「甘々と稲妻」第1話「制服とどなべごはん」に見る"理屈と視点"
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甘々と稲妻 プロモーションムービー ロングバージョン
おとさん中村悠一、ちゅむぎ遠藤璃菜、小鳥ちゃん早見沙織、ということで、中村悠一&早見沙織というとTVアニメ「さすおに」を思い出す方も多いようですがわたくしとしてはやっぱりね、京介とあやせのね…幸せになってもらいたい…。
そしてこのつむぎ役の10歳の遠藤さん。いいね。まいりましたね。もう冒頭の「おとさん、おはよー!」で「あ、こらいかん」といったん録画を止めて、お風呂で身を清めて正座しましたよね。いやもうこれは略式ではない本式でおもてなしに来たとわかる、わかるんです。
そして超高音の「はい!」(はキッに聴こえる)で「うは」すごいな、となんだか超絶技巧のヴォーカリストのライブみたいな楽しみ方になりつつ。
どういうおはなしか
「料理もの」というククリになると思います。「クッキングパパ」みたいなね。「食べ歩き」「グルメレポート」ではない。
料理に慣れないおとさんと、とある事情から包丁を持てない女子高生と、生まれて何年も経ってないため料理をしたことのない少女のお話。
とはいえ、レシピをとにかく教えてやろうというクックパッド的な面、教育面はそんなに強くないかな。
つまり
「みなさん料理してますか」
「いけませんね、私が普段ろくなもの食ってないお前らに教えてあげます!」
「これ、食べたことないでしょう。わたしは食べた」
という感じではない。私はそういうのも好きですけどね、別にそれでもいいんだけどそういう厚かましさはあまりなくて、むしろ「誰かと、食べる」ということの状況を丹念に描いてやろうというところがあって、いいバランスです。あれだね、「秋山優花里の戦車講座」はあくまで特典映像で、ガルパン本編にはあまり出てこないみたいなもんだね。
けなげと理屈
で、第1話。いまのところニコニコ動画やバンダイチャンネル、Google playその他各種で第1話無料で見られるみたい。
play.google.com
2話以降216円均一らしいね。まあスーパーカップ超バニラよりは高いけどハーゲンダッツより安い!妥当!
これ見ているとつむぎちゃんが健気(けなげ)でね。健気ってことは、気を使ってるってことです。
「まじがる観ていい?」とか歯磨きの仕上げとかおとさんは先生らしく様々なルールを明示的に決めてるようですけど、これは規律。それとは別にお父さんに気を使っている。
「黄色のまじがるもいいんじゃない?」とかね。ピンクがない、と怒るよりもおとさんのピンチに気遣ってる。
「今日もおべんとう?」でぐずるけど、いやとは言わない。(ここで、おとさんは眠くてぐずってるのかと思ってるらしく、気づいてない)
もっとはっきり出てると思ったのは「お弁当美味しかったか」と聞かれ小さく「んー、こんくらい?」と言う姿ね。そしてちょっと気づきかけるおとさんの気落ちした姿にちゅーをする。つまりこれね、作ってくれていること、おいしくなかったといえばおとさんが傷つくということをつむぎちゃんはわかってるんだね。自分の不満よりまずおとさんを励ますことを優先している。
そしてやっと、「ママにこれ作ってお願いして」でやっと父ちゃん気づく。母が作るような美味しいご飯を求めてる。父ちゃんだってもちろん普段から娘を気遣ってるわけですが、おとさんだって…わからないことくらい…ある…。
さらにつむぎさん、「まだげんきない?」お父さんが元気がないのを気にしてる。
今回の話、おとさんが「一人で寂しい娘」においしいごはんを食べさせてあげるエピソードではあるんだけど、つむぎ視点もあると思うんだ。「おとさんといっしょに食べるのひさびさねー」おとさんに一人で食べさせちゃって、可哀想だな、というね。
それがよく出ているのが、「食べるとこみてて!」なのよ。「食べてみ!ね!?」
これはまるで、元気が無いいきものに母親が「美味しいから食べてみなさい、わたしの食べてるところ観て真似しなさいほら」と教えてるかのようですよ。母性なのかなんなのか、小さいくせにおとさんを気遣っている。
ちっちゃいけど、この子の脳にはちゃんと理屈が入ってる。もちろん子供ゆえの大きく常識に欠けるところもあるけども、自分勝手なだけではない。そういう状態を「健気」と呼ぶわけですが、それでもときに素直に言いたいことを言う。絶妙なバランスで学習されている。なかなかこうはね、できませんよ。えらい。たいしたもんだ。
理屈、というと、最近では「損得勘定」とかね、「打算」とかね、とにかく利益をいかに導くかという、もう「ストーリー」って言葉すらそういうものだとする意識高い風潮があり、それを毛嫌いして「理屈ではない、無償の愛」とか言ったりするひともいるんだけども、つまりこれ「タダで愛を提供しろよ」vs「愛は2話以降有料です」なんだけども、その間に漂う「ちゃんと計算された理屈としての善意や気遣い」もあると思う。
お父さんの「ルール」、つむぎを育てるための理屈。
つむぎの「気遣い」、おとさんを慰めるための理屈。
そして多分ことあとやってくる、小鳥ちゃんの学校の生徒として&料理の先生としての理屈。
愛、たべてる?
