ばらいろのウェブログ(その3)

ひびのまことの公式サイト→ https://barairo.net/

ガザ虐殺を許さない! パレスチナに自由を!

今回の、ハマスに主導された武装闘争は、PFLPの武装闘争、インティファーダの民衆蜂起、などと並ぶ、パレスチナ解放のための闘いの歴史の中にある。これを、「イスラエルの民間人へのテロだ」とみなしたり認識したりすること自体が、「そもそもイスラエルという国家が、パレスチナへの侵略国家だ」という歴史的事実を隠蔽する効果を持つ。

https://ccp-ngo.jp/common/images/palestine/top/palestine_top03.png

いまイスラエルが支配している土地は、元々パレスチナ人の土地であり、それを奪って建国したのがイスラエル。だから、パレスチナ人は、自分たちのもとの土地に帰って生活する権利(帰還権)をもつ。この帰還権は、国際法上も、国連決議でも、明確に認められているにも関わらず、イスラエル政府はこれを認めず、それどころか、いまも入植地を作り続けて、つまり土地をパレスチナから奪い続けている。もちろんこれは、国際法違反だ。

 

先日の岡真理さんの講演で、イラン・パペ が以下のようなことを言っていたと聞いた。

(以下の緊急学習会の動画の、1時間45分くらいのところから)

ガザで生まれ育った若者が、壁から出て、一度でいいから祖国パレスチナの土地を踏みたいと思ってガザから外に出た。外に出ても、その数時間後にはイスラエル占領軍に殺されることがあらかじめ分かっていてもなお、自分の足でその土地を踏んでみたいと思って行動したその若者達を、私は称賛する。

twitcasting.tv

 

なんかいまのメディア雰囲気は、「まずハマスを批判すること」が必要なような雰囲気だけど、それにのまれてはいけないと私も思う。

講演では、ハマスに主導された武装部隊はイスラエル占領軍の拠点を短時間ではあれ奪い返して占拠していたこと、占領したキブツのイスラエル住民へのハマス側の対応は礼儀正しいものであったこと、そこで実際にキブツの民間人を殺害したのはイスラエル治安部隊であった事例もある事、なども述べられた。
「今回の武装攻撃には、ハマス側による国際法違反もあった」という事実は認めた上で、今回の国際法違反をはるかにしのぐ、あまりにも大規模な国際法違反を70年以上も実践し続けているイスラエルは、全く罰せられていない事実を指摘する。

イスラエル建国以来、ずっとイスラエルによるパレスチナ人の追放や殺戮、土地の剥奪が行われてきた。こういった「国家テロリズム」に対しては何も言わないでおいて、被害者がミサイルを撃った時になって初めて、「テロリストだ」と言い出す人のご都合主義こそが、イスラエルによる国家暴力を支えていることに気がつくべきだ。


私自身は、2002年に実際にパレスチナに行ってみて、「イスラエルの建国それ自体が問題だ」と言うべきでは、と感じていた。日本の多くのパレスチナ支援の活動家達も、おそらくそう考えていたにも関わらずこれまでそう言ってこなかったのは、もし「オスロ合意」を当事者が受け容れるのであれば、外部からはあまり言わないでおこうという事なのだったと思う。しかし、オスロ合意以降、そもそもイスラエルが合意を守るつもりがなかったことが明らかになり、もう完全に破綻しているということを、今回の武装闘争が明らかにした。
事ここに至って、いまいったい何が起きているのか、ということを言うのであれば、「イスラエル建国から続くイスラエルによるパレスチナ人への虐殺と追放、土地の奪取が、いままさに公然と行われようとしている」ということなのだ。

 

イスラエルによるガザ攻撃を許さない。

ガザ虐殺を許さない!
パレスチナに自由を!
パレスチナの解放を!

 


 

●特集:ピンクウォッシュってなに?
※ひびのにとってのパレスチナ問題

www.youtube.com

 

●パレスチナ特集
http://barairo.net/special/palestine/

 

●2009年1月の映画祭会期中にあったガザ空爆に抗議するために、関西クィア映画祭の会場にひびのが掲示した『No Pride In The Occupation』のポスターに対して、で寄せられた意見と回答
https://kansai-qff.org/2009/reply_J.html

 

●パレスチナ/イスラエルとLGBT「ピンクウォッシング」ってなに?「BDS運動」って何?

hippie.hatenadiary.jp

 

●特集3:ピンクウォッシュってなに?
https://kansai-qff.org/2016/pinkwash_index.shtml

 

