陰謀論から談合論へ、そして「縁側の可能性」としての「フューチャリスト宣言」

「人」という字は、二人の人が談合してもたれあっている姿をあらわしている。

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)
フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

この本は、「談合論」の本だと思う。

「陰謀論」が世の中の全ての悪を「陰謀」のせいにするように、「談合論」は世の中の問題の根源を談合に帰着させる。

茂木
日本にも反体制、ヒッピーっぽい人はいますが、その人たちは往々にして技術をもっていない。しかも、うらめしそうな視点(ルサンチマン)を世界に対してもっている。意欲でも権威の側に負けていることが多い。でもアメリカには全然違うタイプがいますよね。
梅田
テクノロジーがそういう人たちをエンパワーすると信じるのが、シリコンバレーの特徴でしょう。(中略)権威と闘う道具としてのテクノロジーということです。(中略)日本企業の研究所の若い人たちだって、ユーチューブを一年以上前から見ているわけですよ。でもユーチューブを見た瞬間から、俺たちはやっちゃいけないな、と彼らは思ってしまう。その周辺でいろいろな可能性があるのはわかっていてもね。

(中略)

梅田
日本の電機産業は、電力会社と放送局と政府とNTT、ここに納めている部分がかなり大きいんですね。国のインフラを用意するというメンタリティが会社全体にあって、その中に人材が囲いこまれて、かってはそれなりにすごくイノベーティブだった。だからベンチャー企業がそれに対抗するという構図が日本にはなかなかできてこなかった。半導体あたりまではずっと、IT関連製品は国の体制をサポートするものと見ることができたのです。
梅田
ところがインターネットが出てきた瞬間に、インターネットの性質というのは極めて破壊的、アナーキーなので、そこに踏み込めなくなった。「なぜ日本の電機メーカーがインターネットに踏み込めなかったのか」という原因は、すべてそこにあるんですよ。何かをやろうとすると、必ずいまの社会を支えている仕組みに触るから、そこで最後まで行ってやろうという狂気が生まれない。アマゾンやeベイだったら、小売・流通の仕組みが壊れるとか。ユーチューブだったらメディアが壊れるとか。壊して何かをやろう、あるいは壊して新しいものを創造しようということとインターネットの性質はイコールなんです。(P37)

「人」という字は、二人の人が談合してもたれあっている姿をあらわしている。

それは、「人」の集合である人間の社会の特質の一つであるが、その特質を極限まで徹底したのが日本社会だろう。

「人」の世界と別にもうひとつの地球が生まれると、二人の著者は言う。それを別の漢字一文字で象徴するとしたら、もうひとつの地球とは「縁」の世界だと私は思う。

縁はエッジを意味しており、「縁側」とは、自分のベースの中でトラフィックに面した側面である。ブログとは「縁側」であって、そこをたくさんの人たちが通り過ぎる。「人」という漢字の談合のジャンクションは内を向いているのに対して、「縁」は外を向いている。

「縁」の世界は、「人」の世界に対して破壊的であり、茂木さんはそれを酸素に喩える。

酸素は地球の歴史で最初の環境汚染であり、地球生命全体の危機であった。当時、便所はまだなかったが、もしあったら「便所の○○」と呼ばれて危険視されたことだろう。酸素による代謝の運ぶエネルギーが大きすぎて、それを安全に扱うことは困難だったのだ。幸いにも地球には多くの「フューチャリスト」生命がいたらしく、地球はその危機を乗り越え、もっとダイナミックな新たな形態の生命が共存する世界になった。

そして、我々は今、「縁」の可能性を拡大する別のテクノロジーに直面しているだ。