しかし、実は古代のペルシアに神秘的イメージは当てはまりません。古代のペルシアは、軍事力を背景に多くの民族を束ねた2つもの大帝国――ハカーマニシュ朝(アケメネス朝、紀元前550-同330年)とサーサーン朝(224-651年)――を生んだ地だったのです。
ペルシアはいかにして大帝国を生み、そしてなぜ帝国は滅んだのか...... 世界史ファン待望の一冊である、青木健氏による現代新書の最新刊『ペルシア帝国』から、その一部を紹介します!
「ペルシア」の二重イメージ
筆者が問題とするのは、「ペルシア」自体のイメージが歴史上で大きく2つに分裂している点である。しかもそれは、縦に裂けた亀裂ではなく、横に走った亀裂である。
つまり、紀元後10世紀を顕著な境界線として、「ペルシア」はまったく異なった相貌を見せるのである。これは、単に「ゾロアスター教/イスラーム」という宗教交代を指すのではない。それはむしろ表層の出来事に過ぎず、奥深いところで、「ペルシア」が持つ性格確実に変わってしまったのである。
この状況を後世から見た場合、しばしばこの二つの相貌が二重写しになって、人を惑わせる。以下では、読者にとって馴染み深いと思われる10世紀以後の「ペルシア」の紹介から始め、ついで、それとはまったく違う10世紀以前の「古代ペルシア」に説き及ぶ。
文学と神秘主義
現在、ペルシアと言えば、当のイラン人にとってさえ、先ずは(近世)ペルシア文学の淵叢としてイメージされる。
アブドゥッラー・サァディー(13世紀)も、モハンマド・シャムスッディーン・ハーフェズ(14世紀)も、ともにペルシア州出身の大詩人である。これに加えて、両名ともにイスラーム神秘主義者を兼ね――当時、文学と神秘主義は一体化していた――、下っては12イマーム・シーア派の神秘哲学者モッラー・サドラー・シーラーズィー(17世紀)もペルシアの古都シーラーズ出身なのだから、「ペルシア」イメージには神秘主義の色彩も色濃く揺曳する。
ここに、ペルシア特有の薔薇のイメージが纏綿(てんめん)すると、「ペルシア」は芸術と思想によって代表される桃源郷の姿を以って語られることになる。
だが、本当はそうではないのだ。少なくとも、それはある時代の事実を言い当てたに過ぎず、つまりは7世紀〜10世紀に300年間かけて進行したイスラーム化以降のペルシアに対してのみ当て嵌まる。このような像は、イスラーム以前の「古代ペルシア」にとっては、まったく妥当しないと筆者は考えている。