●パレスチナ問題とは(パレスチナ子どものキャンペーン)
https://ccp-ngo.jp/palestine/

 

明けましておめでとうございます。『おしん』の感想など

明けましておめでとうございます。
今年の年越しと正月は、久しぶりに家でのんびりしていました。

冬場にだけ帰ってくるチビ

NHKオンデマンドで見放題パックに一時的に入って『おしん』の一気見をしていました。
1話15分とはいえ、297話もあって、約74時間分。

■連続テレビ小説「おしん」
https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=asadra014
■『おしん』1983年放送
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2008000580SA000/
■最高視聴率62.9%を記録した名作『おしん』から学ぶ「地獄を生き抜く術」
https://www.jprime.jp/articles/-/17792

 

『おしん』役の3人

 

友人から借りた『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ東京版のVHSテープ(全26話、約13時間分)を一気見したのが20年ほど前の年末年始だった。年末年始の一気見はそれ以来なんですが、それにしても『おしん』の74時間は長かった…

年越しを一緒に過ごした若い友人がそもそも『おしん』を知らなかったのに少しびっくりしましたが、まぁそれだけ年が経ったということかなと。
ちなみに私は、放送を家でテレビで、家族みんなで見ていた世代です。

せっかく74時間も見たので、簡単に感想を。

 

●ガチなフェミニズムドラマ

「女が、男に頼らず、一人で生きていけるようになること」の重要性が、極めて明確かつ強烈に描かれていた。働くということが、生きるための金銭を得るという意味だけではなく、人の社会的な存在としての価値を確認するという意味をも持っていることも、描かれていた。
『おしん」が放映された80年代、例えば私の父親も、私の母親が働きに出ることに強く反対していたりして、また離婚も簡単にはできない時代において、おしんが、自分の人生を中心において生き抜いていく姿、女性の自立を促すのエンパワーになったのでは、と感じた。(だけど、あとで母親に聞いたら、全然そんなことを言っていなかったので、的外れかも)

『ハケンの品格』の大前春子もハイスペック女性だったが、おしんはそれを遙かに上回る超ハイスペック女性として描かれてもいた。同時に、周りの人たちのサポート、まさにそれがあったからこそ、おしんの活躍が可能になったということも含め、うまく描かれていたように思う。

それにしても、ドラマに出てくる男達の頭の悪さというかバカさ加減というか、本当に見ていてイライラした。女性を主人公にして、かっこいい女性がたくさん描かれていて、女性たちの世代を超えた助け合いも描かれていて、そういう意味でもよかった。

 

●ガチな「戦争反対」ドラマだった

「私は戦争だけは絶対に反対なんだ」と、何度も何度もおしんにはっきりと言わせていたドラマだったのに少しびっくりした。日露戦争の脱走兵や、農民運動を組織しようとする活動家も、単なるオマケではなく、物語に不可欠な人物として登場。その活動家が特攻の拷問で転向させられる、という事も描く。政府の方針に明確に反対する人がテレビに出てくることが、あってもいいハズなんだということを、改めて思い起こされた瞬間だった。

また「戦争反対」も、安易なものではなかった。太平洋戦争時におしんの夫が軍部に協力して商売を大きくし、おしんもそれを容認した。しかし敗戦後に自身のけじめとして夫が自殺し(戦争協力をしたのに敗戦後に手のひらを返したように戦争反対とか言う人たちへの明確な嫌み、というか批判ですね)、おしん自身も「自身がちゃんと戦争に反対しなかった」ということを自覚して、自身の生き方を後悔/悔やむ描写になっていて、安易な「戦争反対」でないのもよかった。


とはいえ、確かに「敗戦後ものうのうと生き続けている天皇」という読み方も可能とは言え、明確に天皇の戦争責任を描いている訳ではないこと。
関東大震災を回顧する場面で、噂で殺された罪のない人たちがいるとおしんにドラマの中で言わせているのに、「朝鮮人が殺された」とは明言しないこと。
そもそも、日本軍によって殺されたアジアの人たちの事は一切描かれていないこと。
そういう意味では、「戦後民主主義」や日本国憲法秩序の枠内の議論、でしかない訳ではありますが。

■参考資料
【米国便り18】アジアにおける植民地主義、もしくは15年戦争と米国
http://barairo.net/UStour2004/archives/000032.html

『はだしのゲン』が、戦争被害だけではなく、アジアへの戦争加害を明確に描いていたり、天皇の戦争責任にもはっきりと触れている、という事と比較すると、確かに「しょせんNHKのドラマだよね」とは思う。

