小松原織香『性暴力と修復的司法』

 このたび成文堂から『性暴力と修復的司法』を出版することになりました。アマゾンで予約が開始されましたので、お知らせいたします。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 元になっているのは、博士論文「性暴力被害者にとっての対話の意義――Restorative Justice(修復的司法)の実践を手がかりに――」(2016年3月)で、出版に際しては大幅に書き換えました。特に、修復的司法に触れたことのない人にも、少しでもわかりやすく伝わるように、第一章の「RJとは何か」の部分は、力を入れて書き直しました。また、第四章では性暴力分野での修復的司法の実践について議論し、米国、アイルランド、デンマークなどのセラピスト主導のプログラムも紹介しています。「実際にどんなことが行われているのか」「フェミニズムとの論争はあるのか」「心理セラピーとの関係はどうなるのか」などの疑問について、少しでも答えられるよう、ページを多めに割いて論じています。そして、第五章では「対話」と「赦し」について踏み込んだ哲学的議論に挑んでいます。こちらの部分はこれからの展開していくつもりですので、叩き台としてご意見いただけましたら幸いです。
 以下にサンプルとして、一部を掲載いたしますので、参考としてご覧ください。*1

 「なぜ、あんなことが起きたのか?」
 性暴力被害者が私に向かって問う。「なぜ、私が暴力を振るわれたのか?」「なぜ、加害者は私を選んだのか?」「なぜ、私は愛されなかったのか?」といくつもの問いが続く。そして、最後に性暴力被害者は「私のせいだ」とつぶやく。
 こうした性暴力被害者の葛藤に対して、支援者は「あなたは悪くない」と言う。それは「正しい答え」である。性暴力被害者は何も悪くない。自分を責める必要はない。悪いのは加害者であって、被害者ではない。支援者の「あなたは悪くない」という言葉に、性暴力被害者は勇気づけられたり、納得したりする。そのあとで、性暴力被害者はまた問う。
「なぜ、あんなことが起きたのか?」
 私は性暴力被害者のその問いに惹きつけられてきた。精神科医でトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマンは次のように言う。

トラウマ的な出来事はふつうの人々を神学者、哲学者、法学者になるよう求める。サバイバーはトラウマに破壊された、かつて抱いていた価値や信念を明確に表現することを要求されるのである。どんな年齢のどんな文化の中で起きた残虐な行為のサバイバーであっても、証言はある問いに集約される。それは怒りというよりは戸惑いの中で発される「なぜ?(Why?)」である。答えは人間の理解を超えている 。

 上のようにハーマンは、「なぜ?」の問いの「答えは人間の理解を超えている」と述べている。つまり、いくら考えてもこの問いの答えは出ないのである。これは「世界の終焉」や「死」、「神の存在」についての問いと同じように、哲学の課題なのである。
 私は2005年から2007年にかけて、性暴力被害者の支援団体に関わっていた。とは言え、私はカウンセラーでもなければ、弁護士でもない。具体的な支援の手法を持たないまま、性暴力被害者に出会っていくことになった。私が性暴力被害者にできることはほとんど何もない。何度も性暴力被害者を傷つけたし、怒らせた。それでも、数え切れない出会いの中で、ほかの何にも変えられない経験を、何度も分かち合ってきた。その中の一つが、冒頭で挙げた「なぜ?」の問いである。その後、2010年に大学院に進学し、研究者を志しても、私の頭の中にはずっとこの哲学的な問いがこだましていた。
 私は大学院に進学してから、いくつかの分野の間を渡り歩いて来た。性暴力の問題は法学、心理学、社会学など多くの学問領域をまたがって研究が行われてきた。私も、「イシュー・アプローチ」と呼ばれる方法を取り、性暴力の論文であれば、なんであれ、分野横断的に目を通すように心がけた。そして、博士論文を書くにあたり、最後に残った課題は、やはり、性暴力被害者の「なぜ?」という問いだった。そういう意味では、私の専門は「哲学」である。それは、学問領域としての「哲学」という意味とは重ならないかもしれない。けれど、私にとって「なぜ?」と問い続ける性暴力被害者はもっと広い意味、「知を追い求める人」という意味で、哲学者である。
 私がこの本で焦点を当てたのは、この「なぜ?」の問いを加害者に向ける性暴力被害者である。加害者に対して、「なぜ、あなたは、あんなことをしたのか?」「なぜ、私を被害者に選んだのか?」と問いたいと思う性暴力被害者がいる。それは当然のことだろう。暴力のその場に居合わせた、加害者である「あなた」こそが、「なぜ?」の問いに答えるべきである。
 しかしながら、「性暴力被害者が加害者に会う」というのは危険なことだ。加害者は狡猾で、性暴力被害者を騙し、再び傷つけるかもしれない。また、性暴力被害者にとって、加害者に会うことへの恐怖は計り知れない。こうした状況で、性暴力被害者の「対話」をサポートできるのがRJ(Restorative Justice)というプログラムである。RJのプログラムでは専門のスタッフが、十分に準備をして安全に配慮しながら、「被害者と加害者の対話」を実施する。このプログラムであれば、被害者が加害者に「なぜ?」と問いたい気持ちに寄り添うことができる。この本ではRJについて詳しく述べ、性暴力事例への適用も検討した。性暴力被害者が、加害者からの再被害を受けないように入念なサポートをしながら、「対話」することは可能なのである。
 だが、第三者が性暴力被害者に加害者と「対話」することを強いることは暴力的である。私は「性暴力被害者がRJに参加すべきだ」とは全く思っていない。むしろ、RJに参加することを望む性暴力被害者は稀だろう。それでも、少数の性暴力被害者が語る言葉の中から、見えてくるものを描き出したいと思った。対話を望む性暴力被害者の辿る道筋を追うことで、「対話」を通した個人の「内的変容」についての、新しい風景が見えてくるからだ。この本の目指すところは、性暴力被害者の持つ哲学を探求することを通して、「暴力が起きた後」に私たちが持つことができる「希望」をささやかながら示すことである。

