不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
ja
dostoev
2025
Sun, 02 Feb 2025 11:05:14 +0900
2025-02-02T11:05:14+09:00
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2013-06-01T12:00:00+00:00
不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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野良子猫
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<![CDATA[
去年の11月20日頃から毎晩、家の猫達が夜遅くなると「ギャァ~!」と騒いでいる。猫達で喧嘩しているか、それとも野良猫が入ってきたのだと思っていた。何故なら裏口に、自由に出入りできる猫の入り口があるからだ。しかし、毎晩騒ぐとなるとなんだろ?と意識していた。
ある夜の遅くに目覚めた自分は、トイレに行こうとした。すると、たまたま誘導灯の灯りの照らし出された灰色の小さな動物に遭遇した。その灰色の動物はピョン!と跳ねて逃げて行った。その時は、ネズミの大きいやつ?と思っていた。そして、その後に遭遇した時に、その正体を確認したら子猫だった。灰色と思ったのは、誘導灯の薄暗い灯りで、よく見えなかったせいもあったのだろう。
その頃の遠野は、既に気温が低下しており、かなり寒い日が続いていた。この子猫は、家の猫の出入り口から侵入し、この建物内部に潜んで生活していたようだった。ある日の晩は、プーンとウンチの臭いが漂っているなと思ったら、この野良子猫が家の猫用のトイレでウンチしているのを目撃。ちゃっかり、家の猫用の餌を食べ、猫用トイレを使用し、あたかも自分の住まいのように生活していたのだった。しかし、ある日の事、家の猫に見つかり、家の外へと追い出されたのだった。
何となくその子猫が気になったので、家の猫の裏の出入り口辺りにトレイルカメラを仕掛け、餌を置いてみた。するとやはり、この家に未練があるのか。というより、この遠野の冬の寒空で、餌付きの温かい空間に出入り自由の場所は、ここしかないだろうという判断から、やはり子猫は入ってきた。そして、そのまま家の内部に入り込み、潜んでいたところを保護(捕獲?)したのだった。使っていないゲージがあったので、取り敢えずそこに生活させる事にした。
当初は、誰彼構わず「フーッ!」と威嚇していた子猫だったが、次第に慣れてきて、手にもじゃれるようになっていた。何度触っても大人しくしていたので、もしかしてと思い、外に出してみた。すると、何故かパニック状態になり、そのまま裏の出入り口から外へと逃げていったのだった。さてどうしようかと思ったが、いずれ帰ってくるものと思い、ゲージの入り口を開けて置いたら、4日後の夜、ふと見たらゲージの中に自分で入っていた。
家の猫のランちゃんが、この野良子猫を気に入り、ゲージ越しに仲良く接していた。
さあ、このまま家で飼おうと決心したところ、別世帯で住んでいる息子が一目見て気に入り、この野良子猫を飼いたいと言ってきた。この子猫が長生きしたとして20年。自分は80歳を優に超えているので、息子に託した方が正解なのだろうと、息子にゲージごと譲ることにした。12月の末、家の息子がこの野良子猫を引き取りに来たが、持ってきたケースに鍵がかかっておらず、狭いところに閉じ込められた野良子猫はパニックになり、そのケースの扉をこじ開けて、外へと再び逃げて行った…。
恐らく今回もと思い、ゲージの入り口を開けて待っていたら、間一日経ってから、再びこのゲージに戻ってきていた。外に出たはいいが、遠野の寒空を食べ物も無しに過ごす事を、やはり出来なかったのだろう。そして息子に連絡したところ、すぐに引き取りに来たのだった。わずかな間ではあったが、もうすでにかなりの思い入れが生じてしまい、別れは寂しいものとなってしまったが仕方がない事。今は新しい家に住み、かなり慣れてきたと聞いている。
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民宿御伽屋情報
dostoev
Sun, 02 Feb 2025 11:05:14 +0900
2025-02-02T11:05:14+09:00
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明るい未来の遠野
http://dostoev.exblog.jp/37444735/
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ところで昭和35年の北上市の人口が42979人となっており、この昭和35年の遠野市との人口は、北上市とそんなに差が無かったのには、少し驚いた。そして昭和40年代になっても人口は増えるものと認識されており、このままでは食糧難になるだろうと懸念されていたのを記憶している。バイパスの通る以前の遠野は、遠野中学校より北は、ほとんど田んぼ。それだけ米が必要とされていた時代でもあった。いつしか減反、減反と遠野市の田んぼも減っていき、少子化時代の突入で今では学校が合併され続けている。人は、力である。人が減る一方の地域は、その力が失われていくという事。明るい未来を見つめていた遠野市の行く末は、果たしてどうなるのだろうか。
ちなみに、この昭和38年発行の岩手県地図だが、あからさまな間違いがあった。下附馬牛町を「下附馬子」。そして土淵町を「土源」と記していた。これに気付かなかったのは現在とは違い、この頃の遠野市の知名度が低かった為なのかもしれない。