■「はだしのゲン」の天皇批判
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/cbd0f437b22010b85442e2ba083d781e


ただ同時に、「被害者としての戦争の悲惨さ」さえ忘れられかねない、そして戦争を賛美する声が大きくなり、軍事費が増加されようとしている今の日本の状況に、いま私たちはいる。そこから見ると、その加害責任に触れない不十分な「戦争反対」であってさえ、NHKドラマの『おしん』を含む明確な意図を持った表現が社会の中で繰り返し行われ続けることで、やっと社会的な合意として継承されていたんだなぁ、とも思う。
『おしん』では、おしんを含む1人1人の、その時々の選択と決断によって、状況が実際に変わっていったことが繰り返し描かれる。おしん自身も戦争に明確に反対せずに加担したこと、そしてそのことを後悔する描写をすることで、いま(放送当時)、戦争に反対する必要性をちゃんと描いていた。
『おしん』放映開始が1983年4月。その前年の1982年11月には第1次中曽根内閣が発足して、「不沈空母」発言や「日米は運命共同体」発言もあった時代だった。

■<あのころ>「不沈空母」発言に抗議 初訪米の中曽根首相
https://www.47news.jp/7319195.html


●まとめ

暴力や体罰の描写が多すぎ、「女々しい」などのセリフが頻出、最後は結局大家族主義と異性愛賛美で終わる(だから浜野佐知監督の『百合祭』はやっぱり素晴らしい)、など、古い時代を感じさせる点も多々あったとはいえ、やっぱり最後まで見てよかったなと思います。さすが、橋田壽賀子ドラマ!


(『エルピス—希望、あるいは災い—』も、安倍晋三への抵抗を見せたところはよかったとはいえ、異性愛主義というか、異性愛男性向けの不要なサービスシーンが多過ぎで、辟易もした。ドラマの中で「オジサンたちの地雷を踏まない、機嫌を損ねないように細心の注意をしないといけないのよ」と長澤まさみに言わせているのは確かに爽快だった。でも実際にこのドラマ自体が、"オジサン世界"(ホモソーシャルな世界、女性差別と異性愛主義)に媚びを売ることと引き換えにしか作られていない感じもして、あまり人には勧められなかったなぁ。)
■『エルピス—希望、あるいは災い—』
https://www.ktv.jp/elpis/

 

お屠蘇のもと



アベ政治を許さない

安倍晋三が死んだ。私は個人的には「ざまあみろ」とか「めでたい」としか思わない。

安倍晋三のせいで、大勢の人の生活が破壊され、自死させられた人さえいる。モリカケサクラ全部開き直って好き放題の安倍晋三、政 治を私物化し、忖度文化を蔓延させ、日本社会を徹底的に破壊したのが安倍晋三だ。だから、恨まれて殺されたとしても、何の不思議もない。

 

ただもしこれが、政治的な意図を達成するために行われた殺人だとすると、手法はやはり間違っている。

(同様に、殺されて当然だった伊藤博文が殺されても、状況が根本的に良くなるなんてことはなかった。)

殺人という方法が間違いなのは、安倍晋三がかわいそうだからではない。政治的目的のための殺人がもし正当化されると、力と暴力の政治になるからだ。戦争の正当化になるからだ。暴力は、当然、反政府活動への暴力にもなるし(既に辻元清美事務所が荒らされている)、社会的少数派への暴力や攻撃としても現れてくる(ウトロも放火された)。だから、政治的目的のための殺人は、被害者が誰であれ、正当化すべきでない。

これは、暴力ではなく話し合いで、戦争ではなく外交で、物事を解決していこうと考える者の持つ倫理観だと思う。

 

同時に、参議院選真っ最中の今、安倍晋三の死が、自民党を利するような事があってはならない。何故なら、今回のような事件が起きたのは、まさに安倍晋三や自民党の政治の帰結だからだ。自分を批判する市民を「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と総理大臣が攻撃する。全体の奉仕者としての仕事を放棄し、力を持つ者の無茶がまかり通る。安倍晋三と自民党が行ってきた政治こそが、暴力によってしか社会を変えられない、と人に思わせる状況を作り、社会を荒れた暴力的なものにした(だから安倍晋三には「ざまあみろ」な訳だ)。

 

政治目的の殺人を批判し、暴力でものが決まることを許さない社会、権力を持った者のわがままを許さない社会、そういう社会をつくるためにこそ、今こそ掲げよう。

 

