権威主義はびこるダークな世界で、エリート主義な「徳倫理学」が流行る「意味と危うさ」
今月、老舗有斐閣から新著『社会倫理学講義』を刊行させていただく。これは大学学部レベルの倫理学の教科書、つまりはマスコミや公務員試験レベルにもだいたい対応する教養書として使われることを意図して書いたものである。
本書の背後には、自分で書きやすくするために、そしてそれを読み解ける・なんとなく察せる読者のためにはわかりやすくするために、ある種のストーリーと言うか、物語を潜ませている。このような物語を設定することは、本当は哲学的な探究を進める際には、話を見えやすくする効能以上に、むしろつまずきの石となったり目隠しになったりする危険が大きいのかもしれない。
だが本書は初学者のための概論的入門書ということで、不正確でも大きな見取り図をとりあえず提供するのが趣旨であるので、ここでは危険については敢えて目をつぶっていただきたい。その見取り図をたどっていくと、近代において発展してきた「人間の平等」という考え方に対して、いま、人の序列化を呼び込みかねない「徳倫理学」という発想が挑戦状を叩きつけている――そんな構図が見えてくるだろう。
では、その見取り図をたどっていこう。
信仰からの自立
西洋の学問の歴史に即するなら、ルネサンスと宗教改革を経て大体17世紀あたりに哲学(と科学)の宗教、信仰からの自立が大手を振ってなされるようになる。この場合宗教とは主にキリスト教のことだが、キリスト教信仰の核心は、理性による論証(哲学)・経験的探究(科学)を越えた神からの啓示を、理性的な吟味を抜きにただ信じること、に求められるようになった。そしてその引き換えに、神の啓示から外れる領域については無制限に理性をはたらかせて探究することの自由が認められていく。
乱暴に言えば神が世界を創造したことは理屈抜きに信じなければならないが、その神が作った世界のメカニズムの解明に対しては、神の啓示に示されていない範囲については、人間の自由な探究に任されることになった。