「非中心化」を目前にしてプロが共通に錯覚すること

電子出版に関する議論を見てると、10年前のLinuxを思い出す。

Linuxを思い出すというより、Linuxを見ていた当時の自分のものの見方を思い出す。

当時のLinuxは、手軽なWebサーバや個人用の安価なUNIXワークステーションとしては、充分使えそうだという評価はほぼ定まっていた。議論になったのは、これを本格的な業務用のサーバとして使えるだろうかという所だ。

これが、ちょうど、ブログが手軽な個人の情報発信用ツールとして使えることが確定した今、同じ方法論が、本物の書籍に通用するかどうか、という話と似ている。

私は、アマチュア軍団を迎え打つプロの立場から「サーバは絶対無理」と思っていた。

個人用のパソコンとサーバは、同じコンピュータでも評価する観点が全然違うし、パソコンをやっている人には思いもよらない細部に、いろいろなこだわりがある。具体的には次のような所だ。

  • カーネルが高負荷に耐える設計になっているかどうか
  • 高信頼性を担保する特殊なハードをサポートしているか
  • 落ちる時にマシな落ち方をする工夫があるかどうか
  • 組織的にサポートする体制があるかどうか

おそらく、本を作っている人がブログを見ると、そこに一定の価値を認める人であっても、全体としてプロの評価基準には到底及ばないものに見えると思う。そして、「それを訴えてもなかなか素人衆にはわかってもらえない」と嘆いているのではないだろうか。

そうだとしたら、「電子出版がブログのやり方で従来の本を置き換えるなんてことはあり得ない」と思う気持ちはよくわかる。私も「Linuxが個人用パソコンのやり方でサーバに進出することはあり得ない」と思っていたからだ。

しかし、Linuxは、私が「絶対無理」と思っていた領域で最も多く使われるOSになった。何を読み違えていたかと言うと

裏切り者が出た

「アマチュアのオープンソース軍団」対「プロのサーバ技術者軍団」という見方は単純化しすぎだが、そう単純化した場合、IBMは絶対サーバ側だと思っていたが、こいつが裏切って向こう側に参戦した。

IBMが、専門的な知識を持つ社員をLinuxの開発に参加させ、Linuxを自社の製品ラインの最重要コンポーネントとして、いろいろな所に使いはじめた。これは「ウィキノミクス」という本に詳しく出ているが、オープンソースのコミュニティは当初、「これは何かの陰謀だろ」と警戒した。IBMは、相当気を使いオープンソースのやり方を尊重した上で、その活動に参加した。

私は技術的詳細まで踏みこんで見てはいないので、IBMの貢献がどの程度のものだったのかはよくわからないが、この時期に、Linuxは、サーバ用途で使える方向に急速に進化していった。

電子出版で言えば、佐々木俊尚さんや湯川鶴章さんが、似たような位置になると思う。プロの経験やノウハウを生かしながら、ソーシャルメディアのノウハウを駆使して、従来のブログとは違う水準の仕事をしていく人が、これからもたくさん出て来るだろう。

品質やサービスの評価基準が変わった

また、これと同時に、これまで「重要なシステムでは高くていいマシンを使う」という常識が変わりはじめた。一台のマシンで間に合せるのではなく、一つのシステムをたくさんのサーバマシンで運用して、台数によって性能と信頼性を確保するという「スケールアウト」という手法が一般化したのだ。

Linuxが良くなったとしても、厳密に従来の基準で評価したら、他のサーバ向けOSには負けるだろう。でも、そこを「スケールアウト」することで、システム全体としては、充分な性能と信頼性を確保できる、それを前提としたらLinuxは充分な性能と信頼性を持っている。それで充分なのだ。

そして、これが、コストの構造が変わったことで可能になったことも重要なポイントである。

サーバ用は、ハードもソフトのライセンスも高い。だから、技術的な要因だけが変化して「スケールアウト」が可能になったとしても、コスト構造が変わらなかったら、サーバの台数を増やすことは無理だ。その分だけライセンスやサポート費用がかかってしまう。