アベ政治を許さない。

自民党政治を許さない。

 

ひびの まこと

http://barairo.net/

[email protected]

 

アベ政治を許さない

 

日本で「Black Lives Matter」を掲げる時に、私が悩んでいること

日本で「Black Lives Matter(BLM)」が話題として取り上げられている時、それは「米国が日本の宗主国だから」「米国が世界的な帝国主義国だから」、だから日本で米国の問題が大きく取り上げられる、日本人が米国の問題であるBLMに関心を持つ、という側面が実際にはあります。
米国以外の国での民衆の闘い、例えばボリビアの先住民の闘いや、アフリカ諸国の鉱山での黒人の生きるための闘いは、いずれも世界規模の帝国主義や植民地主義によって作られてきた現実への異議申し立てであるとも言えますが、BLMのように日本で広範な関心を持たれることは、あまりありません。
(ちなみに、ラテンアメリカにおける先住民の闘いは、規模も大きく歴史も長く質的にも重要というかホントに深いので、勉強してみることをオススメ。)

 

そしてさらに、日本の帝国主義と植民地主義の歴史的産物でもある朝鮮人への差別は、米国で米国の奴隷制の結果である構造的黒人差別が関心を持たれにくいという事実と同様の構造的な理由により、日本国内では関心を持たれません。どちらも、国家や社会の成り立ちの根幹を差別で賄った歴史があり、現在もその差別が合法的に制度化されていると言えます。
(ちなみに書いておくと、在日朝鮮人は未だに参政権が剥奪された状態にある。日本国憲法の秩序は、在日朝鮮人への差別を制度化した秩序である事を、日本の左派は一貫して無視し続けている)

 

もしBLMを米国国内問題としてみるのではないのなら、つまりBLMのグローバルな、世界的な展開を考えるなら、それは、米国の奴隷制を創りだした米国の帝国主義、米国の植民地主義の歴史に反対する事を意味するはずです。
そしてそれは、「英語ができて当たり前、英語が国際語」「米国の出来事に、世界が関心を持って当然」みたいな形でも現れる、現在の米国帝国主義や米国中心主義への反対も意味するはずです。
(もちろん、「米軍が日本に駐留したり、米軍基地が沖縄に居座るなどの、現在進行形の米国帝国主義的状況」に対して、明示的かつ積極的に反対することも、そこには含まれるはずです)

 

だからこそ私は、米国帝国主義にも反対する立場から、「BLM運動は、世界にたくさんある闘いの中の一つに過ぎない」という形で、積極的に限定化と相対化を引き受ける事/課す事こそ不可欠だ、と考えています。しかし同時に、とはいえ、限定化と相対化は「all lives matter」のように、結局は黒人差別の固有の文脈を消すために使われやすいし、実際に米国でそう使われてきたという事実があるからこそ、あえていま「Black Lives」と掲げられているのだとも、認識しています。

このような状況下で、日本でBLMを扱う時に、現在の米国帝国主義をなぞる事にならず、日本の植民地主義を問うことを避けず、かつ黒人固有の課題に焦点を当てる、ということをするために、どんな事に気をつけたらいいのか。
ぜひ意見を聞かせて下さい。ちゃんと意見の交換をしたいです。

 

参考資料

wezz-y.com

 



上記の文章は、
WEB講演会「日本におけるブラック・ライヴズ・マター(黒人の命を尊重しろ※)運動を考える」
https://www.kyoto-seika.ac.jp/news/2020/0708.html
の参加申込みにあたって、質問があれば書いてとあったので書いてみたら長くなった文章ですw
でも、いまこの件で私が考えていることが短くまとまっています。

ぜひあなたの意見を、コメント欄に書いてください。

韓国での、日本軍「慰安婦」支援団体をめぐるあれこれ(資料ページ)

韓国の「慰安婦」支援団体で内紛!
「慰安婦」団体が不正会計疑惑!
…
など、いい加減な情報に引っかかっていませんか?
日本では、「慰安婦」問題について、不正確な、というより明らかなデマが、あふれています。

自分で、一次情報を確認してみませんか?
「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の人たちが、一次情報をまとめてくれています。

いま問題になっていることは、二つあります。

  1. 「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)
  2. 「社会福祉法人大韓仏教曹渓宗ナヌムの家」

ほぼ同じ時期に提起されたので、混同されることがありますが(というか、ちゃんと「慰安婦」問題に取り組む気のない人たちがこの二つの問題を混同して、「慰安婦」運動それ自体をおとしめるキャンペーンを張っていますが)、基本的には別の問題です。


