昭和56年当時の「恩徳の幽霊屋敷」内での記念写真。
当時は屋根が健在で、当然床も畳もしっかりしていた為に寝泊りは可能であった。しかし歳月を経て屋根が落ち、今では荒れ果て、とても寝泊りができる状況では無い。
ここ↑はまだ床がしっかりしている。 ここの台所ではよく包丁を切る音がしたという。
実は霊感が強い人間に言わせると、母屋よりもこの↑脇の小屋の方が怖いという。
恩徳の幽霊屋敷
この家に住んでいた人々は昭和50年頃に遠野の町へと引越し、それから空き家となった。昭和54年に恩徳の林道工事に来ていた新里村の作業員14人、5人がその空き家を借りて仕事に通っていた事があった。ところが夜な夜な怪奇現象が起きた為に、宮古市内の日蓮宗系寺院である本照寺から住職を呼び、その空き家でお祓いをしてもらったところ「ここに、私と同じ職業の者が埋まっているようだ。」という事を、その住職は語ったという。
この空き家は、恩徳という地の一番上にある家で、昔は立ち丸峠を越えようとする旅人は、よくこの家で宿をとったという。まだ山は霊界であり、闇には魑魅魍魎が跋扈していると思われている時代というのは、旅人は恐ろしさ故に、峠の途中で灯りを探し、一晩泊めてもらうという行動にでたのであろう。
実は恩徳では昔から有名な、八卦置きで有名な平助という人物がいた。その平助という人物は、自分の家に骨が埋まってあると占っていたという。その平助の長男は狐に憑かれたと評判になったが、なんでも「魔物だか、死んだ者とかがこの家から出るから清めねばならない…。」と暴れていたという。そして「この家に祟りがある。」と、家に火を放ち家屋を焼いてしまったのは、昭和25年の5月であった。そして焼け跡を掘り起こしたらやはり人骨がでたのであると…。平助の孫にあたる者が金塊を持っており、平助が屋敷の側を掘った時、矢立が出てきたという。金塊、矢立は六部が持っていたとされる物品なので、六部殺しの噂は絶えなかったという。その平助の本家がこの恩徳の幽霊屋敷と云われる廃屋なのである。
貧しい時代は、六部殺しという伝承?も蔓延していた事からか…いや実際に旅人という異人は、お金を所有している事から旅ができた為、訪れた地で金品を奪われ殺され祀られた(注1)伝説は、全国で数多くある。もしかして、やはり恩徳のこの屋敷では六部殺しによる怨念が渦巻くのかも…。
自分は昭和55年、56年と、この幽霊屋敷に2度程泊った事がある。
ここの紹介は
「わたしの怪奇体験談」を読んで欲しい・・・。
それと、この恩徳屋敷に訪れるまでには蛇の試練を抜けて欲しい。知らぬが仏なのだろうが、実は”蛇”がメチャクチャ多い!気にしない人はいいけれど蛇嫌いの方は心して行かれよ・・・(^^;
注1 中国から伝わる御霊信仰なるものがある。これは人を殺すと祟られ呪われるというもの。だからこそ、呪いと祟りを避ける為に殺した後に祠を建て祀り崇めるのである。小さな部落単位では、小さな祠となるのだが、これが国家規模にまでなったのが出雲大社などである。