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遠野情報(雑記帳)
dostoev
Sun, 12 Jan 2025 16:29:24 +0900
2025-01-12T16:29:24+09:00
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「現代遠野物語」 第百二十話(笛吹峠の人骨)
http://dostoev.exblog.jp/33777747/
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<![CDATA[大槌町に、遠野の宮守町から嫁いだ高齢の女性がいる。その女性から聞いた話だが、その女性は、笛吹峠にある能舟木の、俗に"呪い屋敷"と呼ばれる家に嫁いだそうである。呪い屋敷の謂れは昔、旅の女六部を殺した事により祟りにあった事から、近所で「呪い屋敷」と呼ばれていたそうである。
宮守町の女性が嫁いだのは、昭和時代の事であった。その当時の呪い屋敷の姑は、まるで西洋の童話に出てきそうな赤毛の魔法使いのお婆さんの様であったそうだ。実は、その姑の血筋は、笛吹峠の鉱山で働かされていた外国人であった。そしてその姑は、巫女でもあった。ある日、その姑が能舟木から笛吹峠へ抜ける旧道を歩いている時、とある方向を指さして「あそこは、恐ろしい。」と怯え、家に帰った事があった。その後、その姑が怯えた辺りが大雨で流れた時に、おびただしい人骨が出てきたそうである。ただ、その人骨がどういったものなのかは、わからないそうである。
処刑場跡地から、おびただしい人骨が出てくることは、よくある事である。しかし、歴史的に笛吹峠の一角に処刑場があったという話は知らない。恐らく、旅人が殺され埋められた場所の可能性があるだろう。「遠野物語5話」に笛吹峠を避ける話が載っているが、もしかしてこの人骨との関連もあるのかもしれない。
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「現代遠野物語」120話~
dostoev
Mon, 08 Jan 2024 21:47:46 +0900
2024-01-08T21:47:46+09:00
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「現代遠野物語」 第百十九話(処刑場跡 其二)
http://dostoev.exblog.jp/33777676/
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<![CDATA[現在の遠野風の丘が建設される前は、鬱蒼とした森だった。そしてその前の道路では、よく頻繁に事故が起きていたので、地域では何かあるのではないかと思われていた。その森が伐採され、いつしか遠野風の丘が建設された。その基礎工事の中、おびただしい人骨が発見された。簡単に処分できないので、その現場から一番近い綾織の曹洞宗である長松寺に、その骨が持ち込まれてまとめて供養された。その当時の住職は、加藤秀山和尚。飲兵衛で、女好きの和尚だった。
ところでその発見された人骨だが、そのあたり一帯は宮の目の処刑場と呼ばれる場所であった。文献には処刑場の名前は載っているが、詳しい場所は不明であった。その事から、恐らく宮の目の処刑場で処刑された罪人が埋められた地であったと思われる。
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「現代遠野物語」110話~
dostoev
Mon, 08 Jan 2024 21:14:37 +0900
2024-01-08T21:14:37+09:00
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「現代遠野物語」 第百十八話(処刑場跡 其一)
http://dostoev.exblog.jp/33777665/
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<![CDATA[遠野の南の町外れであり、上郷町の来内との間に、遠野ダムがある。現在は、遠野第二ダムが完成した為に遠野第一ダムともいうが、古くは来内ダムとも呼ばれていた。その遠野第一ダムである来内ダムの着工が昭和28年。そのダムが建設される位置から下流域一帯が、ダム建設予定地になっていた。その下流域に栃洞と呼ばれる地がある。そこから、おびただしい人骨が発見された。恐らくだが昔、ダムが建った辺りを"ケッコロガシ沢"と呼ばれた処刑場であった。処刑は夜に行われ、刀で切られ崖下に蹴落とされた事から"ケッコロガシ沢"と呼ばれるようになった。その罪人が埋葬されたのが、栃洞ではなかっただろうか。そして今の遠野第一ダムを渡った山の斜面に、処刑された罪人たちの供養碑が一基建っている。]]>
「現代遠野物語」110話~
dostoev
Mon, 08 Jan 2024 21:06:09 +0900
2024-01-08T21:06:09+09:00
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たましいの歩く街
http://dostoev.exblog.jp/33720904/
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<![CDATA[
「遠野町古蹟残映」に「たましいの歩く街」という記事がある。内容は、下記の通りである。
