピーエンドを迎えるためには、一人でラストシーンを迎える事をどうしても避けなければならなかったのです。
しかし、「とらドラ!」の物語の中にあるように「失ってしまう事、無くしてしまう事は必ずしも悲しい事ではない」という事を私たちは知っています。そうした視点から見たとき、琴吹ななせの迎える結末や、拡大解釈すれば心葉と遠子先輩(主人公たち)を除く他の登場人物の結末は、余りにも狭苦しく自由がないのです。
「“文学少女”シリーズ」のラストシーンは確かにハッピーエンドです。しかし物語の持つ幸福についての価値観は古く、古典的に過ぎると言ってしまっていいのではないかと思います。それが古典作品をモチーフとして物語を構築していった結果なのか、あるいは作者の価値観の発露なのかは分かりませんが。
ただし、こうした古典的かつ普遍的な価値観を古典の名作から持ち込んだ事によって作品として成功したという側面もあるかと思いますし、それこそが「“文学少女”シリーズ」の魅力であると言う事も出来ると思います。ですからここで言っている事は本当に単なる「私の好み」の問題であって、作品の瑕疵であると言うつもりは毛頭ありません。

いずれにせよ

私はこんなことを理由に「“文学少女”シリーズ」に違和感を覚えていたようですが、みなさんはいかがでしょうか。私の感じた事はともかくとしても、深く印象に残る優れた作品なであることは今さら言うまでもありません。単に、良くできた作品は色々な切り口で語る事が出来る・・・というそれだけの事かも知れませんね。