「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)

一つは、李容洙さんが尹美香さんを批判する記者会見をしたこと。
記者会見の元映像や、当事者の発言の日本語訳などが読めます。

wam-peace.org


「社会福祉法人大韓仏教曹渓宗ナヌムの家」

もう一つは「ナヌムの家」の実務スタッフが、「ナムヌの家」を運営している宗教団体にたいして行っている、内部告発。
「慰安婦」として被害を受けた女性たちのために、スタッフ達が不正をただそうとしているのが分かります。

wam-peace.org


いずれも、戦時性暴力、「慰安婦」問題の被害と加害を伝える日本初の資料館、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の皆さんが提供してくれています。
日本軍「慰安婦」問題についての分かりやすい資料も豊富です。
関東圏の方はぜひ一度訪問を!

wam-peace.org

 


 

考えるヒント資料

…「韓国国民が『慰安婦』問題と被害者の証言にこれほど関心を持って聴取したことがあっただろうか」と思う。キム・ハクスンさんの登場後、韓国では被害者の証言が数え切れないほど行われたにもかかわらず、なぜよりによってこの「証言」を多くの市民たちが一緒に聞くことになったのか、今のこの状況に胸が塞がる思いだ。…

…研究者(または活動家)が被害者と人間的な関係を数十年間持続し彼女らの面倒を見るということは、途方もない労働であり、倫理的な課題である。告白すると、証言チームの研究者たちは証言者との関係を持続したケースがほとんどなかった。証言研究が終わると、私たちはそれぞれ生活が忙しく、ハルモニたちとの関係が疎遠になったのだ。…

japan.hani.co.kr

 

…これまで民主党系列が好んで使っていた「韓日戦フレーム」、3・1節や8・15で、あるいは韓日の確執が深まった時にのみ水曜集会を訪れ報道することで、「慰安婦問題」を戦時性暴力の問題ではなく、「韓日間の外交懸案」または「日帝の蛮行の証拠」程度に見るように仕向けてきたメディアの報道姿勢などがこの状況を作っているのだ。多くの人々はこの状況の中で「慰安婦問題の解決に向けた運動」に接する。水曜デモの現場でいくら女性の人権を強調し、韓日の市民社会の連帯を叫んでも、それは多くの人々には届かない。それは果たして挺対協・正義連の責任だろうか。…もちろん挺対協・正義連が、政治家とメディアが作り上げたこのフレームから抜け出そうとばかりしてきたわけではない。…しかしそれは挺対協・正義連の運動が原理原則のみを振りかざすものではなく、現実的に問題解決を追求しなければならなかったからだ。…

japan.hani.co.kr 

 

…沖縄のペ・ボンギさんが、本人の意志ではなく、ひとえに生き残るために仕方なく「日本軍慰安婦」だったという事実を明らかにしなければならなかった時、沖縄の住民たちは「あなたはつらい記憶を引き出して証言しなくていい。私たちが覚えている。私たちが証言する」と言った。記憶を通じて非可視化された存在を可視化するとき、記憶に対する責任と倫理的義務は誰にあるのだろうか。暴力の被害当事者にのみ証言の義務を強要し、その証言を通じてのみ存在を信じることができるという社会は、どのような社会だろうか。…

japan.hani.co.kr

 

…しかし、怖さの中でも一言を切り出したのは、沈黙の理由を言いたいからだ。この半世紀、”ハルモニ”たちの沈黙を生んだ暴力は、依然として省察されないまま続いている。「私の方がよく分かっている」と先を争って言い出す人々の後ろで、数知れない人たちが言うべきことを言えずに沈黙している。私はこの沈黙を代理することはできないが、私の気持ち推して慎重に察するとしたら、明らかに人々の口を閉ざさせる苦痛と怒りがあるだろうと思う。いつもとてつもない苦痛の跡を残した最初の暴力は消され、その苦痛の跡のためにちゃんと考えてちゃんと休めなかった人々が互いを非難することが繰り返されるということ、そして最初から暴力を傍観したり共謀した人々が、この争いを勝手に評価し裁断することが繰り返されるという事実に、私には我慢できない。…

japan.hani.co.kr

 

第15回大阪アジアン映画祭に行ってきました

自粛ムードの中で、今年も大阪アジアン映画祭が開催されました。
せっかくなので、簡単に個人的な感想などを(^^)

 