「遠野町の一日市の下角、大工町と鍵町、新町と続く所に、旅館がある。遠野町の西側一帯の地に寺院が八か寺もある。遠野の人達が死亡すると必ず、ここを通りそれぞれの檀家寺に納ることになっている。霊魂も同じようである。旅館の仏間に就寝しているお婆さんに真夜に仏達が立ち寄る、お婆さん独り言、「くやくやと」一晩語る声がすると必ず誰かが死んでいた。また昭和十九年頃のことである。遠野町の政界を二分していた一方の雄、M氏が死去したので、その旨を、常に政治的に対抗するK氏も病気で伏していたのでM氏が死亡したのを告げると、昨晩M氏の霊魂が寺に行く途中、立ち寄り、「一緒に行くべ」と言うから、私はまだ行かれないと言ったら淋しく立ち去ったと、既にM氏は死亡を知っていた。」
新町という名が出て来るが、新町は寛永四年(1627年)に「多賀の里」及び「六日町」と「一日市」とを結ぶために「新町」を作ったとされる。ところで、その新町には私の檀家である時宗の常福寺がある。新町からその常福寺への入り口のところに、以前はT医院があった。そしてそのT医院が建つ以前は、今は無くなった菊善工務所の一族が住んでいた。元々の土地の所有者は、どうなのかわからないが昭和40年代になり、遠野市で利用するので菊善工務所の一族はその住んでいた土地から立ち退き、代わりに建ったのがT医院だった。
ところで菊善工務所一族が、そこに住んでいる時に、頻繁に幽霊を見たそうである。冒頭の「たましいの歩く街」の解説にあるように、霊魂もそれぞれの檀家の寺に集まって来ていたのだろうか。もしかして、菊善工務所一族の住んでいた地は、常福寺へ集まる霊魂の通り道だったのだろうか。
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遠野怪奇場所
dostoev
Tue, 19 Dec 2023 10:53:23 +0900
2023-12-19T10:53:23+09:00
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夜泣きと乳の粉
http://dostoev.exblog.jp/33716979/
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<![CDATA[
遠野高校の敷地内の一角に、夜泣き神様(夜泣稲荷)の社が鎮座している。赤ん坊などが夜泣きすると、夜中でも行って参拝すると、不思議に夜泣きが止んだという。夜泣きは、今も昔も赤ん坊がするものだが、神様にすがるほど昔は夜泣きに苦労したのだろうか。赤ん坊の夜泣きの原因は、単純に言えば赤ん坊にとっての不快感だろう。蒸し暑い、寒い。煩い。お腹が減った。体調不良etc。不快感を親に訴える為に、泣く。そういう意味では、現代よりも昔の方が不快感は多かったろうと思う。
沢山美果子「江戸の乳と子供」には、乳の出ない母親の代用品としての「乳の粉」の事が書かれている。「乳の粉」とは、寒ざらしにした米の粉を水で溶いで煮沸した乳の代用品との事。その乳の粉の宣伝文句は「ちゝなき子をそたてる薬」と書かれており、現代での過大広告を思い出す。値段を現代に換算すると、一袋が約563円になるそうである。それが高いのかどうかは、なんとも言えない。ただ成分に着目すれば、米問屋あたりが販売すれば、ぼろ儲けになったのではなかろうか。こういう乳の粉というものが売り出される自体が、それだけの需要があっての事なのだろう。この乳の粉は江戸を中心に、四国や東北まで広まっているようだ。「仙台郷土研究」には、一関藩(現在の一関市)の武士が、妻の産後の肥立ちが悪い事から、藩に対して乳の粉の支給願いを提出している事が記されている。遠野は南部藩であるが、恐らく遠野にも乳の粉は伝わっていたのではなかろうか。
ところが、明和生まれの江戸時代後期の絶対主義的思想家である佐藤信淵が、その著である「経済要略」の中で、「世間で「乳の粉」と言って、乳の乏しい家で用いるものがあるが、これを長く用いると背中に酸汁を生じ、或いは癇癪を発す。必要の良法に非ルナリ」と乳の粉に警鐘を鳴らしている。事実、林俊一「農村の母性と乳幼児」によれば、貧しい東北の農村では昭和期になっても乳の粉が用いられ、それが乳児死亡の原因とする調査もなされているようだ。
医療技術の発達した最近では、あまり聞く事が無くなったが、昔は産後に死亡する母親もかなりいたらしい。そうなると、残された父親や、その祖父母が赤ん坊の面倒をみなくてはならない。そんな中、泣きわめく赤ん坊に取り敢えず乳の粉を与える人達がいたのではなかろうか。
以前某テレビ番組で、ある部屋に置かれている物を少しだけ移動して、それをそれぞれ複数の男女にそれを見つけてもらうという実験があった。そして、それを発見するのは全て女性であったと。その番組では、女性は"空間把握能力"が男性に比べて遥かに高いのは、赤ん坊の微妙な表情を読み取って判断できるからだと。だから子育ては、女性が適していると。ところが、それが江戸時代であれば、その母親が亡くなれば、その赤ん坊の死亡率がかなり高まるという事だろう。
もしかしてだがこの夜泣き神様には、貧しい遠野の民が様々な理由から乳の粉に手を出して、癇癪を頻繁に起こした赤ん坊が多く連れて来られたのではと想像してしまうのだった。泣き止んだのは、親に抱っこされ散歩した事から、その赤ん坊の機嫌が良くなったなどの可能性もあるだろうか。
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民俗学雑記
dostoev
Sun, 17 Dec 2023 19:44:59 +0900
2023-12-17T19:44:59+09:00
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イルミネーション
http://dostoev.exblog.jp/33713871/