原作の1話、今回のアニメ第1話に相当する部分が無料で読めます。
afternoon.moae.jp
アニメとのニュアンスの違いを味わうのも楽しいですね。いやほんと、どっちもいいと思うよ。
まあ…この流れで案の定原作全巻まとめ買いして読んじゃったわけですが。
- 作者: 雨隠ギド
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/09/06
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作者の雨隠ギドさんはBLや百合も得意と知って、前述の気遣い合戦も腑に落ちるところがありました。いやそういう恋愛ものって、詳しく知っているわけではないんであれですけど視線と視線の、気遣いと気遣いとが、理屈と理屈が、ストレートな欲望にまぎれて交錯する、もう心理戦情報戦になる側面あるじゃないですか。複数の人間ドラマが込み入った人情噺。そういうのが得意なひとが料理を題材に書くとこうなる例、みたいな。なるほどなあ。
そしてやっぱり、この作品は最初に書いたように「みんなと食べると美味しい」というイデオロギーのもので、これは「孤独のグルメ」の
「いや、別に一人で食べたって、メシって旨いですよ」
食べるってのはそういうことですよ、むしろ一人のほうがしみじみ、旨い。という概念とは真逆のものです。
大体ね、私は孤独のグルメ側なのね。「愛、たべてる?」「たべてまてん」系。というかね、正直に言えば嫌いなのよ「みんなで食べれば(どんなものでも)おいしい」→「そうでなければ絶対不味い」みたいなあれ。例えば忙しい仕事中立ったまま一人齧るおにぎりだって、「よし、腹にエネルギー入れておくか」「やったるで!」状態で気力が充実してればべらぼうに旨いんだけど、事情も味覚もおかまいなく「あらかわいそう」「ひどいわねえ」で引き潰していく、あの、かわいそうハラスメント?赤ちゃん警察?あれみたいな感じがしてたわけです。
しかしこの作品は違うように思う。これは第1話ですでにわかるんだけど、標語的に無反省に「みんなと食べるとおいしいね!」を取り入れるのではなくあえて「一緒に食べられない存在(母)」を置くことで「みんなで食べるってどういうことか」に踏み込んだりしていて、あともちろん「こう作れば美味しい」という理屈があって、こういうのは好きだな。
多分食事ってのは「人間がうっかり内省的になる瞬間」なんだろうと思う。ニーチェの
大きな苦痛こそ精神の最後の解放者である。
この苦痛のみが、われわれを最後の深みに至らせる
もきっとそういう路線なんだと思うけど、お腹が痛い時に「お腹が痛いと考えている自分のことを考えている自分のことを…」みたいな、要するにトイレが一番哲学的になれるってのと似てますね。
油断すると食べ物、味覚、体調、食ってる自分…と生き物としての自分に向き合っちゃう。だから、孤独のグルメのようにあまり食事のことについてひとりで考えるのは、危険なことなのかもしれない。「あーそういうのやめやめ!楽しくやろうよウェーーイwwww」って軽くやり過ごしたほうがいいときもあるだろうけど、無言で共感する仲間がいてもいいよね、っていう。「なんだお前も下痢か」「さっきのなにかやばかったんですかね」みたいな。いや別に甘々と稲妻に腹痛シーンなんてないけど。どうしてこうなった。「さっきの美味しかったですね」「そうですね」と書くべきですねすいません。
深淵の食事を見ているとき、深淵もまたご飯を食べるこちらを見ているのだ。
ともあれ、この先、ただ料理を披露されるだけでもなく、おとさんの調理技術、つむぎちゃんの理屈、小鳥ちゃんの世界、が育っていくのを我々は見守ることになると思います。楽しみです。