『ミス・アンディ』

ネット上では意見が分かれていたので見に行きました。私には、何かよくわからない映画でした。
(どうしようもない不幸をリアルに描いた作品というなら、トランス女性作品ではないですが、『モンスター』の方が私は好きです。救いがない感じがリアルです。)
『ミス・アンディ』は、トランス女性を描いた作品との事でしたが、ベトナムからの移民のソフィアの物語としても、私は見てしまいました。
トランス女性といえばセックスワーカーばかりだとか、そういう批判もできはするでしょうが、それより、私は、監督の意図が読めないことが気になりました。このストーリーは、マレーシアで実際にあった出来事を映画化したのかな?もしそうなら、それにしても、あまり芸がない感じ。そして実話でないとすると、やはり、人が不幸になるネタをいくつか集めて、寄せ集めて、とにかく映画を作りたい人が映画を作ったのかな?と感じました。もしトランス女性に応援的な映画を撮るのであれば、このシーンは要らないのでは?というシーンもあって、「トランス女性が置かれる厳しい状況を描いた」では済ませられない印象でした。もしかしたら、主観的には監督はトランス女性を応援したかったのかもしれませんが、例えば以前に大阪アジアン映画祭でも上映した『女は女である』は、不十分なところがあるとはいえ、明確にトランス女性に寄り添おうとする意思がある事を感じたのとは、違いがありました。
最後に、この映画の邦題は、邦題をつける時に下手をうったのかと思っていたのですが、映画冒頭にも『Miss Andy』とバッチリ出てたので、監督の意図したタイトルなのでしょう。主人公は映画の中でもハッキリと「イヴォンと呼んで」と言っているのに、あえてトランス前の男性名アンディを冠する意図が、わかりません。タイトルに引きずられて、大阪アジアン映画祭での紹介文にも「アンディ」が使われていたのは残念。
 
 

『フォーの味』

『ミス・アンディ』の後に見たのが、『フォーの味』。これは、とてもよかったです。民族的マイノリティが、毎日の生活の中でどんな目に遭っているか、本当に分かりやすく、見せてくれました。
ひどい、それこそ厳しい状況を淡々と描くのですが、被差別側からの視点なので(そしてアジアンである日本人も被差別側に感情移入しやすいので)、上から目線の「かわいそうなマイノリティ」感はなく、サバイバルする姿として見せてきます。
そしてさらに、もう少し引いて考えて見ると、この映画の中でのバカなポーランド人達の一言ひとことは、日本でのバカな日本人の、例えば在日朝鮮人への、バカな(無知で無邪気な)一言ひとことと瓜二つです。身に染みる感じ。
ボブリックまりこ監督は福岡県出身の日本人との事ですが、日本に住むマジョリティとしての日本人にも、この映画を見てマジョリティとしての自身を振り返るきっかけになる事も意図しているのでは、と想像しました。
厳しい状況を淡々と描くからこそ、その中にある優しさ、他人への思いやりなどがじわっと染みてきます。肯定的なものに繋げていきたいという、監督の強い意志を感じました。本当に映画らしい、いい映画でした。

 

『メタモルフォシス』

少なくとも日本では既に使われない「真性半陰陽」の言葉が映画内で出てきたり、最近はあまり使われない用語「インターセックス」の映画として紹介されているなど、やや警戒しながらの鑑賞。学校とかキリスト教とか、以前見たフィリピン映画の『ビリーとエマ』と設定がやや似てるなと思って見始め、だんだん引き込まれていった。
この作品の最大の強さは、主人公アダムのたくましさ。本当に強い。終盤、プロム(ダンスパーティー)にスカートを履いていくとかは、クィアに寄りすぎていて実際にはなかろう、という印象と、両親にも友人にも受け入れられて本人もあれくらい強いなら、今どきの若者ならあり得るとも思わされるストーリーで、せめぎ合う感じ。
映画の中で、「アメリカでは(本人の意思とは無関係に勝手に手術された事に)抗議も起きている」などのセリフが出てきて、米国での当事者達の闘いの歴史と成果に、こんな形で映画の中で触れられたことが新鮮だった。
インターセックスというアイデンティティを用いるかどうかは、地域性や個人的な状況によってもいろいろで、一般的な言い方ではなんとも言えないところ。
ただ、ラストシーンで、外性器を明示的に映す必要はなかったのではないか。身体も受容したアダムの強さとして自然にみせたかったのかもしれないが、そこまで強くあれるものなのかな。私には、非当事者の覗き趣味に応じてしまった(インターセックスを見せ物にした)と感じられた。その点が残念。