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平成の、いつからだったろうか。画像の様に、遠野駅前の公園を電飾で飾るようになったのは。それ以前は、こういう公共の場所ではなく、遠野の街で店を営んでいる人達が各々クリスマスの商戦を意識して飾っていた。とは言っても、こんな大々的なものでは無くこじんまりとしたささやかなものだったと記憶している。こういう派手な電飾が行われるようになったのも、LEDの登場が大きいだろう。東京では、こういったイルミネーションがあちこちで飾られ、イルミネーションツアーなるものもあるらしい。まあそれも人口に比例するものだから、遠野はこのくらいで丁度良いのかもしれない。
12月18日に、銀杏の木にもカラフルな照明が当たるようにバージョンアップ。



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遠野情報(雑記帳)
dostoev
Sat, 16 Dec 2023 19:31:59 +0900
2023-12-16T19:31:59+09:00
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天国に召されそうになる曲
http://dostoev.exblog.jp/33681927/
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昔、CDショップを眺めていたら、一枚のCDに目が止まった。「グレツキ交響曲第三番(悲歌のシンフォニー)」という表題が付いている。作曲家のグレツキ…『知らないなぁ…。』。古典的な作曲家は、いろいろな場面で名前を聞く場合があるが、現代音楽の作曲家は、余程じゃない限り記憶に残らない。その当時、現代音楽の枠組みであっただろうストラヴィンスキーでさえ、もう古典的作曲家みたいに感じる。このグレツキの交響曲の三番が作曲されたのは1976年。恐らく、日本という土壌から、このグレツキの交響曲は、かなり遅くなってから宣伝されたと思われる。まあとにかく、このCDを購入し、家に帰って聴いてみた。
自分は、クラシックをじっくり聴く時は、部屋を暗くして聞く場合が多々ある。しかし今回は、布団に入って寝ながら聴くというだらしない格好をしてみたのだった。冒頭、低弦の音が響いている。ボリュームを低く設定していたので、よく聴き取れない。そこで、そこそこにボリュームを上げてみた。しかし、オーケストラ演奏の音楽は、ボリューム設定が難しい。ピアニッシモに合わせれば、フォルテッシモの時に大変になる。ただ、こういう音の強弱が胎児に刺激を与えるので、クラシックが胎教に良いと云われる所以だ。
冒頭の低弦は、ラヴェル「ボレロ」のむように同じメロディーを繰り返し演奏している。それが幾重にも結びついていき、クライマックスへと繋がるのだが、この響きが錯覚を呼び起こす。何と言うか、低弦の響きは重い響きではあるが、とても暖かく心地よい響きなのだ。そして先に書いたように、この曲を寝ながら聴いていたが、いつのまにか自分の体が浮遊し始めたかのように感じてしまう。いやこの時は実際に、体がフワ~ッと浮くような感じになった。
作曲家のグレツキは、ポーランドのアウシュビッツ収容所のある地で生まれたようだ。そして、この「悲歌のシンフォニー」で採用された詩は、アウシュビッツ収容所での少女の詩である事からも、恐らく魂の救済を意図したものだろうか。とにかく単純に表現すれば、体が浮遊し天国に召されていく感覚。実際、天国らしき場面では、美しいソプラノと、悲痛な叫びのような歌も交えていた。説明から想像するに恐らく、アウシュビッツ収容所で非業の死を遂げた少女の悲しみと、天国に召された安らぎが同居しているかのような音楽。
ところで、この曲を最近また聞き始めている。ただ出来ないのが、寝ながら聴くという事。いつの間にか自分自身が、死を意識する年代に突入した。実際に、すでに何人かの同級生も亡くなっているのだから、意識しない筈も無いだろう。ただ逆に、意識するからこそ、この曲を寝ながら聴けなくなっている。何故なら、寝ながら聴いていると、そのまま天国へ行きそうになる曲だからだ(^^;
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よもつ文
dostoev
Mon, 11 Dec 2023 21:31:27 +0900
2023-12-11T21:31:27+09:00
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遠野不思議 第九百四十三話「見返しの滝」
http://dostoev.exblog.jp/33623239/
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遠野各地の滝
dostoev
Thu, 23 Nov 2023 20:04:36 +0900
2023-11-23T20:04:36+09:00
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本当は恐ろしい東北六県の謎
http://dostoev.exblog.jp/33611026/
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<![CDATA[
往時は今の土淵村を中心とし、松崎村の一部、附馬牛村の一部を総称してキタガメ(Kitagame)といへり。キタガメは、蓋し「日高見」即ち「北上(Hitakami=Kitakami)」と同源の夷語に出でたる地名として見るべき如し。