本書の構成
 この本の構成は以下のようになっている。
 本書は、大阪府立大学大学院人間社会学研究科に提出した博士論文「性暴力被害者にとっての対話の意義――Restorative Justice(修復的司法)の実践を手がかりに――」を大幅に加筆修正したものである。
 第1章では、「RJとは何か」について解説したい。RJの歴史は複雑に絡まり合っており、概念としての理解が難しい。そのため、具体例から出発して、これまでのRJ研究の概観をしていきたい。この章の後半では、被害者の視点から見たRJについても考察を行なう。
 第2章では、思想史の流れを追いながら、被害者と加害者の「対話」をどのように考えるのかについて論じる。哲学の「人称の視点」という枠組みを使って、「被害者が加害者に向けて問いかける」ときに、「対話する主体」が立ち上がってくることを明らかにする。この「対話する主体」の概念を使うことで、RJと刑事司法制度を比較して分析する。また、RJとコミュニタリアニズムの思想の類似を踏まえ、被害者がコミュニティの中でマイノリティとして抑圧される危険性を検討する。そこから、ハーバーマスの理論を援用し、被害者と加害者のコミュニケーションが、コミュニティを変えていく可能性を見出す。さらに、フェミニズム史の中で、男女の力関係が不均衡である中でどのように「対話」が可能であると議論されてきたのかを整理する。
 第3章では、性暴力被害者は社会的抑圧により沈黙を余儀なくされているため、「語る主体」となる経験を経るためにはフェミニズムの支援が必要であったことを明らかにする。フェミニズムはセラピーを通して、性暴力の被害を受けた女性たちが「語ること」で回復することを支えてきた。また、女性が法廷で「語ること」が困難であるため、より性暴力を告発しやすくするための改革を訴えてきた。これらのフェミニズムの中で構築された「語る主体」を「回復する主体」「告発する主体」と名付け、「対話する主体」と併せて、性暴力被害者の主体に三側面があると結論づける。ここでは、性暴力被害者の主体の立体的なモデルを示す。
 第4章では、海外の性暴力事例におけるRJの展開を概括する。性暴力に特化したRJのプログラムを紹介し、さらにその有用性についての実証研究を参照する。ここでは、「回復する主体」「告発する主体」と並立して「対話する主体」が、性暴力事例におけるRJを理解する上で重要であることが明らかになるだろう。加えて、性暴力被害者に対するRJについてのインタビュー調査を読み解き、性暴力被害者が「対話」に何を期待しているのかを分析する。
 第5章では、性暴力事例におけるRJに参加した被害者の具体的な経験を、インタビューや手記を参照し、事例を分析する。ここでは、私は被害者と加害者の二者関係で行われる「なぜ?(Why?)」という問いかけから始まる「対話」を「解体的対話」と名付け、コミュニティの規範を創出する「修復的対話」と対比する。そして、「解体的対話」を通して、「被害者が傷ついた内面世界を解体し、被害者と加害者の二者関係を脱していく」というプロセスを描き出したい。さらに、そのプロセスを、デリダの「赦し」の概念と結びつけ、個人の「赦し」がコミュニティに影響を与え、共生のための「希望」になっていくことを論じる。
 以上のように、この本は被害者の心の内側の世界に焦点を当て、極めて個人的な加害者への「なぜ?(Why?)」の問いかけが、波及的にコミュニティ全体の「共生」の可能性を広げていく潜在力を持つということを明らかにする。その私の思考の道筋を、この本を通して、私と一緒に辿ってほしい。