 

『家に帰る道』

とても良かった。映画の力を感じる映画だった。性的な暴力があった時、それが単に加害者と被害者の間の出来事に留まらない影響が実際に出てしまうという現実に、ちゃんと向き合って描いた映画だった。また、本当に良心から被害者の事を思う近親者男性のウザさとか、被害者が「典型的な被害者」を演じさせられかねない現実とか、サラッと描いている。そしてこの作品も、主人公のジョンウォンの主体性が強く描かれ、「被害者萌え」として搾取できないくらいだったのが、とにかくよかった。
具体的に何があったのか、ジョンウォンは夫に「あなたには話したくない」と言って話さない。夫は、話してもらえない事実を引き受ける。【事で、被害を分有する。(※昨夜寝る前に勢いで書いてけど、やっぱりちょっと違う気がするのでここは削除。一文を後に追加。3/16)】お互いが別の人生を生きていることを明確化しながら、しかしそれでもつくられ続けられる人間関係は、心地よい。
1人でも多くのひとに観て欲しい映画。

 

『君の心に刻んだ名前』

映画前半の、若い男の子達の暴力的な文化やコミュニケーションのやり方が、本当に心の底から私は嫌いなんだという事を、改めて確認させられた映画。男は全員去勢したらいい、とすら言いたくなる。前半は、嫌悪感しか感じなかったくらいだ。ただ、後半のストーリー展開を見たら、監督の意図は理解出来たので、それ以上は言わない事にします。
ゲイの擬装結婚を描くといつも妻の描写が最悪でウザすぎる事が多々あるけど、そこも最低限はクリアして、少しは時代が進んでいる事もわかる。
しかし、男性特権にも向き合うゲイ男性の映画には、いつ出会えるんだろうか。

有色トランス女性達が立ち上がり声をあげたストーンウォール暴動は1969年6月28日

有色トランス女性達が立ち上がり声をあげたストーンウォール暴動(米国ニューヨーク)は1969年6月28日。
米国LGBT運動の転換点としてよく言及されます。
今年はその50周年です。

ストーンウォール暴動から50年目の今年6月、映画の上映を含む企画がいくつかあります。
声をあげ闘ったトランス女性たちの姿をスクリーンで見てほしい。
そして、トランス女性たちが何を訴えているのか、知って欲しい。
トランス女性たちは、セクマイ内部のトランス差別とも闘ったことを知って欲しい。

以下、上の二つは関西クィア映画祭が協力している企画、三つ目の京都の企画は関西クィア映画祭が主催するミニ企画です。ぜひご参加下さい。

▼6/8土・東京PURX

『Happy Birthday マーシャ!』上映ほか

https://mobile.twitter.com/PURXinfo/status/1134013901840928768


PURX PRE-OPEN
映画上映 & レクチャー | 2000 YEN (ドリンク別)
東京都台東区竜泉1-1-2

▼6/29土・東京ウィメンズプラザ 視聴覚室
『Major(メジャーさん)!』上映会

ストーンウォール50周年記念 映画「Major(メジャーさん)!」上映会 | Peatix


上映会(1) 13時から14時半(開場:12時45分) 
上映会(2) 15時から16時半 (開場:14時40分)  
 ※2回とも同内容を上映します。
 ※上記サイトで前売チケット購入できます

 

▼6/29土・京都大学・吉田寮食堂
ストーンウォール暴動50周年★関西クィア映画祭ミニ企画

【6/29 京都】ストーンウォール暴動50周年★関西クィア映画祭ミニ企画

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この問題を考えるための参考までに、
書いておきます。
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●「ゲイの暴動」と呼ぶことの問題

この「ストーンウォールの暴動」は、しばしば、日本語でも「ゲイの暴動」だと言われてきました。
しかしこれは正確な表現ではありません。より正確に、有色トランス女性達が立ち上がり声をあげた暴動だ、と認識し、表現することが、いま必要とされていると思います。
(シスジェンダーの)男性同性愛者を中心とした不適切な歴史観から抜け出すことが、今求められているのです。
トランス女性に対する差別は、社会全体だけではなく、セクマイ/LGBTコミュニティーの内部にも、当時から今もあり、それに抵抗することが今もまだ必要だからです。