「遠野くさぐさ(キタガメ)」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー遠野から車で107号線を走り北上市へ行く場合、北上の街の手前に北上川が流れている為に、珊瑚橋を渡っていた。ところが後から、日高見橋が造られ、今では普通に日高見橋を渡っている。日高見橋の完成は、平成五年(1993年)。翌年の平成6年には鬼の館がオープンしているので、この頃は北上市が大々的に歴史と民俗を宣伝し始めたのだと思う。ところで「北上(キタカミ)」は確かに伊能嘉矩の言うように「日高見」の可能性はあるだろう。しかし、その前に「北上」は「ホクジョウ」と読む。
例えば「上京(ジョウキョウ)」という言葉がある。以前の都は、平安京のある京都である事から、都を中心とした考えから上京とは、京都へと行く事だった。ところが、徳川幕府が江戸城を構え、中心が江戸へと変わっり、明治時代になり皇居がその江戸城となった事から、今の都は東京という事になり、「上京」するという事は、東京へ行くという事になった。ところが、紀元前から中国の定説であり、日本に輸入された考えが「天地玄黄(てんちげんこう)」であった。これは、東西南北を守護する四神という四方に拡がる水平軸の考えよりも単純な、天と地という垂直軸により成り立っているという観念。そして天とは玄であり、黒。これは陰陽五行において、北を表す。また地とは、黄で示すのだが、これは地面の更なる下の黄泉をも含むものとなる。つまり古代中国の天とは、北の事であった。厳密にいえば、北に聳える山。そして古代中国における玄武とは、水神を意味すると云う。これを日本に当て嵌めれば、北上とは東北・北海道へと向かう事でもある。辞書で「北上(ホクジョウ)」と調べても、ただ単に「北へ向かう事」とだけ述べている。ところが先程述べた「天地玄黄」に則って作られたものが地図である。地図の常に上は、北となっている。これはむ北が天を意味しているからであった。しかし、それでは面白くない人達が大勢いる。例えば、河北新報社の名称の由来は、明治時代の政府の人に「白河以北一山百文」と、東北を軽視した発言に奮起して名付けた社名となったのは、余りにも有名。そんな言葉を吐く明治政府の人間が「北上」が天を示す言葉であるのを、許せる筈も無かっただろう。
東北が軽視されていた明治16年、上野に駅が開設された。明治24年には、青森まで26時間で到達する線路が開通し、"東北の玄関"とまで言われた。しかし"東北の玄関"とは、奇妙な言い回しである。何故なら、風水により鬼門の玄関は不吉とされていたからだ。何故なら、江戸城(皇居)から上野の地は鬼門として扱われていた。その鬼門に"東北の玄関"を設置したのは明治政府だった。わたしはこれに対し、常々違和感を抱いていた。そしてもう一つの違和感は、何故に東北六県だったのか。明治四年(1871年)に、明治政府の行政改革である廃藩置県によって、東北の地は六県となった。
ところで遠野市小友町に、「六地蔵と冥道」という名所がある。謂れは明確でないが、全国に広がりを見せる話から来てるものと思われる。その話とは、「昔ある人物がに夜道を歩いていると、道の分岐点に差しかかったという。ところがどちらの道へ行って良いのか迷っていると、六体の地蔵さんが現れ、行くべき道を指してくれたという。」である。「遠野物語拾遺223話」に六道の石碑の事が書かれているが、"六道"とは「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上」であるとされる。または、第六天魔王などがいる事からも、六という数字は不安をあおる数字である。これが西洋となれば、666は悪魔の数字となる。何故、東北六県なのだろうか。例えば個人的見解だが、津軽と南部の争いから、青森と八戸を分けても良かったのだろうが、同じ青森県に属したのは地形だけの話だったろうか。
東北六県の一般的な説は「陸奥(むつ)」だから「六つ(むつ)」に分けたとの事。しかし「六つ」という用法は、「暮れ六つ」「明け六つ」などで、酉の刻から卯の刻。つまり「六つ」とは、暗くなってから明るくなるまでの"闇の時間帯"に使用する。思えば古代、常陸の国から蝦夷国の境界に、境の明神と呼ばれるものが設置された。常陸国側には、「伊弉諾」が祀られ、蝦夷国であり現在の福島県側には、「伊邪那美」が祀られた。これは何を意味するのかと言えば、「古事記」では"千引きの石"によって、生きている人間の世と黄泉国である死者の世が分けられた。そう、伊邪那美が祀られた側は、黄泉国である闇の世であるという意味となる。まさに六つの時間帯は闇の世である。
東北の玄関である、上野駅に戻ろう。江戸城(皇居)から上野駅は、鬼門である。その鬼門からやって来るものとは誰か。それは、鬼である。さんさ祭の謂れは、坂上田村麻呂が悪い鬼を退治して、村人が「さんさ、さんさ」と喜んび踊った事からと伝えられるが、その悪い鬼とは蝦夷であった。宮元健次「江戸の陰陽師」によれば、青森県には北斗七星型に、七つの神社が建立されたという。神社そのものが、都の文化であった。その七つの神社から、蕨手刀が出土したという。蕨手刀は、蝦夷が使用した刀と認識されている。平安時代、神社は現世利益を唱えて、人を集め利益を上げようとした。現代でも、御利益を期待して神社を参拝する人が、後を絶たない。それが迷信の横行する古代ともなれば、それを信じてどれだけの人が訪れたのか。
「鬼を以て鬼を制す」という言葉がある。例えば、前九年の役で安倍氏が破れたのは、古代東北の蝦夷直径の在地豪族である清原氏の裏切りが大きかった。ある意味、清原氏の裏切りも、鬼を利用して鬼退治した話、つまり「鬼を以て鬼を制す」であった。相撲の四股とは、地鎮祭の原初でもある。つまり地面を踏み固めるとは、その地を鎮める行為である。それでは、青森県の神社に埋められていた蕨手刀は、どう意味だったか。つまり、現世利益を信じて神社に集まって来るのは、蝦夷国の住民。その大勢の住民が訪れる事により、その地が踏みしめられ鎮まる。その下には蕨手刀が埋められているという事は、蝦夷の反乱を鎮める意図があったと思われる。これもまた「鬼を以て鬼を制す」である。
