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【書評】耳に棲むもの|耳に纏わるざらついた物語【小川洋子】

 

 随分長い間が空いてしまった。

 12月以降、他界した伯父の後始末であったり、年末年始のごたごたであったりで、すっかり無沙汰になってしまった。気付けばクリスマスもとうに過ぎ去り、早くも新年である。皆様、明けましておめでとうございます。どうぞ今年も、本ブログをよろしくお願いいたします。

 

 聞くところによると、今年のお正月は(人によっては)9連休だそうで、そういう方々はどのように過ごしたのだろうと想像する。実家に帰ったり、初詣に行ったり、紅白を見たりしたのだろうか?

 残念ながら私は世間と逆行する9連勤で、あまり年を越したという実感がない。紅白も初詣もなく、出来合いのおせちをちまちまと摘まんだ程度である。しかし暦は2025年に突入し、普段使っている手帳も新調する必要に迫られている。

 

 近頃は転職活動に追われ、なかなか読書の時間を確保できないのだけれど、言い訳ばかりしている訳にもいかないので、原点回帰で書評ブログである。小川洋子さんの「耳に棲むもの」。雑誌「ダ・ヴィンチ」で取り上げられており、気になったので購入した。

 小川洋子さんと言えば、遥か昔に「博士の愛した数式」を読んだことがある程度で、内容もほとんど広島カープのことくらいしか覚えていない(あとは博士の記憶が短い時間しかもたないということくらいか)。

 

 はてさて、博士もびっくりの忘れ具合で、小川洋子さんの世界観に浸れるものだろうか。さながら近所の得体の知れないレストランを覗くような心持ちで、私はこの本のページを開いた。或いは、他人の耳の中を覗き込むような気持ちで。

 

 

  • あらすじ

「耳の中に棲む私の最初の友だちは涙を音符にして、とても親密な演奏をしてくれるのです」

補聴器のセールスマンだった父の骨壺から出て来た四つの耳の骨(カルテット)。あたたかく、ときに禍々しく、静かに光を放つようにつづられた珠玉の最新作品集。

 

  • 書評

 あまりにもざらついた物語だった。ざらついた、という表現には、二種類の意味がある。それは読者と物語の接地面に対してであるし、或いは作中の人物同士の接点に関してでもある。

 

「ざらついた」という表現を最近耳にする機会があった。確か話していたのは、Youtubeで活躍されている精神科医の先生だった。とは言っても、別にその文脈は「耳に棲むもの」とは関係ない。その先生は、対人関係を表すボキャブラリーとして「ざらついたもの」という表現を使っていたのだ。

 

 これはとてもリアルな言い回しである。人と人の関係は、パズルのピースのように規格化されたものではない。どれだけ仲が良い人でも相容れない部分はあるし、そういう部分に眼を瞑ったり、攻撃したり、逆に攻撃されたり、腹の読み合いをしたり……そういう小競り合いの総体として、人間関係はあるのだと思う。

 

 とは言えそれは、ノイズである。単純な波形でなく微細なノイズまで汲み取ろうとすれば、当然ながらそこには鋭敏な聴覚が要求される。またそれを物語として再形成しようとすれば、情報の取捨選択を迫られることだろう。何故なら、心の動きを微に入り細を穿って描き出せば、当然ながら冗長で読めたものではないからだ。

 

 そんなことを考えていると、ふと私の中で補聴器の役割と重なった。必要な音を汲み取り、不要な音を消し去る。それは補聴器の基本的な役割なのではないか。

 

 この物語において、補聴器はキーアイテムである。しかしそれが実際的な働きをすることはほとんどない。大抵は主人公の同一性を担保するアトリビュートとして登場するに過ぎない。

 しかしこの補聴器は、大切なことを伝えようとしているのではないか? それは耳に収まり、その洞穴を防ぐことで、ささやかな心のノイズを汲み取ろうと――そしてそれを、取りこぼすまいとしていたのではないだろうか。

 

 前置きが長くなったが、「耳に棲むもの」には、そうした小さなささくれのような感情が丁寧に描かれている。耳のカルテットというモティーフは不思議だが、その不思議さに翻弄されることはなく、文章は飽くまで淡々としている。

 読んでいて、私は食パンを連想した。それも日にちが経って乾いた食パンである。素朴な味わいと哀愁がもたらした共感覚なのかもしれない。

 

 それは時にロマンチックでありながら、時に残忍で、エロティックですらある。例えば「踊りましょうよ」での耳の穴をぴったりと合わせて踊る場面は、不思議な艶めかしさがあるし、「選鉱場とラッパ」の犬を蹴り上げる場面は唐突で残酷でありながら、同時にその身勝手に共感できる部分もある。

 

 ただしそれらは、感傷的なエピソードとして描かれている訳ではない。作中の補聴器のセールスマンが持ち歩くクッキー缶の中身のように、ひとつひとつ小さな物語が開示されるのである。取りこぼさない為には、しっかりと耳を澄まさなければならない。その、ある意味で丁寧でない距離感こそが、物語と読者の間にあるざらつきである。

 

 

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