民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

最大の争点は3分の2――第24回参議院選挙後の最悪のシナリオから考える――

地味で退屈な選挙?

参議院選挙の投票日まで、残すところわずかである。今回の選挙は、選挙権が18歳に引き下げられて初めての国政選挙ということで話題となってはいるものの、それ以外の点では、さほど有権者の関心を惹きつけているわけではないようだ。投票率が過去最低になるだろうという予想も出ている。

 

3年に1度、定期的に実施され、現政権の中間評価的な意味合いの強い参議院選挙。確かに地味である。EU離脱の是非が問われたイギリスでの国民投票と比べるなら――レファレンダムと代表を選出する投票との違いはあるものの――、退屈とさえいえるかもしれない。とはいえ、今回の参議院選挙の最大の争点を正確に見分けるなら、必ずしもそうはいえない。今回の選挙は、結果次第で戦後の日本のあり方を根本的に変えることになる、その始まりの選挙と考えられる。もちろん、その争点とは、すでに衆議院で3分の2の議席を獲得している改憲勢力が参議院でも3分の2の議席を獲得するかどうか。すなわち、安倍内閣の下で、憲法改正の発議が行われ、国民投票が実施されることになるかどうか、である。予断は禁物ではあるが、多くの調査を見る限り、改憲勢力が今回の選挙で3分の2の議席を獲得する可能性が極めて高いようなのだ。

 

各党の公約を読むと、TPPから安保法制、同一労働同一賃金などの労働問題、育児や教育などなど、様々なトピックが掲げられている。マスコミの参議院選挙の報道では、その当初から、アベノミクスの評価と憲法改正とが選挙における2大争点とされている。ただ、後者の争点に関していえば、自民党の公約に憲法改正についての言及があるものの、選挙戦では、憲法改正が正面から取り上げられているとはいえない。そのため、争点隠しという批判がちらほら出てきている。もちろん、このような批判をとおして、政党の側からではなく市民社会の側から、つまり、上からではなく下から選挙の争点形成を試みることは、民主的な政治において望ましいことだ。とはいえ、この試みは今回の選挙ではほとんど効果がないようである。そこで、なぜ自民党は憲法改正を争点化しないのか、そのわけを推測するとしよう。そうすることで、選挙後の最悪なシナリオを考えてみたい。おそらく、ここから、この選挙で何が真に賭けられているのか鮮明になるだろう。

 

選挙とその後のシナリオ

自民党が憲法改正の争点化を避ける理由は容易に想像できる。それは、自民党の戦略にある。すなわち、現行の憲法の何をどのように改正するのか有権者に問うよりも、現行憲法の改正が可能となる条件を実現するという戦略だ。換言すれば、憲法改正の内容は後回しに、ともかく、憲法改正の発議が可能となる形式の整備を目指す、ということである。かりに、今回の選挙で憲法改正を争点化するなら、特に改憲に積極的な自民党――それに追随することはほぼ間違いない現在の公明党――やおおさか維新の会などは憲法改正の内容に具体的に踏みこまざるを得なくなる。これは憲法改正を実現する上で望ましいこととはいえない。なぜなら、選挙後の改憲勢力間での憲法改正の発議に向けたとりまとめにおいて、要らぬ足枷を設けることになりかねないからでもあるし、何より、選挙において有権者のネガティヴな反応を呼び起こすリスクがあるからだ。だから、選挙戦では憲法改正を正面から訴えることは得策ではないのだ。そう考えないと、参議院選挙後に憲法改正の最初のステップである憲法審査会を再始動させると自民党のトップが言っているのに、選挙戦でそれを争点にしない現状を説明することは難しい。

 

こうした推測から最悪のシナリオは次のように描かれる。選挙戦では、憲法改正に触れず、有権者がネガティヴな反応を示しにくいアベノミクスにもっぱら世論の関心を向けさせておくことで、参議院で3分の2の議席を憲法改正勢力で確保する。その上で、短期間のうちに世論の抵抗の少ないトピックで改正の原案が国会で提起される。そして、次の衆議院選挙までに数の力で憲法改正の発議までもっていく。こうした戦略は、政治的な計略としては合理的だ。言い換えれば、目的を達成するためには最適なやり方だ。しかし、民主主義的な手続きの上では瑕疵がないとしても、つまり反則ではないとしても、そこには大きな問題がある。これについては、上記のシナリオが万が一現実になったときに詳細に論じるとして、ここでは、それが「最悪だ」といいうる2つの特徴を指摘しておこう。1つは時間の短さである。もう1つは目的と手段の転倒である。

 