そして、上野駅に戻る。明治政府の人間により「白河以北一山百文」と東北が軽んじられた時代、東北(鬼門)の玄関である上野駅に、何かしらの呪術が仕掛けられた可能性を考えてしまう。文明開化の時代に呪術?と思う人がいるかもしれない。しかし、昭和時代に建立された遠野市の福泉寺の初代和尚は、戦時中に日本軍に呼ばれ、その当時の対戦国であるアメリカのルーズベルト大統領を呪い殺す事を行っていた人物であった。福泉寺の和尚は、呪いという観念が、昭和の時代にも続いていたという生々しい事実の生き証人でもあった。古くは、蝦夷の反乱を恐れて。また新たな時代には、東北の民が常に従順であるように、何かの呪術を上野駅の下に埋められたと考える。ゆえに私は思う「上野駅の下には、何かが埋められている筈だ。」と。
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民俗学雑記
dostoev
Sun, 19 Nov 2023 20:30:04 +0900
2023-11-19T20:30:04+09:00
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琴畑と妙見(其の五)
http://dostoev.exblog.jp/33606870/
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ここで、もう一度「琴畑」という地名を考えてみよう。菊池輝雄「山深き遠野の里の物語せよ」では琴畑の地名の語源説を「先祖は琴の名手で、慣れない畑仕事の合い間に琴を弾き、はるか故郷の加賀の国をしのんだ。」と記している。しかし琴という楽器は、畑仕事の合い間に奏でる楽器ではない。琴は出雲神話での「天の召琴(あまののりこと)」でわかるように、降神楽器であった。これにより、琴の別名は「神懸かり板」とも呼ばれたのは、「琴」そのものの意味が"特別な呪力を発揮する"であった。その琴の響きが神聖な空間を作り出すものと。そして「琴畑」の「畑」は「ハタ」と読む。「ハタ」は秦氏の「ハタ」でもあるが、八幡神社などの「幡(ハタ)」でもある。この「ハタ」とは、神の依り代であり、幡(ハタ)そのものが神としてみられていた。つまり「琴畑」を言い換えれば「神を降臨させる地」とでも言おうか。ただ、その神とは何かという事になろう。
琴畑渓流を遡上し、広又沢方面へ行くと、白望山の登山口がある。「遠野物語」では、多くの怪奇譚が語られる山である。この白望山は、以前は朝倉山と呼ばれていた星見の山であった。それは、過去の記事を参照に「朝倉トイウモノ」。その、星見の朝倉山が、何故に白望山となったのか。ただ、星と白とは関係が深い。白を当初、白山信仰だけの関係で考えていたが、妙見信仰を調べるにしたがい、「白」は鉱山に関わっていたのがわかった。鉱石を「白(シラ)」という事からも、白望山という山名は鉱石を求めた人による命名であろう。「日本書紀纂疏」の記述「星堕ちて石となる」の「石」とは「鉱石」の事を云う。そして、その鉱山との縁の深い妙見信仰と関係する氏族が秦氏である。
以前、琴畑での早池峯遥拝所の場所を聞いたのが、琴畑の奥に住む、俗に「熊吉(クマキッツアン)」と呼ばれる人物だった。その熊吉さんの名字は、現在は琴畑だが本来は「阿蘇」だと述べていた。それが正しいのかどうか、またはどこまで遡れるのかどうか。ところで阿蘇氏と聞くと九州と思いがちだが、土淵が諏訪明神の働きによって開発されたとの話から浮かび上がるのが、信濃国造の系譜に繋がる阿蘇氏の可能性もあるだろうか。
琴畑の集落は、ある意味白望山の麓でもある。琴畑が神を降臨させる地という意味であれば、その神とは白望山と関係が深い神であろう。大和岩雄「続・秦氏の研究」によれば、大分県南海郡の白谷の「白(シラ)」という意味は、穴・洞窟を意味すると。そして、同じ大分県海部郡の白山もまた、洞窟を意味している。また対馬の白岳は、山頂が二つに分かれ、南の山頂を男岩、北を女岩と呼び、その女岩には洞窟があり、女神が鎮座していると云われている。天照大神が天の岩戸に篭ったように、古来から岩屋などの洞窟に入るものは、女神と信じられてきた。伊邪那美も、洞窟を通って黄泉国へ行っているように、洞窟は女性のホトを意味する。つまり、「白(シラ)」が洞窟を意味するのであれば、白望山の神とは女神という事になる。その琴畑には、早池峯の遥拝所が二ヵ所。そして、琴畑渓流の白滝傍の白滝神社は早池峯の方向を向き、早池峯の女神が祀られていた。その早池峯は、白山と重ねられる女神であり、その白山を開山した泰澄は、秦氏である。始閣藤蔵が金を見つけたらお宮を建てると誓ったのは、早池峯の女神に対してであった。そして琴畑もまた、恐らく金を見つける為に移り住んだ秦の民であった可能性があるだろう。
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琴畑と妙見
dostoev
Sat, 18 Nov 2023 08:09:08 +0900
2023-11-18T08:09:08+09:00
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照井さん
http://dostoev.exblog.jp/33589711/
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千城央「エミシとヤマト」に、阿弖流為(アテルイ)の事が書かれていた。
「山道のエミシの代表は、征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、延暦二一(802年)年に母禮とともに処刑された大墓公阿弖流為で、その本拠地は岩手県奥州市水沢の辺りにあって、実名は「照井」であったと推測されます。」