目次

はじめに
第1章 RJとは何か
第1節 RJとは何か
第2節 被害者の視点から見たRJ
第2章 「対話する主体」とRJ
第1節 「人称の視点」と「対話する主体」
第2節 刑事司法とRJにおける人称の問題
第3節 「コミュニティに内包される自己」と「対話する主体」
第4節 「対話」によって実現される正義
第5節 「対話する主体」とジェンダー
第3章 「対話する主体」と性暴力
第1節 性暴力被害者のトラウマと「沈黙」
第2節 性暴力被害者の「回復」と「語る主体」
第3節 性暴力被害者の「告発」と「語る主体」
第4節 「対話する主体」の是非をめぐって
第5節 性暴力被害者の主体の三項関係
第4章 性暴力事例における「対話する主体」とRJ 
第1節 性暴力事例におけるRJ実践の展開
第2節 「回復する主体」「告発する主体」から「対話する主体」へ
第3節 性暴力被害者はなぜ「対話」を望むのか
第5章 「対話」の後に何が起きるのか
第1節 「修復的対話」と「解体的対話」
第2節 「赦し」とコミュニティの役割
おわりに
文献一覧

 第五章では、性暴力被害者が修復的司法の中で行う対話を、「修復的対話」と「解体的対話」の二側面から論じています。ここが本書の中心になると思います。「解体的対話」というのは私の造語なのですが、以下のように述べています。

 こうしたRJの「対話」を通した解放というプロセスは、「対話」の中で被害者と加害者が内的な時間を遡っていくような営みでもある。被害者と加害者は、両者が一緒に出来事を振り返る中で、性暴力の出来事が起きたその時点にまで立ち返る。その暴力を振るわれた瞬間に止まってしまった時計のネジを巻くのである。これは、宙づりにされ、凍りついた性暴力被害者の内的時間を再び進めるための試みになる。
 なぜ、被害者と加害者の「対話」にそのような力があるのだろうか。そもそも被害者である「私」と加害者である「あなた」の間に「共同性」が生まれ、抜け出せなくなったのは、性暴力という出来事が起きたからだ。「対話」では、生々しい過去を振り返り直面することで、「私」と「あなた」の二者関係を再体験し、その出来事は「過去にあったこと」であり「もう終わったことだ」と確認する。そのプロセスの中で、「共同性」の魔術は解けていく。そして、両者が「瞬間的で魔術的な力を持つ出来事」を「他の出来事」と同列に扱えるようになったとき、「私」と「あなた」は二者関係から解放される。お互いの関係に必然性がなくなったからだ。何年も何十年もトラウマで苦しんできた性暴力被害者にとって、この解放の経験は喜びに満ちていることもあれば、喪失感のあまりに苦しみに満ちていることもあるだろう。「なぜ、こんなことに縛られてきたのだろうか」と、時間を費やしたことを悔やむかもしれない。どんなに忌まわしい関係であっても、被害者の内側の世界に根を下ろしていた「共同性」がすっぽりと抜けて無くなってしまうことは、当人に大きな衝撃を与えるからである。それでも、性暴力被害者は「被害者である自己」から解放されることで、人生を前に進めていく。こうした「二者関係からの被害者の解放」をもたらす「対話」を「解体的対話」と名付けたい。
(pp.167-168.)

 独特の言葉回しでわかりにくい部分もあるかと思いますが、詳しくは本書をご覧ください。

*1:校正前の最終稿のため、本当は一部表現が異なる箇所があります