最初の特徴に関してはこういえる。憲法改正が実際に可能となる条件は、いつまでも続くわけではない。すなわち、次の衆議院選挙でこの条件は崩れる可能性がある。そうであるなら、自民党が結党以来、党是としてきた自主憲法の制定の端緒が目の前に開かれているのに、果たしてこの好機をみすみす逃すことがあるだろうか。こうして、2018年までという短期間で、憲法改正の発議がなされることになる。安倍首相は、「憲法改正は、3年から4年でできる話ではない」と発言したようであるが、それはいつでも翻される可能性はあるし、そうしたとしても何ら問題はない。70年近く全く手を付けられてこなかった現行憲法をどのような形であれ変えること、まずはそこから始めて改憲への国民の抵抗感を弱め、たとえば、すでに公表された自民党憲法草案の理念などはその後、繰り返し改憲を行う中で実現していけばよいわけだ。しかし、発議までの時間が短ければ、歴史的に蓄積された憲法論争は顧慮されることがないままに、また、十分な熟議の時間も与えられることもないままに、国民投票が行われてしまうことになる。

 

そして、ここから、憲法改正における目的と手段の転倒という2つ目の特徴が出てくる。先に挙げた憲法改正の条件に縛られることで、現行憲法の改正それ自体が目的となり、何をどう改正するのかはそのための手段となる。これは、真剣に現行憲法の問題点を検討した結果、その改正を望んでいる人たちにとっても、憲法改正に反対する人たちにとっても、不幸な事態である。国会での憲法改正の発議の条件が整っている以上、あとは、最大の難関とはいえ、国民投票をクリアすればよい。そのためには、国民には受け入れやすく見える論点――9条などではなく、たとえば、緊急事態条項のような論点――から憲法の改正を行う。憲法改正自体が当座の目的となれば、こうした形での改憲は合理的で現実的な道筋といえる。現在の自民党を中心とする改憲勢力がこの道筋を選択する可能性はないと断定できる人はいないのではないか。とはいえ、自己目的化した憲法改正など、いったい誰が望んでいるのであろうか。

 

最悪なシナリオを現実のものにしないために

このシナリオは、衆参両院において改憲勢力が3分の2の議席を占めるという条件から導き出される、あくまでも想像上のものだ。とはいえ、このようなシナリオを描くことを可能にするそれなりの理由は、スケジュール上の制約以外にもある。たとえば、それは、安倍内閣におけるこれまでの選挙戦術である。その戦術で印象的なのが、経済を争点化することで論争を呼ぶ問題の争点化を巧みに避けてきた点にある。特定秘密保護法や安全保障関連法がすぐ脳裏に浮かぶだろう。そのような問題に関しては、選挙で争点化せず、選挙後に一気に押し切る、こうした手法だ。シナリオにおいては、この手法が憲法改正においても取られると想定している。さらに、安倍首相のこのところのフレキシブルな政治姿勢もこのシナリオを裏書きするものだ。その姿勢とは、米国上下院での彼の演説、戦後70年談話、何より、慰安婦問題日韓合意に端的に見いだされる。そこで印象的であるのは、復古的な政治信念を持つ安倍首相が、まさにそれを表明する好機において、譲歩的な姿勢を示した点だ。もちろん、そこに安倍首相の現実主義的な側面を見出し、政治家に不可欠な老獪さとして評価することはできる。それはともかく、彼の本来の信念に拘らず妥協を選び取る融通無碍な姿勢で憲法改正にも臨む。この可能性はないとはいえない。

 

これらの裏付けがあるとはいえ、あくまでも想像上のシナリオを描いてみたのは、今回の参議院選挙の最大の争点が何かをはっきりさせるためである。だからその妥当性についての云々は無用である――つまり、そうなるといっているのではなく、その可能性があるといっているのだ――。ともかく、このシナリオから明確になる選挙の最大の争点は、正確にいえば、憲法をどう改正するか、あるいは、憲法改正に反対するか、ではない。改憲勢力が参議院の3分の2の議席を獲得するかどうか、したがって、憲法改正の発議の条件が整うかどうか、である。確かに、自民党や公明党、おおさか維新の会などの間には憲法改正の具体的内容に関して違いはある。しかし、憲法改正の発議のためなら、自民党がその違いを乗り越える可能性も大いにある。残るのは国民投票である。しかし、非常に短い期間において、しかも目的と手段が倒錯した中で、憲法改正の手続きが国会で進められるとすれば、改憲派の人からしても、護憲的な立場の人からしても、あまりに酷い話である。なぜなら、日本の歴史における新たな一歩――それを肯定的に理解しようが、否定的に理解しようがいずれにせよ――が、選挙の争点になることもなく、熟議の十分な時間も機会も与えられることなく、さらに、日本がどうあるべきかについての改憲派および護憲派の双方で蓄積された議論も顧みられることなく、自己目的化した改憲のためにあまりに粗野な形で始められることになるからだ。

 

どのような装飾が施されようが自己目的化した政治は、歴史に汚点を残すことになる。その辛酸をなめることになるのは、むろん、国民である。しかし、自己目的化した政治を批判し、未然に防ぐことができるのも、国民である。これが民主政治なのだ。そのことを忘れずに、私たちは今回の選挙で一票を投じるべきであろう。