わたしは、阿弖流為(アテルイ)という名前に関しては調べる事も無く、ただ古代蝦夷独特の名前であり、単純にそうなのかと思っていただけだった。それが実名が「照井」となれば、遠野市にも何件かの照井さんがいる。遠野市の電話帳で確認すると、36件の照井さんがいた。その照井さんを悪く言うわけではないが、天平年間以降国家反逆罪を犯した首謀者は、斬首や島流しに加えて侮蔑的な姓名に改められた事から、阿弖流為(アテルイ)は「大馬鹿の頭領で安保の照井」という姓名に改められたとみられているそうである。
阿弖流為(アテルイ)という名前だが、以前に読んだ及川洵「蝦夷アテルイ」において、「アテルイ」の名前について述べていた。元は「アテリィ」という名かもしれないと。またアイヌ語で解釈しようと「アッテルイ(気前のいい)」ではないかなどと。また他には「アクルイ(弓の名人)」など、アイヌ語で試みるもどれもしっくりきていない様子。アイヌ語解釈は金田一京助「アイヌの生活と民俗」から、遠野にもかなり影響を及ぼしている。
また千城央は、他にも"照井"に関するものを示した。宮城県の迫川の昔は「照井川」だった。宮城県栗原市若柳に「照井様」という祠がある。宮城県大崎市小野田には「照井」の地名と6世紀後期古墳とみられる「照井塚古墳」。宮城県登米市南方町・東和町・東松島市赤井に「照井」の地名。岩手県一関市に「照井堰」。岩手県奥州市前沢区な「照井館」。これら照井の名のある場所から推察するに、照井は馬牧を持つと共に馬を使って船を上流に曳いていた可能性があると述べている。
この照井の元々は、物部系熟エミシに属していたとみられると述べている。坂上田村麻呂がアテルイを河内国へと連れて行ったのは物部の祖先神磐船神社の饒速日神に誓いをさせて助命嘆願させる為だったと。しかし、それも叶わず斬首され、そのアテルイの首は故郷である北へと飛んで行ったとの伝説が残っている。つまりアテルイにとっての故郷は、物部の祖先神を祀る地ではなく、東北の地であったという事か。しかし、アテルイの魂を引き継ぐ照井さんは、未だに東北に多く存在している。
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民俗学雑記
dostoev
Sun, 12 Nov 2023 09:32:56 +0900
2023-11-12T09:32:56+09:00
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物部氏と遠野(其の二)土淵の始まり
http://dostoev.exblog.jp/33588630/
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土淵町の地域誌である「土渕教育百年の流れ」によれば「土渕の地名は、大字土渕小字土渕を通称土渕といって、土淵はここから出たという。ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」と記されている。この記されている住所は、常堅寺と観光地となっている、俗に土淵の河童淵と呼ばれる場所となる。「まつざき歴史がたり」の「猿ヶ石川物語」には、濁った淵だから土淵とは書かれているが、常堅寺の裏を流れる足洗川は構造上、元々は濠であったと考えられている。しかしそれでも水源はあった筈である。
「土渕」の「渕」であるが、河原ではよく禊や祭祀が行われていた。同じ土渕の小烏瀬川と琴畑川の合流地点「一の渡」は、カテゴリの遠野地名考「一の渡」で書いたが、一(イチ)が神子(イタコ)を意味する言葉で、河原の祭祀場があったと思われる。そして「渕(フチ)」という名の付く場合、大抵の場合禊場であった可能性を見出している。例えば、霊峰富士山は、火の山で有名になってはいるが、本来は霊峰富士(渕)山であった。天応元年(781年)桓武天皇時代に、富士山が噴煙を上げたのが最古の記録か。それから富士山は火山としての認識が持たれているが、富士の語源の本来は、その麓の水からであった。麓には奇麗な水が湧いており禊場として始まった「渕(フチ)信仰」が本来の富士信仰であった。
諏訪を調べていくと、"諏訪の春日姫"が「大祓祝詞」の女神であった。それが浅間大明神であり、富士(渕)信仰と繋がる浅間信仰になる。また、知らない人が多いが、富士の山頂に"白山"があるのも、元々富士山が水を意識した山であるという事。
「大祓祝詞」に登場する女神とは、早池峯の姫神の事である。その早池峯妙泉寺の末寺としての常堅寺は、ある意味早池峯妙泉寺であり、早池峯山の遥拝所として建てられたのではなかろうか。その早池峯の古くは"東峯"と呼ばれたと記録にある。しかし、"東"とは太陽の昇る方位を意味する漢字である事から、それは恐らく盛岡南部の意思から早池峯を東峯と呼んでいるものと考えていた。しかしだ、物部氏を調べていくと諏訪の"守屋山を東峯"と云う事がわかった。そして物部氏にとっての東(あづま)とは、単に東の方角を意味するものでは無く、特別な意味を含んでいるらしい。
遠野の早池峯を東峯と名付けたのが南部氏ではなく、物部氏であったのならば、それは早池峯が物部氏の崇敬する山である守屋山を重ねた可能性がある。諏訪の守屋山であるが、"諏訪明神は元来守屋山から降臨する"と伝えられている事から、土淵が諏訪明神によって開発されたと伝わるのであれば、土淵の地名の発生した常堅寺の建つ一帯が、早池峯の神の降臨地とみるべきだろう。つまり言葉を置き換えるならば「諏訪明神は東峯から降臨する。」または「早池峯明神は東峯から降臨する。」である。白山中居神社の由緒も、白山の女神が降臨する地であった。それと同じ構図を持った伝承が、上郷町の中居に伝わる伝説。その伝説には南部の殿様が登場しているが、恐らく南部氏が早池峯の遥拝所である上郷町の中居の伝説に自身を組み込んだものと思える。その白山を開山したのが、物部氏の同族である秦氏の泰澄。ともかく、土渕の渕は水神の信仰であり、早池峯の神の降臨地であった可能性がある。
