朝鮮人犠牲者追悼のウラで行われた「虐殺を否定する」慰霊祭
なぜ死者は冒涜され続けるのか3万8000人が命を落とした公園
大相撲で知られる両国国技館から本所方面に向かって歩くと、緑の木々に囲まれた公園にたどり着く。都立横網町公園(東京都墨田区)だ。
敷地の一角に置かれた鉄の塊は、1923年(大正12年)に起こった関東大震災による火事で溶解した機械類である。焼け焦げて原型をとどめない鉄の塊は、この場所で起きた惨状を物語る。
かつては旧日本陸軍の被服廠(軍服などの製造工場)があった場所だ。96年前、ここを公園に整備するための工事が行われているさなか、震災が発生した。公園として機能する前のただの空き地に、震災の火の手から逃げてきた人々が殺到した。住宅密集地のなかに設けられた広大な空き地だ。避難場所として、そこが適地であると彼らが判断したのも当然だ。
しかし、それはさらなる悲劇の始まりとなった。強風で煽られた炎は巨大な竜巻となって、避難民の衣服や持ち込んだ家財道具に飛び火した。四方から襲った火煙に、人々が飲み込まれた。だれもが避難場所だと信じた空き地は、たちまち阿鼻叫喚の様を呈した。
ここで約3万8000人もの人々が命を落としたという。
以来、横網町公園は慰霊の地となった。亡くなった被災者の霊を供養するための慰霊堂がつくられ、毎年、震災が発生した9月1日には同所で都慰霊協会主催の大法要が営まれている。
追悼文を送り続けた歴代都知事
そして1974年からは、同公園内の慰霊堂に近接した一角で、もうひとつの「法要」がおこなわれるようになった。
「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」だ。
文字どおり、震災直後に虐殺された朝鮮人を追悼するものである。
震災直後、関東各地で「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「暴動を起こした」といったデマが流布された。デマを信じた人々によって多くの朝鮮人が殺された。
震災をきっかけに引き起こされた、もうひとつの「惨事」である。
この朝鮮人虐殺について、内閣府の中央防災会議は、2009年にまとめた報告書の中で、次のように記している。
さらに犠牲者数については、震災の全死者(約10万5000人)のうち、「1~数%」、つまり1000~数千人の規模にあたると推定している(ちなみに、震災直後に調査した朝鮮人団体は、犠牲者の数を約6000人としている)。
状況からしても正確な人数を弾き出すことは不可能だが、政府も認めるこの虐殺の事実を否定する歴史家はいないだろう。
こうした歴史的な経緯もあり、73年に横網町公園内に朝鮮人犠牲者の追悼碑が建立され、その翌年からは各種市民団体などの共催によって追悼式典が行われるようになった。
第1回目の式典には、当時の美濃部亮吉・東京都知事が「51年前のむごい行為は、いまなお私たちの良心を鋭く刺します」と追悼のメッセージを寄せた。以来、歴代都知事は、この追悼式典に追悼文を送り続けたのである。
ところが──異変が起きた。