●映画『ストーンウォール』は厳しく批判された

米国で2015年に作られた映画『ストーンウォール』は、白人のシスジェンダーの男性同性愛者を暴動の主人公にして描いたため、米国のセクマイ当事者たちから厳しい批判をあびました。それは歴史的な事実に反している、と。
実際、50年前に起きた「ストーンウォールの暴動」で最初に立ち上がったのは、プエルトリコ系のトランスジェンダー女性シルビア・リベラさんと、黒人ドラァグクイーンのマーシャ・P・ジョンソンさんだと言われています。
歴史の事実を歪めて作られた映画『ストーンウォール』は、まず何より「白人による横領(ホワイトウォッシュ)=有色人種への差別」であり、そして、シスジェンダーの同性愛者による横領(=トランスジェンダー差別)、男性による横領(=女性差別)でもあります。
今こういった批判が起きるのは、米国のコミュニティー内部にも、今も、有色人種への差別/トランスジェンダー差別/女性差別があり、それに抵抗することが必要だからなんだと思います。

【参考】

映画『ストーンウォール』が史実を無視しシス白人男性をヒーローに。ボイコットに2万人が署名 - 石壁に百合の花咲く




●英語の「GAY」と日本語の「ゲイ」とは意味が違う

英語で「GAY」は、「男性同性愛者」という意味で使われることもありますが、「男女という制度」や性別規範に外れる人たちを総称する意味で使われる場合もあります。50年前の「ストーンウォールの暴動」を英語で「GAYの暴動」と言う時には、後者の意味です。
しかし日本語で「ゲイ」と言った時には、それは「男性同性愛者」を主に指します。セクマイ全体を包括するような意味で、日本語の「ゲイ」という用語が使われることはほとんどありません。
だからこそ、「ストーンウォールの暴動」を日本語で「ゲイの暴動」と言ってしまうことは、事実に反する不適切な行為となります。
先にも見たとおり、そもそも「ストーンウォールの暴動」は「シスジェンダーのゲイ男性の闘い」ではありませんでした。でも日本語で「ゲイの暴動」と言ってしまうと、それは、「ストーンウォールの暴動」が「シスジェンダーのゲイ男性の闘い」であったと言ってしまうことになるからです。


●東京レインボープライドの不十分な記述

また、東京レインボープライドも、以下のように記載しています。

ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン」で、ゲイ(今でいうところのLGBTQ+)たちが警察の手入れに対し初めて抵抗し、それは数日間にわたる暴動に発展しました。いわゆる「ストーンウォールの反乱」です。

ABOUT TRP2019 | 東京レインボープライド

上記に書いたように、抵抗の主体として日本語の「ゲイ」を使用するという問題があります。
それに加えて「初めて抵抗し」と書くことで、「ストーンウォールの暴動」の前年にトランス女性たちが起こした「コンプトンズ・カフェテリアの暴動」の存在を消し去っています。トランスジェンダーの人たちの闘いを無視する不適切な態度です。東京レインボープライドには、(シスジェンダーの)ゲイ男性を中心とす歴史観に、明確に距離をとって欲しいと心から思います。
【参考】

コンプトンズ・カフェテリアの反乱 - Wikipedia


●日本のトランス女性への差別

日本でも、セクマイコミュニティー内部における、トランスジェンダーやトランス女性への差別は、続いています。
「WOMAN ONLY」を掲げるクラブが、法的に女性IDを持つトランス女性の入場を拒否して、トランス差別だと問題になっているのは、今年の東京での事件です。
【参考】

wezz-y.com




●日本の人種差別

米国のセクマイコミュニティーやLGBT運動の内部における人種差別の話をするのが得意な活動家や学者/院生は一定数いますが、その同じ人たちが、日本社会や日本のセクマイコミュニティー/LGBT運動の内部にある日本の人種差別/民族差別に対して、同様に熱心に問題化するのを、ぜひ見てみたいとわたしは心から思っています。
国勢調査に関しての松浦参議院議員(当時)の国会質疑「セクマイだって日本国民」は、文字通り分かり易い外国人差別発言でしたが、これを批判する声は広がりませんでした。クィア学会は、学会発表を日本語に限定し、それが批判を受けても日本語要件を維持し続けるなど、分かり易い日本人中心主義を実践しました。
「私たち」の中でも、課題は山積です。
【参考】

京都スペシャル - 日本のレイシズム—朝鮮人差別への無関心 « 関西クィア映画祭[KQFF] 2012



 

6/29(土)に、京都大学・吉田寮食堂で開催の

【6/29 京都】ストーンウォール暴動50周年★関西クィア映画祭ミニ企画

では、こういった問題についても取り上げていきたいと思っています。
ぜひ、お越し下さい。

ひびの まこと

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