LinuxはOSそのものは無料なので、何台増設しても、それだけで直接コストがかかることはない。

「スケールアウト」した本なんて想像できないので、全く同じことが起こるとは思えないが、コストの構造が変わることで、思わぬイノベーションの可能性が生まれてくるものだ。

本の方法をそのまま電子出版にもちこんでも、同じコストがかかるか、コストが下がる分品質が落ちるかどちらかだ。それは正しい。でも、そこに自由度が増えるなら、コストを下げても内容では妥協しない方法が絶対あると思う。

新刊は既刊本と勝負しなければならなくなる。古い本も新しい本もコンテキストさえ流通すれば、同じ土俵で読まれるようになるから。特に文芸書は。

たとえば、このあたりにヒントがあるだろう。今、新刊しか書店に置いてもらえないので、無理してたくさんの新刊を作ってる。それはどんな層のユーザも求めてなくて、作る側の都合だ。それをやめて、その分の労力をユーザ本位の方向に移す工夫の余地がありそうだ。

全機能パッケージ化の完全崩壊

パソコン以前、メインフレームの時代は、コンピュータというものは、ハードからOSからミドルウエアから全部一つの会社で作っていた。そして営業もSEもフィールドサービスも同じ会社がやっていた。

Linuxが出はじめた頃には、この構造は実質的にはほぼ崩壊していたが、それでも、国産メーカ等は、全部自社製品として「全部うちにおまかせください」という感じの売り方をしていた。

ユーザから見た窓口を一つにするというサービスは今でもあるが、それは「全部自社製品」という建前ではなくて、あからさまに「さまざまな構成要素とサービスの窓口をやります」というふうになった。つまり、実際はバラバラでいろんな会社が背後でやっているということを、ユーザに隠さなくなった。隠しようが無くなった。

だから、出版社や編集者の仕事も、消えるわけではないがバラバラになっていくだろう。

そして、執筆者も読者も、そういう機能のうち必要なものだけをバラで求めるか、全部パッケージ化する業者から買うかを選択できるようになるだろう。

これは、どこで利益が出ていたかという手の内をユーザに晒すことになるので、全体として価格は大幅に下がる。

プロが共通に錯覚するパターン

結局、個人用パソコン用のLinuxがそのままサーバに使われるということは起こらなかった。同じように、ブログの内容がそのままiBookStoreで売られて、それが本を駆逐するということも起こらないだろう。そういう意味では、本のプロの人が今考えていることは間違ってはいない。

でも、結局はLinuxはサーバ用にガンガン使われている。そしてそれは、ユーザの目線で見たサービス水準として、従来のものに劣ってはいない。そしてだいぶ安い。

電子書籍は、本の持っている品質やサービス水準を別の形で満たして普及していくだろう。そして、プロの仕事は消えないまでも、相当変わらざるを得ないだろう。

もちろん業界の事情は個別に論じる必要があるが、こういう状況でプロが錯覚しやすいことにはパターンがあるように思う。

サーバ用コンピュータと電子書籍に限ったことではなくて、21世紀、全てのサービスは「非中心化」していくだろう - My Life in MIT Sloan で書かれている多くのジャンルに言えることではないだろうか。

10年前の自分にこのリスト(+Linux)を見せて、「この中で『非中心化』が起こらないのはどの業界でしょうか」と聞いたとしたら、「それは絶対、サーバ用コンピュータです。サーバ用のOSは、一般の人にはとても理解できないほど複雑な仕組みになっていて、そういう仕事は中央集権的な組織が管理しなければ絶対無理です」と答えただろう。

たぶん、どの業界の人も総論でこのエントリに同意するとしても「他はともかくウチの業界だけは絶対無い」と思うのだろう。

仕事が消えないという意味ではみんな正しいのだけど、仕事が残るということと組織や業界がそのまま残るということは違うのだ。そして、その違いを事前に区別することはとても難しい。


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昨年の年末にダライ・ラマのインタビューがTVであっていました。その中で「経済混乱は、お金以外の価値観に気づかせてくれるチャンス」という言葉がありました。