ところで「渕」を「水」として考えた場合、陰陽五行において「土」と「水」は相克の関係である。土が水を汚すとされるので、「土渕教育百年の流れ」の「ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」との記述はある意味、陰陽五行に則っている。ただ別の可能性として、足洗川が濠だとされるように、土によって川の水を抑制した事から土淵となった可能性もある。何故なら、物部氏の同族に秦氏がいる。秦氏は、土木作業に秀でており、平安京の治水を含めた土木作業を行っている。土渕という地名が、川を制圧した地名である可能性もあるのだろう。
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物部氏と遠野
dostoev
Sat, 11 Nov 2023 19:50:57 +0900
2023-11-11T19:50:57+09:00
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駒木の周辺(妙見と秦氏)
http://dostoev.exblog.jp/33576483/
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松崎町駒木であり、遠野馬の里の側に「マンコ長者の愛馬供養の…。」という標柱があり、その奥にマンコ長者の愛馬を祀った駒形神社(蒼前堂)がある。
この駒形神社には謂れが二つほどある。一つが、マンコ長者の愛馬が倒れ供養の為に神社を建立し、旧1月16日を縁日として参拝したとの説。もう一つは、八幡太郎義家が桔梗ヶ原にて狩をしている際に、秀馬が脛を折った為にこの地に神社を建立し祀ったので「脛折り蒼前」と名付けたという、どちらも信憑性に欠ける伝説となっている。
ところでこの「マンコ」だが、現代ではいささか口に出し辛い名称となっているが、本来は目の上の女性に対する尊称であったようだ。また有名な「曽我物語」での曽我兄弟の母親の名は「満江(まんこう)」で、四国の果てまで旅をし伝説を作った事から、あちこちに「まんこ屋敷」と呼ばれる跡地があるらしい。民俗学者の松山義雄は「"まんこ"は、童子の霊の口寄せの巫女の名前であったかもしれない。」と述べている。可能性として、"まんこ"という女長者はいなかっただろうが、"まんこ"と呼ばれた高名な巫女は、この駒木の地にいたのかもしれない。この駒木の地に住んでいた巫女であるまんこの、一頭である愛馬を祀った蒼前堂であるならば、八幡太郎義家の馬を祀ったという話よりも信憑性は高くなるだろう。
ところで、この駒木の地に館跡がある。「遠野市における館・城・屋敷跡調査報告書」によれば、この駒木地域では「館」とだけ伝わっており、地域を考慮して「駒木館」とはしているが、情報は一切不明としている。この報告書の調査員は、その理由として南部藩時代に「語部」を禁止した事をあげている。この語部とはつまり、敗者の伝承を禁止したという事。ここでの場合、南部氏以前に遠野を支配していた阿曽沼という事になるだろうか。しかし、それ以前となると奥州藤原氏や、その祖である安倍一族まで遡るのかどうか。ただ事実として、この駒木の地に誰かが住んでいた事が、調査でわかっている。
また、地域紙である「まつざき歴史がたり」でも「駒木の人々でさえ"駒木館"の存在を知る人は少ない。」と述べている。気になったのはその駒木館のある地形の記述だった。「後ろに高栖山を背負い」とある。これは「琴畑と妙見」でも書いたが、鷹は鍛冶の神でもあり、産金・冶金に深く関わる。その鷹をシンボルとしているのが、古代の豪族である秦氏である。大和岩雄「秦氏の研究」「河内・山城の鷹巣山。鷹尾山・鷹ヶ峰」の項で、「"鷹巣を名乗る氏族が秦氏系"であることからみても、秦氏が鷹をシンボルとしていることは明らかである。」と述べている。とにかく全国の、鷹巣・鷹尾の付く地名・山名に関係しているのが秦氏である。恐らく、駒木館の背後の山の本来の名は、鷹巣山であろう。
この駒木の駒形神社の額には「蒼前堂」と書かれている。この蒼前(そうぜん)は「勝善(しょうぜん)」とも言われ、福島県相馬地方の妙見信仰は、勝善神と習合し牛馬の守護となっている。この蒼前堂の狛犬が牛であるのも、その影響によるものだろう。そして馬は妙見の化生、使徒であるともされた。
恐らくだが、遠野で有名な旗屋の縫の「旗屋」も、秦氏の秦ではなかったか。「旗屋の縫物語(山の祟り)」に登場する暗い夜道に現れ、旗屋の縫を家まで導いた白馬は、暗闇から目的地へと導く星の役割を担っていた。その旗屋の縫の観音堂手前に白馬を祀る駒形社の根底は、妙見と馬との結び付きを意図したものであろう。駒木の地の蒼前堂も含め、鷹巣山など、ちらほせと秦氏の顔がチラつく。実際、阿曽沼氏が横田城を築く以前に、近くには奈良時代の遺跡とされる高瀬遺跡がある。その高瀬遺跡からは「物部」と記された須恵器が出土している事から、その物部氏の同族ともされる秦氏が遠野に来ていてもおかしくはない。いずれ言及するが、横田という名称も「横田物部」と云われた物部氏が遠野に移り住んでのものではないかと考えている。同じ、横田村である陸前高田に「猿楽」という地名があるのだが、猿楽の祖は秦氏である事からも、陸前高田の横田村も秦氏が移り住んだものと考えている。
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民俗学雑記
dostoev
Mon, 06 Nov 2023 15:03:13 +0900
2023-11-06T15:03:13+09:00
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